第8話

 暖房の利きが悪いと感じながら、信春はほうじ茶を啜った。入れたばかりのそれは、ともすれば火傷しそうなほどの熱をはらんでいたもののしばらくすればぬるくなり、ついには冷たくなるだろう。季節柄、この予想の精度が高いらずだった。

「温まるねぇ」

 テーブルの向こう側。同じくほうじ茶を口にして、満面の笑みを浮かべる真衣は、緑色のジャージに身を包んで、すっかりと脱力している。

 家出してきたおぼしき女がやってきて半年近くが経過した今日。もうそろそろ大学の後期の試験及びレポート提出期間もほぼほぼ終わり、比較的長い春休みへの突入も間近だった。ここのところバイトのシフトや、個々の予定などによって時間が合わないことも多い中、久々に落ち着いた時間が訪れている。

 夕食を終えたあと、信春は一心地吐きながら、テレビも付けずに静かに座りこみ、茶をもう口に含む。先程、自分で淹れてきたその味は、箱に書かれた製法通りに作ったためかいたっていつも通りだったが、温かいという一点のみで至上の価値があったといっていい。とにもかくにも冬場のこの家は、隙間が多いせいかただただ寒いのだから。もっとも、人口密度が一人濃い分、去年よりは幾分かマシではあったのだが。

「寒いの?」

 真衣の問いかけに信春は、暑くはないな、と応じる。女は、困ったねぇ、とぼんやり告げたあと、自らの胸を一回叩いた。

「なんなら、私の胸に飛びこんでみる? 一人でいるよりは温かいと思うけど」

 自信満々に告げる真衣の前で、信春は何度か瞬いてみせたあと、

「それもいいかもな」

 などと応じた。途端に真衣はわざとらしく肩を竦める。

「もうちょっと、面白い反応をしてくれるといいのに」

「そりゃ何度も言われればなぁ」

 この手のやりとりも、冬の間に何度交わしているせいか慣れっこになりつつあった。

 途端に、よよよ、と泣き崩れる格好をし出す女。

「昔はあんなに初々しかったノブ君が、随分と汚れてしまったみたいで、私は残念でならないよ」

「汚れたって、お前なぁ」

「お前じゃなくて」

「真衣だろ。悪かったよ」

「わかればよろしい」

 小さく胸を張る女の姿に、このやりとりも随分慣れたなと実感する。この家に来たばかりの頃に比べれば共有する時間は減りこそしたものの、それでも同じ屋根の下に半年近く暮らしていれば、お互いの間に慣習のようなものも生まれてくる。

 女の背後の壁に張ってあるカレンダーは、一面の雪景色の写真が上に張られた二月のものになっていた。

「そう言えば、雪、降ったなぁ」

 自然と頭には帰省先の景色が浮かんだ。ちょうど、実家に向かった日。駅舎を出たところで雪掻きのあとの上に更に降り積もろうとする白い華に出会った。

「ノブ君が、あんまり雪は降らないって言ってたのに、行って早々降っててびっくりしたよね」

 真衣にも一発で通じたらしく、愉しげに頬杖をつく。もっとも、今年は信春と真衣が通っている大学があるこの町ではまだ雪が降っていないため、すぐにピンと来たのだろう。

「ぶっちゃけ、俺が一番驚いた自信がある」

 後々、例年でも稀な降雪多発の年になった、という報道を聞いて、やっぱりなと頷いたが、故郷に着いた際はそんなことは知らないままだったため、戸惑いは大きかった。その後も、帰省中のおおよそ半分の期間、天気は雪だったため、初詣などを除き、あまり外に出ないように暮らしていた。

「迎えに来てもらえて良かったよね。ちょっと遅かったらそれもなかったかもしれないって言ってたけど」

 駅まで車でやってきた信春の父が、二人を拾いあげた数時間後、道はすっかり雪で埋まってしまったという話を耳にして、もしもぎりぎりに帰省していたら、と振り返り怖くなったりもした。駅前の宿も、急な雪ゆえにいっぱいになっていた可能性もあったと思うと、尚のことだった。

「無事家に着けたときは、俺もほっとしたよ。こんな年ってあんまなかったから、どうなるのかな、ってわかんなかったし」

「それは私の台詞だよ。でも」

 そこで一端、言葉を止めた真衣は、テーブル端の置物の集まりをに視線をそそぐ。カエルや熊、イルカやサメの後ろ、信春の実家から持ち出されたくりくりとした目をしたオオカミのぬいぐるみが行儀良く座っていた。

