第9話 慢慢来
学校に行く日が増えた。あんずのおかげ、もあったが、太極拳を始めてから明らかに体調がいい日が増えた。余裕ができた。心にも、体にも。鈴東さんをやっつけた一件以来いじめも減ってきた。いや、減ったというよりなくなった、という方が正しいか。
学校に行く日が増えると、必然、志村先生との練習日が減るかと思ったが、そうでもなかった。先生が練習時間を早めてくれた。早朝、私は先生と一緒に公園で練習した。
推手をしながら、先生がつぶやいた。
「殺気を失くして」
「殺気?」
物騒な言葉に私は訊き返す。
「そう、殺気」
しかし先生は訳もなさそうに続けた。
「『こうしてやろう』『こんな技をかけてやろう』こういうのを全部捨てて。頭を空っぽにして、流れに身を任せて動いて。意念を失くして」
それから先生は続けた。
「動きを止めないで。慢架のように動き続けて」
必死についていく。でも頭の中は空っぽにしないといけない。
「ほらここ。突っ張ってる」
「はい」
「今度はここの意識が抜けてるね。手に意思がない」
頭を空っぽにするんじゃないの?
「ほら、ここ。下半身の動きが止まってる。動いてみて」
動いて、って頭が空っぽなのにどう動けば……。
素直にそう訊いてみると、先生は笑ってこう返してきた。
「自転車の話はしたね?」
「はい」
「中国にはこんな話があるんだよ」
いわく。
「料理人の話だ。彼は何年も何十年も肉をさばいているから、包丁を持って肉を前にした瞬間、どこにどう刃を入れればいいかすぐに分かる。後は何も考えない。ただ手を動かすだけ。すると刃が見事に骨や腱を切り分けて、いい肉が出来上がる」
「どういうことですか?」
「ひたすら繰り返して。考えなくても体が動くくらいに。無心になって。無だ。その料理人は肉を切る時に『ここに筋があって、ここに骨があって』なんてことは考えない。ただ泳ぐように、ひたすら手を動かす。それだけ。それだけなんだ。同じだよ。無になって。何も考えないで」
無。
一通り練習が終わった後、私は先生に訊ねた。私は後どれくらい練習をすれば上手くなれるか。私は上手くなれているのか。無になるのにはどれくらい時間がかかるか。
すると先生は答えた。
「慢慢来」
中国語だった。私は首を傾げた。先生は笑った。
「ゆっくり参りましょう、という意味だよ」
「ゆっくり……」
悪くない気がした。そもそも強くなりたくてやっているわけじゃないのだ。太極拳をやっていると、体が楽になるから。楽しいから、羽ばたいているような、軽やかな気持ちになるから。
ただ、そうも言っていられない事態が起きた。
それは金曜日、私が高校生活で初めて五日間連続で学校に行けた日に起こった。
*
声が出なかった。
あまりの惨状に。
あまりの事態に。
倒れている男子がいた。
隅の方で小さくなって、震えている女子がいた。
机は全てひっくり返されていた……それどころか、天板が剥がされたり脚が曲げられたりして、破壊されているものまである。
窓ガラス。全部割れている。ちぎられたカーテンが無様にぶら下がっていた。冷たい風が吹き抜けていく。
掃除箱。殴りつけられたのだろうか。凹んでいる。そして、そう、そして。
顔に血をつけている男子。誰だっけ、確か何か運動部系の……滝沢くんだ。がっしりした体つきで、いかにも強そうな彼が顔を押さえて悶絶している。大丈夫、と声をかけようとした段になって背後に気配があった。教室の入り口。鈴東さんがぽかんとして立っていた。
「何、これ……」
と、言いかけて、分かったらしい。カバンを取り落として口元を覆う。
「お、お前、お前を……」
私の足下で滝沢くんがつぶやいた。私は屈みこんで彼の言葉を聞いた。
「お前を、泉を、探しているって、言ってた……」
私を?
