第6話

 麗らかな朝。大学に行かなければと席についた信春は、反射的に点けたテレビ画面に特撮が映ったのを見て、今日が日曜日だと思い出した。まだまだ頭がぼんやりとしていると、自らの頬を引っ張りながら、コーヒーでも淹れにいくかと席を立とうする。直後に薬缶から出たとおぼしきピューッとした音が響き渡った。

 あいつの方が先に起きてたのか。そう察してすぐ台所の方から、お茶とコーヒーどっちがいい? と真衣の声が降りかかってきた。

「じゃあ、コーヒーを頼めるか」

「合点承知」

 何時代の人間だよお前。返ってきた答えにそんな感想を持ったあと、欠伸を噛み殺す。目の前にはカエルの置物と、その隣になぜか木彫りの熊が並べられていた。二月ほど一緒に暮らしているが、よく趣味がわからない、と思う。

 さほど間を置かず、マグカップを二つ手にした真衣が小走りでやってきた。

「はい、どうぞ」

「さんきゅ」

 マグを受けとってから、黒い液体の表面に息を吹きかける。円状の波紋となって揺れる水面を見下ろしたあと、一口。舌先に熱と苦味が広がっていくのに合わせて、意識がはっきりしていく気がした。

「どうよ、コーヒー? けっこう自信あるんだけど」

「ここの設備で、工夫するところなんてあったっけ」

 それこそ、適当な量をカップに入れて、これまた適当な量のお湯を流しこむだけというお手軽作業。少なくとも、信春はそのやり方しか知らない。

 真衣は、甘いよ、とニヤリとする。

「粉とかお湯をちゃんと計って作れば、ちゃんと美味しくなるんだから」

「そんなもんなのか」

 少なくとも、目覚しい違いは感じとれない。そもそも、真衣のコーヒーに対するこだわりを聞いたのも今、初めてであるため、言っていることがどこまで正しいのかもいまいちわからない。

「ノブ君は舌が雑だねぇ。そんなんだと作り甲斐がないよ」

 やれやれ、なんて言いたそうな顔をしながら、女は自らのマグの上で鼻をひくつかせ、気持ち良さそうな顔をする。その際、微妙に処理されていない鼻毛がちらりと覗いた。

「俺も真衣も、そんなに料理、上手くないだろうが」

「ノブ君はともかく、私は巻き込まないで欲しいな。私は違いがわかる女なんだから」

 いかにも心外だという口ぶりのあとに、コーヒーを一口含む真衣。信春はそれが嚥下されるまで見守ったあと、

「じゃあ手始めに、淹れたばかりのコーヒーといつものコーヒーの違いを説明してもらえるか?」

 何の気なしに尋ねる。途端に目を丸くする真衣の顔を静かに見つめ続けた。

「ええっと……よく嗅いでもらえばわかると思うんだけど、いつもよりも香ばしくない?」

 言われたとおりに鼻をひくつかせる。その際に、信春もまた鼻毛を処理していないなという事実を思い出し少々恥ずかしくなった。

「いつもとそんなに変わらなくないか」

 同じ、とまでは断言できないまでも、似たようなもの、と判断する程度には、違いは感じとれない。信春の言に、真衣は目を泳がせながら、ええっと、を重ねていく。

「味も、酸味がこころなしかいつもより増している気が……したりしなかったりしない?」

 確かめるべく、先程より少しだけ冷めたコーヒーに口をつけた。

「いつもと変わらなくないか」

「……やっぱり、ノブ君の舌は鈍い、んじゃないかなぁ」

 言いつつも、わずかながらに目線を逸らしコーヒーを口にする真衣。そうしたあと、スティックシュガーが入った小盆を手元に引き寄せる。

「これを入れるともっとおいしくなるけど、ノブ君もどうかな?」

「今は朝だし、ブラックの方がいいかな」

「そっかそっか。それはもったいないなぁ」

 言いながら、包みを破いた。パラパラと落ちる白い粉の様を眺めたあと、信春は戦隊者のドラマを途中で切り、チャンネルを替える。ニュースやワイドショーやアニメなどを断片的にちら見したあと、自国の古い油絵画家の特集を行なっている教育テレビでチャンネルを止めた。さほど、興味はなかったものの、どことなく癖のないタッチの洋画は休日の朝に見るのにはちょうど良かった。

「ノブ君、お疲れ? けっこう寝てたと思うけど」

「バイト、始めたばかりだからかもな」

 応じながら、体に残っている筋肉の軋みを思い出し、どっと疲れが押し寄せてくる。

「初バイトだっけ?」

「ああ」

「慣れだよ慣れ。大変なことは減……ったり増えたりするかもしれないけど、とりあえずは慣れるよ」

 なにやらアドバイスの方向性を変えた真衣の言葉に、今後の不安を募らせつつも、コンビニ業務の覚えることの多さを思い、目が回りそうになっている。

「けど、一刻もここのところの借金を返さなきゃならない私と違って、ノブ君はもっとだらだらしててもいいんじゃないの。そんなにお金に困るような生活も送ってないし」

 そこまで言ったところで、何かに気付いたように自らを指差す真衣。

「もしかして、私の食費とかが思いのほか響いてたりするの? だったら、もっとてっとり早く稼げそうなバイトとかするけど」

「それはないから、安心してくれ。蓄えは充分ある」

「それだったら」

「元々、いつかはやろうと思ってたんだ。遅かれ早かれ、働くんだしな」

 どのみち、大学に講義を受けに行って、たまにサークルに寄るくらいしかしていない現状、信春は時間を余していた。かといって、趣味らしい趣味も持っていない。それならばバイトをしようと決めた。

