第8話 呼び出し

 それから何週間か、私はひたすらに慢架と推手、八門五歩を繰り返した。

 推手は相手がいないとできないので必然的に先生と練習をする時にしかできない。それ以外の自主練はまず八門五歩をやってから慢架、という流れにしていた。何となく、八門五歩で体の雰囲気を作ってから慢架をやった方が、収まりがいい気がしたからだ。


 ある日、先生と推手の練習をしていると、先生が「そろそろいいかな」とつぶやいた。何のことか分からずきょとんとしていると、先生は「十三式を教えよう」と満足そうに微笑んだ。


「すごく大雑把に言うと、推手には今までやってきた基本の推手……四正推手の他に、十三種類の形がある」

「十三個も」

 先生は笑った。

「そう。一つずつ教えるから、覚えてね」


 それから、練習の日ごとに一つ、新しい推手の形を教えてくれた。十三個全部並べてみようと思う。



 纏頭式てんとうしき……「纏」の字には「まとう」という意味があるらしい。文字通り、「頭に何かをまとうような」動き。上着を羽織る時とかにする、内から外へ腕を大きく回す動きだ。四正推手からの派生として分かりやすかったのですぐに覚えた。でも楽なのはここまでだった。

 

 裹頭式かとうしき……「裹」という字には「つつむ」というような意味があるらしい。これは纏頭式とは逆の動きで、外から内に回すような腕の動きをする。正直これが難しくて、私はしょっちゅう自分の頭に手をぶつけて「あれれ」と思うことがあった。でも何度かやっていく内に、一応形にはなるようになった。


 中平肘ちゅうへいちゅう……多分、肩くらいの高さに放たれたパンチを流すような動きだ。先生が片手を伸ばして来たら、それに両手を這わせる。この時の手は、指の先を向かい合わせ、手の甲を自分に向けて何かを抱っこしているような形にする。この形で先生が伸ばしてきた手を受け、体幹を捻ると、突き出る肘が先生の肩の外側に食い込むのだ。これ、簡単な形だけど決まるとかなり痛いはずだ。


 立肘りっちゅう……中平肘の、相手の側にある肘を立てるバージョン。例えば相手の右の突きを受ける時、こちらは左手を垂直、右手を寝かした状態にする。やってみれば分かると思うのだが、垂直にした左手をテコにして、寝かせた右手で相手の腕を引っ張れば逆関節になって折れる。これも形そのものは簡単だけど決まると痛そう。


 十字手じゅうじしゅ……先生が私の骨盤の方に向かって手を差し込んでくるのでそれをかわす。先生が右手で私の右腰を、左手で私の左腰を、腕をクロスさせるような形で突いてくるのでそれに手をかぶせるようにしてかわす。8の字のクロスの部分みたいな動き、だろうか。ペースが速いから油断するとすぐに乱れる。


 摟膝式ろうしつしき……「摟膝」には「膝の前を払う」というような意味があるらしい。四正推手の途中で先生がこちらの手首をつかんでくるので、それを捻じりながら下方に持っていく……文字通り、膝の前を払うように。この時重心を後ろにすると掴んだ相手がこちらに引っ張り込まれる形になる。非力な私でも力の強い相手に通じそうな動きだ。


 裏黏肘りねんちゅう……肘でこねこね。相手の片腕にくっつけたこちらの片腕を、立てたり寝かしたり繰り返す。多分だけどこれ、立肘りっちゅうと同じように立てた腕をテコにすれば関節を取れる。


 外黏肘がいねんちゅう……蛇みたい。相手の腕にまとわりつく。そのまま巻き込んで押さえ込む。簡単そうに見えるけど、自分の腕と相手の腕が一ミリでも離れたらカクカクして蛇みたいじゃなくなる。技巧がいる。


 倒提壺とうていこ……先生が言うには、「提壺」という水差しのような道具を倒す動きに似ているからこの名前らしい。相手の肘を取り、捻るような動き。肘鉄に対する技だろう。私、実はちょっとこれが苦手。


 小纏腕しょうてんわん……相手の腕を取り、巻き込みながら上に持ち上げていく……ような。ちょっと粘着質な手つきだと思う。しかもこれ、相手と接した手首が色んな方向に向くからどの方位から攻められても対応できる。テクニカルな動き。

 

 大纏腕だいてんわん……すごく説明が難しい。相手がこちらの肩に触ってくるので、その手を抱き込むようにして下がって、そのまま文字通り「大規模な小纏腕しょうてんわん」みたいな感じで持ち上げていく。覚えるのがすごく難しかったし先生も説明が大変そうだった。でも慣れると……動きが派手だから結構楽しい。


 穿手靠せんしゅこう……「こう」という字には「体当たり」的なニュアンスがあるようだ。こちらの片腕を相手の下方に思いっきり差し込んだ後、両腕をハサミを開くような感じで広げていく。何だか野马分鬃のまぶんそうみたい、と言ったら「いいところに気づくね」と褒められた。