「いいところだったと思うよ」

 噛みしめるような言葉に、信春はこそばゆさをおぼえる。

「だったら、良かった」

 真衣を迎え入れた両親にすぐ近くに住んでいる祖父母、たまたまきていた従妹とその両親。おそらく、信春が恋人を連れてくる、とでもいっておびき寄せられただろう両親以外の親族は、とにかく真衣に対して興味津々な様子だった。従妹と母、祖母辺りが、根掘り葉掘り話を聞き出そうとしているのを見て、さすがに真衣も困っているのではないのかと割って入ろうとしたが、お前はどいていろ、といわんばかりに弾き返され、半ば強制的に男四人で酒盛りをすることになった。それはそれで、信春としても慣れ親しんだ空気かつ、愉しい気分に慣れたものの、やはり連れてきた手前、一人で女四人に囲まれている真衣が気にかかった。

 心配しなくても大丈夫だよ。お母様も、叔母様も、お婆様も、茉莉(従妹の名前)ちゃんも、みんな面白い話をしてくれるし、私は私で、ちっちゃかった頃のノブ君の話を聞けたりして楽しいし。本人に直接尋ねた際に、笑顔とともに返ってきたのがこういった感想だった。何かと我慢してくれた可能性は残っているものの、旅行中も絶えず力の抜けた笑顔を浮かべていた真衣の様子からするに、信じていいのではないか、と思えた。前述のように、雪が降っている日が多かったため、なかなか外にも出にくく、一日中、家の中にいることも珍しくはなく、その点に関しても退屈させてしまっていなかったか、と気がかりではあったが。

「色々貴重な話も聞けたしね。ノブ君が小さい時のこととか、ノブ君が小さい時のこととか」

「母さんや茉莉に何を吹きこまれたんだよ?」

「吹きこまれただなんて、そんな。……たとえば、アニメ映画で、当時好きだったアニメキャラの名前を絶叫したこととかは、なかなか面白かったかな……」

「それ、俺自身も、ガキ過ぎたせいかよく覚えてないことなんだが」

 それでいて、指摘された際にはえらく恥ずかしいことな上、しでかしたことの大きさ的になんともいえない気まずさが残る類の事柄だった。真衣はカラカラと笑いながら、

「いいんじゃない。私は、子供らしくて好きだよ」

 他人事だからか、えらく気楽に言ってみせた。

「良くないよ。俺、映画で同じことされたら、舌打ちくらいはしそうだし」

 虫の居所と気分次第では、手を出したくもなりそうだったが、さすがに子供相手以前にすすんで喧嘩を売るのもどうか思い、口にするのをためらう。

「もう。ノブ君は短気だなぁ。たしかに気持ちはわからないでもないけど」

「万が一子供ができて、同じような状況になったら、よく言い聞かせたいなって思うし」

 もっとも仮に子供ができた場合、この言い聞かせの前に、いくつも説得が横たわっているだろうことは、想像に難くない。信春も、自らが子供の時を思い出しただけでも、相当、まずいやらかしをしている場面が多々見受けられるのだから、まったく未知数の息子やら娘やらができた際に、それと同じ、あるいはそれ以上にやんちゃであったり、言うことをなかなか聞いてくれない類の相手であってもおかしくはない。

「そこはケースバイケースじゃないの。実際に子供ができてみないとなんとも言えないだろうし、いざ、実物と向き合ってみたらもっと先にやることが出てくるかもしれないし」

「まあな。ただ、俺自身は、例の映画館の件を指摘される度に、ものすごく恥ずかしい思いをしてるから。なるべく、同じような思いはさせたくないっていうか」

 それこそおぼえていないにもかかわらず、もだえそうになるくらい恥ずかしくなる以上、万が一、欠片でも映画館のことをおぼえいたりしたら、傷はもっと大きくなるかもしれない。