「それはそうだけど。無理はしなくても良くない?」

 一転して心配そうな眼差しを向けてくる真衣。信春はコーヒーを一口飲み、ちょうどいい熱さだと思う。

「それも慣れだろ。なんにしても、はじめたばかりでぐだぐだ言っても仕方ないしな」

 とりあえず、もう少しやってみるしかない。そう割り切ろうとするものの、これまで三日坊主で沈んできた趣味の数々が頭を過ぎってのもあり、ちゃんとバイトを続けられるだろうか、という新たな不安が湧きあがる。

 真衣は、どことなく気遣わしげな目を信春に向けていたが、程なくして一つ頷いてみせてから、

「たしかにね。でも、なんかあったら言ってよ。できるだけ、力になるから」

 気の抜けたようでいて、底に強さを窺わせる声でそんなことを口にし、マグカップを唇の前で傾ける。その後、うん、やっぱりコーヒーはこれくらいの甘さがちょうどいいね、と気持ちの良さそうな笑顔を浮かべた。

「そういう真衣の方はどうなんだ」

「どうなんだって、なんのこと?」

「バイトだよ、バイト」

 信春よりも少し前に、今まで借りた金を返したいという名目で真衣はバイトをはじめていた。そして、始めてから今日までの間、これといった情報は入ってきていない。

「ああ、バイトね」

 今思い当たったというように目を見開いた女は、カエルの置物の頭を人差し指で何度か撫でながら、

「割といい職場だと思うよ。シフトもけっこう融通が利くし、人間関係のトラブルも今のところないし」

 気楽そうに言った。

「そう言えば、何のバイトをやってるんだ?」

 信春も真衣がバイトをはじめたということだけは知っていたものの、なんとなくその中身に関しては、今日まで追及しないでいた。

「接客業だよ。ノブ君のコンビニと似たようなもの」

 真衣は何をやっているのか直接言及しない。ただ、そんなに強く隠している、というわけではなさそうで、強く出れば教えてくれそうだな、と信春は思う。

「そうか。なんか、大変なことはあるか」

「なに、心配してくれるの?」

「まあ、それなりには」

 信春の物言いがつぼに入ったらしく、真衣は噴きだしたあと、唐突に照れくさそうな顔をして、

「ありがと」

 短く告げて、シュガースティックをもう一本取りだす。

「砂糖、入れ過ぎじゃないか」

「甘いね。いや、実際に甘いからこの言い方は変か……とにかくこのくらいが、ちょうどいい甘さなんだよ」

 応じながら、マグカップを傾ける真衣。その顔を正面から見据えつつ、バイトにかぎらずではあるが、なんとなく聞いていないこと、というのが二人の間にはいくつも横たわっているな、とあらためて認識する。真衣の方も家出し続けている詳しい事情を話そうとはしなかったし、信春にしたところで特に聞こうとしなかった。それで今のところ困ってはいないし、おそらく困ることはないだろう、とどこか楽観してるところがある。

 しばらくは、こんな生活が続くだろう。そんな漠然とした予感。

「ねえ、ノブ君」

「なに?」

「今日、どこかに行くだけの元気はある」

「できれば、家でだらだらしてたい」

「正直だなぁ……じゃあ、午後までに元気が戻ってたらなんだけど」

 テーブルの真ん中に置かれたのは、最寄り駅にできたらしい水族館の無料招待券二枚分だった。

「ここに行こうかってこと?」

「うん。バイトの先輩から、これをもらったから」

「もしかして、真衣のバイト先って」

「ううん。それは関係ない。なんでかわからないけど、先輩が横流ししてくれたの」 

 首を横に振ってみせてから、カップをテーブルに下ろしたあと、両手で顔を覆うかたちで頬杖をつく。

「それでどうする。期限までけっこうあるから、別に今日じゃなくてもいいし、あんまり水族館好きじゃないとかだったら」

「いや、そういうわけじゃない」

 真衣の推測を否定したあと、信春は自らの体のだるさと行きたいかどうか、ということを天秤にかけたあと、

「行こうか」

 手早くそんな結論を出した。

「いいの? ほんとに?」

「真衣こそ、行きたくないのか?」

「いや、そういうわけじゃないけど。疲れてそうな割には、すぐに決めたから」

「なんとなく、行くんだったら今行っておいた方がいいなと思ったから」

 頭の中には、いつか行こうという気持ちばかりをずるずる引きずって、券の期限が切れてしまった、なんてありがちなことになりかねない、なという懸念がある。だったら、今だろう、と。

「そっか。てっきり、私とのデートになんとしてでも行きたいから無理してくれたのかなって思ったんだけど。そっちは思い過ごしだったのかな」

 からかうように口にした真衣に、

「それも……なくはないな」

 静かに応じた。真衣は素早く目を瞬かせたあと、小さな熊の木彫りに視線を注ぎ、そののどの辺りを人差し指でなではじめる。

「……はっきり言われると、それはそれで照れくさいね」

「そう思うんだったら、振るな」

「まあ、そうなんだけどね……」

 まるで猫ののどをごろごろさせるような手際を木彫りに試す女は、なかなか再び目を合わせようとしない。しばらくこのままだろう、と判断した信春もまた、引き続きテレビに目を移す。ナレーターにより語られる油絵画家の壮絶な晩年の様子に、ベランダの方から聞こえてくる名も知らぬ鳥たちの鳴き声が混ざっていくのを両方耳にしながら、しばらくの間、ぼんやりとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る