第3話
「外? 出てないよ。こんな暑い日が続いてるのに、外なんかに出るわけないじゃん」
夕食の席。カップラーメンを啜る女は何の衒いもなく、言いきってみせる。信春は予想が外れたことになんともいえない気持ちを抱きながら、箸を動かす手を止めた。
「暇だったりしないのか?」
「う~ん。暇は暇だけど、テレビもあれば、食料もある。おまけに冷房もあるんだから、特に不自由はないでしょ」
電気代が増えそうだな。女の言葉にわずかばかりげんなりしつつも、そうか、と応じたあと、自らの手元のカップタヌキそばに口をつける。
「なに。ノブ君ってば、私のこと心配してくれてるわけ? 知らないうちに、意外に愛されちゃってたりしたりするわけ」
「そういうのじゃない……と思う」
言い切るつもりがこころなしか自身無さげな口ぶりになる。それはひとえに、信春の人生経験の不足ゆえであるが、実のところたいした見返りもなしに女をずるずる家に置き続けてしまっている行為こそ愛なのではないのか、などというこっ恥ずかしい考えを起こしてもいた。そして今、そうした考えの一端が口に漏れたのに気付き、キモがられたのではないのか、と不安になり女を見返した。
「へぇ。完全に否定はしないんだね」
むしろ、興味を抱かれたらしい。少なくとも、表面的にはそう見えることにほっと胸を撫で下ろす。
「正直、俺自身もお前をずっと家に置いてる理由が良くわからないからな」
「そこは私の交渉術ってやつじゃないの」
笑いながらスープを飲む女。唇の端には、茶色い液体が灯りを反射して光っている。信春は、そうかもな、と流し気味に応じつつ、残りの麺を啜った。醤油味を吸いこんだこゆい味は、慣れ親しんだものであるのと同時に、やや飽きをおぼえてもいる。
「感動が足りないなぁ。もうちょっと真剣に答えてくれない」
「だから、わからないって言ってるだろ。これ以上、答えようがないんだってば」
「もう。つまんないなぁ」
唇を尖らせたあと、カップをテーブルの上に置く。容器は既に空になっていた。
食うの早いなこの女。そんな所感を抱きつつ、太るぞ、という言葉がついつい口から出そうになるのを押し留める。
「スープを全部飲むのは体に悪いらしいぞ」
などと言い換えた。途端に女は、呆れ顔を見せてから、人差し指を信春の手元にあるカップに向ける。中身をあらためれば、ほぼほぼ空になっていた。
「……流しに流したくなくてさ」
「そっか。じゃあ、私も飲んでおいた方がいいよね」
「仰せの通りで」
大袈裟に頭を下げる素振りを見せたあと、テーブルの上に空になった容器を置く。素直でよろしい、という偉そうな女の声を、うぜぇ、と思いながらも、反面、ちょっとだけ楽しくもあった。
「ごちそうさま。今日もありがとね」
薄っすらとした微笑みを浮かべる女。唇の端にはまだ茶色い液体がこびりついていたので、はいはいお粗末さまでした、と言ってから指差す。
「なに、その指?」
「スープが唇についてる」
信春の指摘に女は、どこどこ、と尋ねてきた。よりしっかりと指差すと、拭いて、などとのたまう。
「それくらい、自分でやれよ」
「いいじゃん、それくらい。減るもんもないでしょ」
時間は減るだろ、などと心の中で突っこみながらも、このままではしばらくの間、こびりついたままであるかも知れないので、テーブルの端にあるティッシュボックスに手を伸ばし、手早く唇の端に持っていき、一拭きする。手を離せば、スープの痕跡は、わずかに光を反射する透明な油のようなものを残すのみだった。
「ありがとね」
「どういたしまして」
応じながらも、茶でも入れるか、と立ち上がろうとしたところで、私がやるよ、と素早く腰をあげる女。
「そっか。じゃあ、任せた」
「うん。任された」
軽く敬礼してみせてから、とたとたと台所の方に駆け出していく女の背を見たあと、正面に視線を移す。
つい、先程まで人がいたはずの場所には、今は空洞ができていた。椅子の後方にある壁の白さに妙な寂しさをおぼえる。
直後に台所からコンロと換気扇の音が聞こえてきて、再びとたとたとたと足音を立て戻ってくる女。
「お待たせ」
「特に待ってないけどな」
「それ、ひどくない」
大袈裟な物言いにくつくつと笑う信春。何日もともに暮らしているせいか、段々とこのうるささみたいなものに慣れつつあった。