 真衣は一瞬顔を引き攣らせ、

「そんなに嫌なのの?」

 意外そうな声で尋ねてくる。信春は間髪に入れずに頷いてみせた。

「正直、今も、あんまり話題にされたくないくらいには」

「ごめん……そんなに嫌だとは知らず」

 ぺこりと頭を下げる真衣。嫌ではあるものの、そこまでしてもらうつもりはなかったため、頭を上げてくれ、と口にしたあと、どことなく不安気な女の顔を覗きこむ。

「たしかに嫌ではあるけど、そこまで深刻に受けとらないでもいいから。できれば避けてくれるくらいの感じで」

「わかった。気を付けるね」

 まだまだ表情が固い真衣を見て、信春は自らが招いた事態であるとわかりつつ、どうにかして顔をほぐしたいな、と思った。

「他には、どんな話をしたんだ?」

 困った挙句、さしあたってこの話題を続けることを選び、湯呑みを傾ける。茶は大分、冷めていた。

「うぅん、そうだなぁ……色々話したけど、やっぱりノブ君の子どもの頃のことが多かったかな」

 そう口にした真衣は、おそるおそるといった調子の上目遣いを信春に向ける。件の映画館の話のせいか、何を口にするべきか少々神経質になっているようだった。

「とりあえず、聞かせて欲しいかな。真衣が話したくないならいいけど」

「私はかまわないけど、ノブ君が嫌だって思ったら言ってね。すぐに止めるから」

 そう言った真衣は、こめかみの辺りに人差し指を軽く当て、考える素振りをしたあと、

「昔から、どっちかといえば家の中にいることが好きな子だって、お母様は言ってたね」

「そうだな」

 故郷が広々とした土地だったのもてつだって、地元の子供たちはどちらかといえば外遊びを好んだし、実質妹のようだった茉莉も外に引っ張りだそうとしていたが、信春自身はあまり体を動かすことが得意ではなかったし好んでもいなかった。

「かといって、家の中にいてもごろごろしてて、時々、猛烈な勢いで絵を描こうとしたり、埃を被っていたピアノとかギターを弾こうとするけど、どれもすぐに飽きて上手くいってなかったとかなんとか」

「随分な言われようだな……当たってるけどさ」

 子供の頃にやってみようとしたこと。正直なところ、どれもこれも成功体験に乏しい。もっとも、理由は真衣の口にした通りの飽きっぽさだとか、上手くいかなかったらすぐに止める根性のなさなのだが。

「友だちは多かったとも言ってたね。初詣の時に、色んな人が話しかけてくるのを見て、実感したけど」

「まあ、な」

 そこはっきりと恵まれていたと、信春は思う。何かと外へと引っ張り出そうとしてくれる従妹をはじめとし、子供たちを率いる年上のお兄ちゃん、人一倍運動神経に長けた幼なじみ、よく本を読む何かと思慮深い地主の娘の少女。こういった者たちと幼い頃から知り合い交流を深めていたのもあって、交友関係だけは広がったし、誰とでも足並みを揃えることができていた。

「今もノブ君はサークルで可愛がられてるところを見ると、昔からその片鱗があったんだねぇ」

「たまたまだよ」

 応じながらも、なんともありがたいことだ、という実感を深める。とりわけこの町にやって来たばかり頃は不安で仕方なく、サークルに入ってすぐに友人や新たな先輩ができた時には正直なところほっとしていた。

 大学入学当時のことを頭に浮かべる信春の前で、真衣はなぜだか不思議そうな顔をしている。

「でも、そうなるとよくわからないなぁ」

「なにが?」

 問いに対して女は、オオカミのぬいぐるみを胸に抱え込みながら、

「なんで、そんなに友だちが多いのに、地元を出ようと思ったの?」

 そんなことを尋ねてきた。

「同じ県内とか、隣り県くらいだったら、気軽に遊びに行けそうだからわかるけど、ノブ君の地元からこの町ってかなり遠いでしょ。なのに、なんでここに来ることを選んだの?」

 一端言葉を止めた真衣は、もしかして地元の大学に落ちたとか? とおそるおそる聞いてきた。まあ、そう思うよな、と考えつつ、信春は首を横に振る。

「いや。受かった大学の中には、実家の近くもあったよ。それでいくつか受かった大学の中から考えて、この町に来ることを決めた」

「なにが決め手だったの?」

 ごまかしても良いんじゃないか、という薄っすらとした考えが頭をかすめたが、今の真衣相手にそういうことはしにくく、またしたいとも思いにくかった。

「ものすごく雑に言えば、一回、誰も知り合いがいないところに住んでみたかったってことになるかな」

 仮に地元で進学して友人たちと大学生活を送るのも、それなりに幸福であったのではないのかと、と信春は思う。信春と同じように、進学を機に別の土地へと旅立って行った人間もそれなりにいたものの、知り合いの大部分は実家から大学へと通ったり就職したりしていた。そこで暮らす、というのも楽しかっただろうな、というのは、こちらに来てからも何度か後悔することもある。ただそれでも、信春は外に出ることを選んだ。