 通天手つうてんしゅ……十三式の最後。寝かした両腕で、こちらを押してくる相手の腕を頭上にせり上げる。これ、ただ単に腕だけでせり上げようとすると下半身や胸の辺りが詰まって動けなくなる。全身を使って波打つように体を動かす。そもそもの話、この通天手つうてんしゅに限らずどの推手も全身を密に使わないと全く成立しない。



 さて、そんな風に太極拳の練習にも幅が出てきて覚えるのが大変になったある日のこと。

 私とあんずが学校の片隅、図書室の外にある広場でお昼ご飯を食べていた時だった。


「ちょっと顔貸しな」

 鈴東莉麻だった。長い金髪。気だるげな目。私は咄嗟にあんずを庇った。しかし鈴東は小さくつぶやいた。

「悪さはしねぇよ。いいから来いよ」

 不安そうに、あんずがこちらを見る。


「大丈夫。すぐ帰ってくるから」

 私はあんずを落ち着かせるために笑顔を作ると静かに鈴東の後について行った。

 そうして人気の少ない廊下に連れてこられた私は、その気になればいつでも動けるよう、心の準備を整えた。先生には「水になれ」なんて言われていたのに、この時の私は岩もびっくりするくらい硬かったと思う。


「あのさ」

 しかし目の前の鈴東から出た言葉はとても柔らかかった。私は気が抜けてぽかんと彼女を見た。


「この間は悪かったよ。……っていうか、今までごめん。あんたのこと、馬鹿にしてた」

「えっ……その……」

 言葉に困る。こんな素直に来られても、私としては反応に困る、というか。


「何か私さ、友達を守ろうとしたあんたを見て目が覚めた、っていうか。何やってるんだろうって」

「は、はぁ」

「私さ、ある男子に弱味握られてて」

 急な打ち明け話だ。

「鬱憤溜まってたからさ。ほら、八つ当たりしちまった」

 悪かった、ごめん。鈴東さんが頭を下げてきた。私はびっくりして手を振る。


「そっ、そんなそんな。いいよ、謝らないでよ」

 すると鈴東さんが顔を上げ、何だか潤んだような顔になった。

「お前、優しいな。本当いい奴」

「それはちょっと調子がいいような……」

 すると私のコメントに鈴東が笑った。


「だな。ごめん。でもよかったらさ、これから私と、おしゃべりしてくれよ」

「いいけど……」

 広場に置いてきたあんずが気になる。でも鈴東は、ぽつぽつと話し始めた。


「私馬鹿でさ。他所の学校のイケメンにひょいひょいついて行って、そんで馬鹿なことしちまった。そいつにその証拠握られて、私逃げらんないんだ。学校の外で悪いことするのはほぼそのせいって言ってもいいくらい……」

 どういうこと? 私は訊ねる。


「脅迫されてるの……?」

 すると鈴東さんは後ろめたそうな顔になった。

「脅迫、っつーか。馬鹿なことしたのは私だし、悪いのは私なんだけど」

「でも脅されてるんでしょ?」

「まぁ……」

「それひどいよ。間違ってる」


 自分でもびっくりするくらいハッキリ声が出た。鈴東さんも驚いたみたいで、ぽかんとした顔で私の方を見た。

 やば、声が大きかった……なんて反省した頃には、鈴東さんの方がもう出来上がっていた。唇を噛みしめ、悔しそうな……でも悔しがっていることさえ悔しいような、そんな顔をして話し始めた。


「間違ってんだけどさ、私にはもう……っつーか私らにはもう、どうにもできないっっていうか」

「私?」

 私が訊くと鈴東さんは遣る瀬なさそうに頷いた。

「うん。他にもいる。脅迫されてる女子」


「それ一人の男子がやってるの?」

 また、声が大きくなる。鈴東さんが再びびっくりする。


「あ、ああ。まぁ、そいつ、モテるからさ」

「やっていいことと悪いこととあるよ」


 あはは、と鈴東さんが、今度は声に出して笑った。

「お前、意外と熱いんだな……ちょっと見直したよ。あんたも男には気をつけなよ。碌な奴いないからね」

「予定はないから大丈夫」

 すると鈴東さんがまた微笑んだ。

「これからあるかもしれねーだろ」


 邪魔したね。鈴東さんが去り際にそんなことをつぶやいた。どうもそれは、私とあんずの昼食を邪魔したことに対するお詫びのようだったが、しかし私にはそんなことはどうでもよかった。女の子たちを脅して言うことを聞かせる男子。そんなひどいことしてる人いるんだ。ふつふつ怒りながら広場に戻ると、あんずが「大丈夫?」と訊いてきた。私はあんずを安心させる意味で「大丈夫」と答えたが、腸は煮えくり返っていた。


 でも、この後。

 私はその男の子と、接点を持つことになる。

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