「お前、いつまでここにいるつもりなわけ」
ふと湧き出た言葉を発した瞬間、少々まずいかもしれない、と思う。流れつつあった穏やかな空気に冷や水をぶっかけてしまったのではないのか、という不安が頭を掠めた。
女は頬を膨らましたあと、
「私、お前って名前じゃないんですけど」
そんな、信春にとっては些細なことを言ってみせる。少なくとも、話題自体に気分を害した風ではないことにほっとしながら、女の名前を口にしようとして気が付いた。
こいつの名前って、なんだっけ? おそらく、本人から聞いたはずなのにもかかわらず、さっぱり出てこない。
「どうしたの。まさか、私の名前を呼ぶのも嫌とか? だったら、心外だなぁ」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
どういったものだろうか、と頭を悩ます。それこそ、長い、とは言い難くとも、一週間以上は家に居つかれている現状からするに、名前を覚えてないというのは相当印象が悪く、直接は言い難かった。とはいえ、上手い具合にはぐらかす言い訳も見つけ難く、ああでもないこうでもない、と思考を巡らすものの、何も出てこない。
「じゃあどういうわけ。はっきり言ってよ」
むっとした顔の女からの追求は止まない。どうしたものかと引き続き頭を捻るものの、相変わらず答えは見つからず、このままぐだぐだしていてもより機嫌を損ねるだけだろうと諦めがやってきた。
「悪かった」
頭を下げたあと、おそるおそる顔をあげる。女はきょとんとしたあと、顰め面を繕ってみせた。
「言い訳はいいから理由を言って欲しいんだけどな」
その言葉を信春はもっともだと思いながら、素直に、名前を覚えていない、と口にする。女は目を瞬かせたあと、あからさまに溜め息を吐いてみせた。
「ノブ君、それはさすがにないんじゃない?」
「……俺もそう思うよ」
「でしょ? さすがに一緒に暮らしている人の名前くらいはおぼえてくれないと困るよ」
別に一緒に住んで欲しいと頼んだわけじゃない、という悪態が口から飛び出しそうになったが、今言うのは明らかに不適切なので飲みこむ。黙りこむ信春の前で、女は勢いごんだ風に口を開こうとしたところで、突然動きを止めた。
何事かと困惑する信春の前で、女は、えーっと、だとか、あれ? だとかいう声を漏らし出す。その様子はどことなく見覚えがある気がして、じぃっと目を凝らしていると、答えらしきものが降ってきた。
「えっとさ」
まさかと思い、尋ねようとしたところで、女が手を合わせながら、気まずそうに桃色の舌を出す。
「ごめん。言ってなかったかも」
その答えをやっぱりか、と思いながら、信春の方にもはじめに勘違いしたのはこちらだという自覚があるため、
「そっか。俺も、それなりに一緒に暮らしてるのに、名前を聞かないままでいてすまなかった」
女の謝り方にややイラつきつつも、いまいちなにに謝っているのかわからない言い方でお茶を濁す。
「いやいや。こっちこそ勘違いしてごめん」
ばつが悪そうに苦笑いする女と見つめ合うこと数秒。薬缶が、ぴゅーっと高い音を出す。これ幸いとばかりに女が席を立つ。
「お湯できたみたいだし行ってくるね。緑茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ、緑茶で」
「うん、わかった」
そう告げて、女はお茶を入れるべく、台所へと忙しく駆けていく。後ろ姿を見送る信春は、暑い日に飲むお茶は拷問じみているのだから冷蔵庫でキンキンに冷えた麦茶を飲むべきだったんじゃないのか、とか、いやいや食後に腹を落ち着けたいから緑茶でいいんだよ、などということを考えたりしている。一方で、信春にとって不本意なかたちで女の機嫌を害するようなことにならなくて良かったとほっとしてもいた。
数分後、できたばかりの緑茶をちょびりちょびりと舐めるように啜る合間、信春と女はあらためてお互いに名乗りあった。その途中、あのまま機嫌を損ねていれば女は勝手に出て行ったかもしれないと思い当たったものの、不思議と悔しいとも残念だとも感じなかった。
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