「故郷に不満があったの?」

「いや、なかったと思う。あっちはあっちで満ち足りていたから。強いていうならなんでもあったからこそ、俺はこっちに来たのかもしれないな」

「なんでもあったから?」

 眉に皺を寄せる真衣に対して頷く。気を悪くするかもしれない、というおそれはあったものの、話を続けようとする。

「そう。なんでもあったからこそ、いざ一人になったらなにができるんだろう、って思ったんだ」

 当然、親や友人からの反対はあった。今通っている大学と、受かっていた地元の大学は同じくらいのレベルであったし、学科にもそれほど違いはなかった。だからこそ、どうせなら無理して遠隔地に行く必要はないというのが親の意見であっただろうし、友人たちからも地元の方が楽しいだろうと熱く説得された。こうした言に、信春は何度も妥協して地元の大学に行ってしまった方がいいのではないのかと心を揺らしたものの、最終的には我を通した。一人でやってみたい、と素直に伝えたうえで。

「まあ……啖呵を切ったのはいいんだけど、実際にこっちに来てみたら、自炊も講義も思った以上に大変でな。知っての通り、今年の夏頃まで仕送り頼りでぐだぐだ暮らしてた」

 こうして言葉にしてみると、情けないかぎりだ、と我がことながら信春は思う。それはそれとして、真衣がやってくるまでの一年半の間、サークルを中心としてたしかな足場ができあがっていた。

 真衣はどこか嘲るような笑みを浮かべる。

「結局、一人での生活は上手くいかなかったわけだね」

「身も蓋もない言い方だな。その通りだけど」

 振り返ってみれば、変化のきっかけは真衣が転がりこんできたことにほかならない。共同生活によって、手間に関しては一時的に増えたものの、見ず知らずの他人が紛れ込んだことによって背筋がしゃっきりしたのかもしれなかった。真衣はオオカミのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、

「ノブ君は幸せものだねぇ」

 頬を弛める。急な表情の変化に信春は驚く。

「いい人が周りにいて、一人になっても気にかけてくる人がいる。おまけにこんな美女つき」

 わざとらしい仕種で自らを指差す真衣。信春は少しの間、どう反応していいのかわからず戸惑ったものの、結局、そうだなと頷く。女は目を細めたあと、困ったように笑った。

「そこは、美女なんてどこにいるんだ、とか言うところでしょ? まったく、ノブ君は……」

 茶化すような口ぶりの真衣は、オオカミのぬいぐるみを元のところに置き直してから、その頭を優しげに撫でる。

 けっこう綺麗な顔してると思うけどな。信春の心の中にあった台詞は、照れくさかったり気障な気がしたりしたのもあって、そのまましまいこまれた。

「けど、こっちに来てみて良かったと思う」

 代わりに言ったのは、ややぼんやりとした今現在の実感。

「あの実家よりも?」

 軽い口ぶりの問いかけは、その裏にどっしりとした何かを窺わせた。信春は、真衣が求めている言葉はどういったものだろうと測ろうとしたあと、そういうのは違うんじゃないかと感じて、思考を断ち切る。

「どっちが良かったかは、よくわからないけど。今の生活は今の生活で気にいってるからさ。だから良かったなって」

 あったかもしれない地元での大学生活は、もはや影も形もない。ならば、振り返るよりも今現在をしっかりと味わうことが大事なのではないか。そんなことを信春は思う。

「そっか」

 真衣は何を思ったのだろう。右手で湯呑みを持ち上げると、勢いよく飲み干した。思わず釣られて、同じように茶を啜れば、もうすっかり冷え切っている。どうやら、知らない間にすっかり時間が経ってしまったらしい。

「それを聞いて少しだけ、安心したよ」

 真衣の物言いに、それはどういう意味か、と尋ねようとしたが、なんとはなしに追求をためらってしまう。女は静かに伸びをしたあと席を立った。

「まだお湯入ってないと思うけど、今日は先にお風呂もらっていい?」

「かまわないよ」

「なんなら、一緒に入ってもいいけど」

 ニヤつく真衣を見ながら、力なく風呂場の方を指差す。

「いってらっしゃい」

「ちぇ、つれないなぁ。この間は、入ってくれたのに」

 あったなそんなこと、とぼんやりと思い返しながら、

「また今度。もうちょい温かくなったらな」

 ぞんざいに応じる。

「言ったね。覚えてるから」

 背を向けて、後ろ手をひらひらと振る真衣。そのまま、ゆっくりと歩き去っていく女の背を見送ったあと、空になった湯呑みを覗きこんだ。こころなしか、気温以上に寒くなったように思えて、なにかないかとテーブルの上を見回し、先程まで真衣の胸元にあったオオカミのぬいぐるみを見つける。ゆっくり持ち上げて胸に抱けば、思いのほか温かく感じられた。

「もしかして、真衣も寒かったのか」

 後で聞いてみるか、と考えながら、どうにもこの場から動く気になれないままでいる。徐々に体温は下がりつつあったものの、もう少し、ここにいたいと思った。

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