すると私の背後で鈴東さんが息を呑んだ。
「あいつだ……」
小さな、悲鳴みたいな声。
「あいつが来たんだ……」
「ねぇ、ちょっと!」
鈴東さんの取り巻きの、唯野さんと川南さんが駆け込んできた。強張った顔つきで、鈴東さんに向かってか、私に向かってか、告げる。
「広崎が……広崎あんずが……」
*
あんずが倒れたのはやっぱり、教室で暴れ回る彼を見てショックを受けたから、らしい。
保健室。真っ青な顔でベッドに横たわるあんずの手を握りながら、私は鈴東さんの話を聞いた。
彼。私たちの教室を破壊しまくった彼について、彼女は語ってくれた。
「この辺一帯の不良女子の弱味を握って言うことを聞かせてる奴だよ」
……この間話してた人か。
「私らみたいな素行のよくない女子を締め上げているんだ。弱味は色々あるよ。私の場合は……」
「話さなくていいよ」私はきっぱり告げた。「私は鈴東さんと対等でいたいから」
「そっか」鈴東さんが泣きそうな顔で俯いた。
「でもごめん、これ私のせいだ」
どういうこと? と訊くと、鈴東さんは悲しそうな声で続けた。
「あんたのこと、話したんだ。仲間内で。いい奴がいるって。そんで、私、あんたを理由に悪いこと、やめようと思ったんだ。あいつにも、もうグループから抜けさせてもらうよ、って、言った。あいつは理由は聞かなかったけど、多分他の女子から、あんたのこと聞いたんだろうね。あいつ、自分の縄張りにはうるさいタイプだからさ。それで私のことへの当てつけで、あんなことを……」
「鈴東さんをまた引きずり戻そうとしてあんなことをしたっていうこと?」
私が訊くと鈴東さんは首を横に振った。
「それもあるだろうね」
「それ以外には?」
「新しく手に入れたくなったのかもね……あんたを」
私はあんずを見た。目を閉じて、苦しそうにしている。あのあんずが。私を暗闇の中から救ってくれたあんずが。
しばらくして、あんずは親御さんに連れられて病院に行くことになった。私と鈴東さんはあんずに付き添いながら車に入っていくところを見て、それから、車が遠くなっていくのをじっと見た。それはまるでいつかの光景のようで、私の心は寒さにぶるりと震えた。悲しかった。私のせいで、またあんずが傷ついてしまった。
「ごめんよ」
しかし隣で、鈴東さんが。
しくしくと泣いていた。私のことをいじめて、いつも悪そうな顔をしていて、クラスの中でもいつも笑っていた鈴東さんが、私の隣で、泣いていた。泣きながら彼女は続けた。
「私があんたのこと話したから、こんなことに」
ふつふつと怒りが湧いてきた。それは最初、本当に僅かな、小さな泡だったが、やがてその泡は群れをつくり、まとまり、そして心の表面に浮かび上がってきた。私は鈴東さんに告げた。
「友達のことを話したら、こんな目に遭うの?」
鈴東さんが顔を上げた。
「おかしいよ。友達のことを話しただけなのに、こんな、物を壊したり、人を傷つけたり、間違ってる」
「友達って、あんた……」
「友達だよ」
私はきっぱり告げた。
「鈴東さんは私の友達。あんずも私の友達。どっちも傷つけるなんて絶対許せない」
ねぇ、と私は鈴東さんに告げた。
「そいつの居場所、知ってる?」
鈴東さんの顔が見る見る恐怖に染まった。
「や、やめとけって。あいつひどい奴なんだ。女にも平気で手を振るう。会わない方がいい。大体会ったところで話なんか……」
私は黙って鈴東さんを見た。ただ黙って見ていた。やがて負けたのは鈴東さんだった。彼女は立ち上がるとつぶやいた。
「分かったよ。でもいい? 大人しくしとくんだ。私があんたに手を出させない」
強い言葉だった。決意、のような。
「心当たりはいくつかある。行く? 私バイク出せるから、後ろに」
「二人乗り平気なの?」
「免許取ってから一年経ってるから、多分平気なはず」
駄目でも私、不良だから。空元気を見せるみたいに、にっこり笑う鈴東さん。彼女は続けた。
「私と共犯ごっこしようぜ」
「する」
私はハッキリ頷いた。
「そいつのところに連れていって。あんずのこと、あなたのこと、みんなのこと、話をする」
「来なよ」
鈴東さんに連れられて私は駐輪場に行った。多分庇のせいだろう。バイクや自転車の並ぶコンクリートの囲いは薄暗くて、湿っていた。
鈴東さんがヘルメットを渡してきた。
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