第4話
帰宅して早々、信春は机の上にぐったりとねそべった。
「あれれ、ノブ君ってば、そんなに疲れちゃったの。毎日、外に出ている割には運動不足なんだね」
さもおかしげだとうような真衣の声に苛立ちながら、のろのろと顔をあげる。こころなしか普段より浅黒さが強調されているようだった。
「お前が体力、あり過ぎなんだよ」
頭の中では本日、昼過ぎから歩き回った商店街の店舗の数々が頭をかすめる。女性服専門店、やや柄の悪そうな靴屋、町の外れにあった意外と品揃えが多い薬屋、本屋を名乗ってはいるもののジョークグッズやら駄菓子などが並んでいるこじゃれた雑貨屋などなど。その後、喫茶店で軽い休憩を挟んでから、八百屋、魚屋、肉屋などで晩御飯の買い物に精を出したが、前半の数多の店舗への冷やかしでへとへとになりかけていた信春にはやや荷が重かった。
「ちょっと。お前って呼ばないでって言ってるじゃんか」
不満げに頬杖をつく真衣。その指摘に、名前を教えてもらってから間もないことや、そもそも異性を下の名前で呼ぶ文化から長らく遠ざかっていたという事情もあいまって、馴れないな、と思いつつも、真衣が元気過ぎるんだよ、と言い直す。途端に、それでよし、といわんばかり頷いてみせた女は、
「そんなことないって。第一、私ってば、かれこれ一週間くらいはずっとこの部屋の中にいたわけだし、明らかにノブ君より運動不足でしょ」
さらりと正論を口にする。たしかに、本人の申告を信じるかぎりでは、その通りであるはずだった。だとすれば、この差は元からの体力差が関係しているように思える。
「真衣はなんかスポーツをやってたりしたのか?」
「うーん……これといっては。強いて言うなら、小中高と人が少ないクラブとか運動部の用心棒みたいなことをしてたりはしたかな」
本人の言により、目の前にあった謎は解消される。そもそもからして体力に大きな差があったのだな、と。俺とは大違い、だと信春は思う。
「スポーツ万能だったんだな」
「それほどじゃないよ。そういうノブ君の方は、大学に入る前はなんかやってたの? けっこうひょろひょろしてるし、あんまり体を動かすのは得意じゃなさそうだよね」
ご名答、と心の中で呟いたあと、
「だいたい帰宅部で、高校の時だけは軽音部にいたよ」
渋々、自らの過去を打ち明ける。途端に真衣は目を輝かせた。
「楽器弾けるの? ギター? ベース? ドラム? キーボード? それとももしかしてボーカル?」
「どれも外れ。ほとんど幽霊部員だったから、何にもできないまま卒業した」
一瞬、見栄を張ろうとも考えたが、万が一演奏を求められればすぐさま露見するのは疑いないため、恥ずかしながら正直に吐き出す。案の定、真衣は残念そうな顔をした。
「そっかぁ」
「悪いな。期待に添えなくて」
信春の台詞に、真衣は首を横に振る。
「ううん。こっちが先走っただけだから気にしないで」
この言い方自体が、信春の無能さをより露にしているようで、あまり気分が良くなかったものの、楽器に関してはまったくもってその通りのため、黙って受けいれる。
それからしばらくお互いに何も言わないまま、じっとしていた。テーブルの上でうつ伏せになった信春の視線の先には、今日買ったばかりの、三毛猫の絵が描かれたマグカップが置かれている。徐々に部屋の中が侵食されてるな、という実感を深めた。
夕食関係を除けば、今日の買い物のほとんどは真衣の生活用品の買い足しに当てられた。そもそも今日の外出の発端にしても、ここにやってきた家出少女よろしく持ち歩いていたボストンバッグに入っているものでは何かと足りなくなった、ということだったから、当然といえば当然ではあるのだが。
飲み会で介抱してからおおよそ二週間。今更ではあるが、信春は真衣に出て行って欲しいとは思わなくなっていた。かといって、ともに暮らす決意を固めた、というほど大袈裟な話になるわけでもなく、いるならいるでかまわない、という程度のことではあったが。そのくらいのやや軽い気持ちであるのもてつだって、本日の買い物においては、衣服を揃えるための財布代わりにされるのではというおそれがあったものの、さすがに真衣の方もそこまで頼るつもりはなかったらしく、自らの財布から支払っていた。だったら、食費も払えよ、とすぐさま突っこんだものの、そちらはまとまったお金が入ってから、とバツが悪そうに頭を下げられた。
よくよく考えてみれば、真衣だけ買い物に行かせれば良かったんじゃないのか。今更になって、必ずしも付いて行く必要はなかったのではないのか、と気が付く。それこそ、真衣が自身の金で私物を買い足すだけなのだから。強いて言うならば、夕食用の買い物は必須であったが、ばらばらに行っても良く、中でも日が傾きかけた時を選べばここまでへろへろになることもなかっただろう。
途端にどっと疲れが押し寄せてきた。もう少し、楽に振る舞えば良かったな、と思い返す。その一方で、さほど後悔はない。
ぼんやりと見上げれば、真衣が自らの短い髪の先っぽを絡ませ弄んでいる。初めて会ってから今日までの間、割合、感情豊かなこの女にしては珍しく、どこか空っぽじみた表情だった。こうして見上げれば、普段の子供らしい印象とは異なり、意外と大人っぽい顔をしているな、などと気付きを得る。出会ってから二週間程度。まだまだ知らないことが多かった。
「そうだ」
ふと思い出し、右ポケットを探る。
「なに? 突然」
怪訝な顔をする真衣に、空いている方の手を向けること数秒、目的のものを見つけてテーブルの上に差し出す。
「鍵? これって、この家の?」
依然として不思議そうな顔をする女に、体を起こしながら頷いてみせた。
「さすがに、そろそろないと不便かもしれないなって思ってさ」
「それは、すごく助かるけど」
応じつつも、真衣は戸惑いを隠せない様子で、頬を掻く。
「本当にいいの?」
「なにが?」
「ええっと……もし、私がこの鍵を悪用とかしたりしたら、困らない」
「それは困るけど……」
たしかにまず真っ先に考えたことではあった。とはいえ、
「真衣は、これで悪いことをするつもりなのか?」
「いや、そんなことはないつもりだけど……」
「だったら、いい。持っててくれ」
おそらくそういうことはないだろう、と信春は信じつつあった。
「なんで、そんなにあっさり信じるわけ? 私が噓吐きでも同じことを言うと思うけど」
「なんで、ね……」
思いのほか強く追求してくる真衣にどう説明したものかと頭を悩ますものの、きっちりとした答えというものは信春の中にもない。
「ぶっちゃけ、なんとなくとしか」
「なんとなくって」
呆れ顔をみせる女に、頷きながら、そもそもさ、と口にして背筋をぐっと伸ばす。いつになく、体が凝っている気がした。
「真衣をここに置いてるのだって、なんとなくだし、それで今日まで問題なくやってきただろ」
「それは、そう、なのかな?」
釈然としなさそうな真衣に、そうだよ、と応じる。
「二週間あったしな。それなりに見えてくるものもあったってことで、どうだ」
「どうだ、って言われてもね」
「そんなに深く考えないでもいい。ただ、便利かなって渡しただけなんだから」
そう答えて、よろよろと立ち上がる。まだまだ体に疲れは残っていたものの、どこかしらで夕食は作らなければならない。直後に真衣も腰をあげる。
「夕飯?」
「ああ」
「だったら、私も手伝うよ」
「よろしく頼む」
やりとりをかわしながら、台所の方へと体を向ける。
とりあえず、カレーでいいか。
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