第8話 呼び出し
それから何週間か、私はひたすらに慢架と推手、八門五歩を繰り返した。
推手は相手がいないとできないので必然的に先生と練習をする時にしかできない。それ以外の自主練はまず八門五歩をやってから慢架、という流れにしていた。何となく、八門五歩で体の雰囲気を作ってから慢架をやった方が、収まりがいい気がしたからだ。
ある日、先生と推手の練習をしていると、先生が「そろそろいいかな」とつぶやいた。何のことか分からずきょとんとしていると、先生は「十三式を教えよう」と満足そうに微笑んだ。
「すごく大雑把に言うと、推手には今までやってきた基本の推手……四正推手の他に、十三種類の形がある」
「十三個も」
先生は笑った。
「そう。一つずつ教えるから、覚えてね」
それから、練習の日ごとに一つ、新しい推手の形を教えてくれた。十三個全部並べてみようと思う。
*
*
さて、そんな風に太極拳の練習にも幅が出てきて覚えるのが大変になったある日のこと。
私とあんずが学校の片隅、図書室の外にある広場でお昼ご飯を食べていた時だった。
「ちょっと顔貸しな」
鈴東莉麻だった。長い金髪。気だるげな目。私は咄嗟にあんずを庇った。しかし鈴東は小さくつぶやいた。
「悪さはしねぇよ。いいから来いよ」
不安そうに、あんずがこちらを見る。
「大丈夫。すぐ帰ってくるから」
私はあんずを落ち着かせるために笑顔を作ると静かに鈴東の後について行った。
そうして人気の少ない廊下に連れてこられた私は、その気になればいつでも動けるよう、心の準備を整えた。先生には「水になれ」なんて言われていたのに、この時の私は岩もびっくりするくらい硬かったと思う。
「あのさ」
しかし目の前の鈴東から出た言葉はとても柔らかかった。私は気が抜けてぽかんと彼女を見た。
「この間は悪かったよ。……っていうか、今までごめん。あんたのこと、馬鹿にしてた」
「えっ……その……」
言葉に困る。こんな素直に来られても、私としては反応に困る、というか。
「何か私さ、友達を守ろうとしたあんたを見て目が覚めた、っていうか。何やってるんだろうって」
「は、はぁ」
「私さ、ある男子に弱味握られてて」
急な打ち明け話だ。
「鬱憤溜まってたからさ。ほら、八つ当たりしちまった」
悪かった、ごめん。鈴東さんが頭を下げてきた。私はびっくりして手を振る。
「そっ、そんなそんな。いいよ、謝らないでよ」
すると鈴東さんが顔を上げ、何だか潤んだような顔になった。
「お前、優しいな。本当いい奴」
「それはちょっと調子がいいような……」
すると私のコメントに鈴東が笑った。
「だな。ごめん。でもよかったらさ、これから私と、おしゃべりしてくれよ」
「いいけど……」
広場に置いてきたあんずが気になる。でも鈴東は、ぽつぽつと話し始めた。
「私馬鹿でさ。他所の学校のイケメンにひょいひょいついて行って、そんで馬鹿なことしちまった。そいつにその証拠握られて、私逃げらんないんだ。学校の外で悪いことするのはほぼそのせいって言ってもいいくらい……」
どういうこと? 私は訊ねる。
「脅迫されてるの……?」
すると鈴東さんは後ろめたそうな顔になった。
「脅迫、っつーか。馬鹿なことしたのは私だし、悪いのは私なんだけど」
「でも脅されてるんでしょ?」
「まぁ……」
「それひどいよ。間違ってる」
自分でもびっくりするくらいハッキリ声が出た。鈴東さんも驚いたみたいで、ぽかんとした顔で私の方を見た。
やば、声が大きかった……なんて反省した頃には、鈴東さんの方がもう出来上がっていた。唇を噛みしめ、悔しそうな……でも悔しがっていることさえ悔しいような、そんな顔をして話し始めた。
「間違ってんだけどさ、私にはもう……っつーか私らにはもう、どうにもできないっっていうか」
「私ら?」
私が訊くと鈴東さんは遣る瀬なさそうに頷いた。
「うん。他にもいる。脅迫されてる女子」
「それ一人の男子がやってるの?」
また、声が大きくなる。鈴東さんが再びびっくりする。
「あ、ああ。まぁ、そいつ、モテるからさ」
「やっていいことと悪いこととあるよ」
あはは、と鈴東さんが、今度は声に出して笑った。
「お前、意外と熱いんだな……ちょっと見直したよ。あんたも男には気をつけなよ。碌な奴いないからね」
「予定はないから大丈夫」
すると鈴東さんがまた微笑んだ。
「これからあるかもしれねーだろ」
邪魔したね。鈴東さんが去り際にそんなことをつぶやいた。どうもそれは、私とあんずの昼食を邪魔したことに対するお詫びのようだったが、しかし私にはそんなことはどうでもよかった。女の子たちを脅して言うことを聞かせる男子。そんなひどいことしてる人いるんだ。ふつふつ怒りながら広場に戻ると、あんずが「大丈夫?」と訊いてきた。私はあんずを安心させる意味で「大丈夫」と答えたが、腸は煮えくり返っていた。
でも、この後。
私はその男の子と、接点を持つことになる。
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