第7話 理想
沈んだまま学校から帰った。
あんずに迷惑をかけてしまった。あんずを苦しめてしまった。そのことが辛かった。
彼女は大丈夫だって言ってくれたけど、でも私がいなかったらあんなことには巻き込まれなかったし、体調が悪くなることもなかった。
去っていく車の背中が頭から離れない。
家に帰ってから、いつもなら慢架を練習するのだけれど、この日はそんな気持ちになれなくてベッドに沈んだ。明日の練習をどうしようか、悩みながらウトウトしていたら晩御飯の時間になった。
夜、気になってあんずに「大丈夫だった?」とメッセージを送った。返事はすぐに来た。
〈大丈夫だよ! 安心して!〉
ホッと息をついた。気が抜けたからだろう。それから一気に眠たくなって、ふらふらしながらお風呂に入って歯を磨いた。ほとんど行き倒れる形でベッドに横になる。
夢を見た。私があんずを守っている。何だか分からない黒い敵から、必死にあんずを守っている。
太極拳の動きを使っていた。特に何をしようなんてことは思わなかったけど、体が勝手に動いた。鈴東たちをやっつけた時も、体が自然と慢架の動きをしてそこに相手がはまってくれた。夢の中でも同じだった。黒い敵の動きが私の慢架の動きにはまる。
目が覚めると汗をかいていた。午前五時。早起きだった。
*
いつものように公園に行くと、先生が先に来て八門五歩をやっていた。すぐ先生の後ろに行って練習する。ゆっくりと、海藻が海の中を漂うように手を動かしていると、気持ちが落ち着いてきた。でも、先生はつぶやいた。
「何かあったね」
どきりとした。
「心が尖ってる。何かされたかい?」
言葉に困った。何で後ろの人のことが分かるんだ? しかも心の中? 図星を突かれて慌ててしまった。でも、必死に言葉を紡ぐ。
「私をいじめてくる子が、私の友達を傷つけようとして」
手が止まってしまう。しかし先生は体を動かし続けている。
「やっつけたのかい」
静かな声。私は頷く。先生の背後にいるから、頷いても見えるはずないのに。
「太極でかい?」
また、頷く。
怒られるだろうか。大事な太極拳を人を傷つける方法として使って、叱られるだろうか。
「君が脅威から身を守れたのは、ひとつ成長だ」
しかし先生の言葉は温かった。
「太極は……」
この時になって気づいた。先生は太極拳のことを「
「太極は哲学だ。芸術でもある。もちろん武術としての側面もある。究極的には、人との接し方や、問題との関わり方について問うものだ」
先生が振り返った。徐に手を差し出してくる。私はそれが、推手をやる動きだとすぐに分かって、同じように両手を構えた。一、二、三、四。ゆっくりと動く。
「いいね。問題との関わり方、向き合い方だ。今から言うことをよく聞いて」
一定のリズムで動きながら、そして私の拙い動きに流れるように合わせながら、先生が、唱える。
「上善如水、水善利万物而不爭。処衆人所惡、故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、政善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤」
中国語だった。当然欠片も分からない。先生は微笑む。
「日本語だと、頭の『上善如水』は『上善は水の如し』っていう言葉になる。続く言葉も日本語にされているから、気になったら調べてみて。ひとまず『上善は水の如し』について言うと……」
先生が優しい目で私を見た。
「『上善』は素直に字だけ見ると『すごくいいこと』とか、『理想的な』とかになりそうだよね。実際そう訳している日本の学者も多い。でも本当は、『対人関係』……様々な場面での人との接し方について示している言葉なんだ。『上善は水の如し』。意味、分かるね?」
水の如し。水のような。それが上善。つまり対人関係の理想が水。人との接し方のコツが水。
少し理解できる気がしたが、何で水なのか、水ってどういうことなのか、言葉にはできなかった。そしてそれが、どうして私が鈴東たちをやっつけた話に繋がるのか、全く分からなかった。先生は続けた。
「もうひとつ、教えよう。太極で理想的な手つきはどんな感じだと思う?」
「さ、さぁ……」
「例えばほら、友達を家に招く時」
先生が私の肩に触れる。
「『どうぞこちらへ』。優しく触るだろう?」
「はい」
「『友達の背中に手を回すように』。それが理想的。如何なる時も。そう……」
戦う時も。
先生のその一言が重く心にのしかかる。やっぱり、叱られているのだろうか?
しかし先生は続ける。
「不丢頂、っていう考え方がある。日本語だと『ふちゅうちょう』って読むのかな。これを表すのにぴったりな日本語があるんだよ。『つかず離れず』」
先生はずっと温かい笑みを浮かべていた。
「相手にとって重すぎもしない、軽すぎもしない手つきっていう意味だ」
「はぁ」それとさっきまでの教えがどうつながるのか分からない。
「『上善は水の如し』『友達に接するように』『不丢頂』。どれも、君があの時とるべきだった対応だ」
あの時。
殴りかかられた時。
あんずを守らなきゃいけなかった時。
無理だ。あんなに攻撃的な態度を示されて、実際に殴り掛かられて、「友達と接するように」なんて動けるわけが……。
「そんなことはできないと思っているね」
また、動き出す。推手の動き。一、二、三、四。
「まだ君の心が水になれていない証拠だ。容れ物を選んでいる。水は選ばない。方、円、どんな形の容れ物にも入る」
「でも……」
「でもじゃない」
一瞬圧がかかった先生の言葉にびっくりしてしまう。先生は続ける。
「多分君は、慢架の動きを実際の戦闘に当てはめたんだろう。意識はしなかったかもしれないが自然と体がそう動いたはずだ。でもね、いいかい?」
先生がまた、私の肩に触れる。
「これが
先生の手が柔らかく私の肩に添えられている。最初は何をされているのか分からなかった。
と、先生の掌の中が明らかに変化した。触り方が違う、というか。でも私の肩に手を添えている外見は変わらないのだ。ただ、掌の中の……ぬくもりが違うというか……。
「これが
何が起きているか分からない。触り方はさっきから変わらないのに、でもその触り方が明らかに違う。掌の中の何かが違う……いやもっと言えば、先生の手首、肘、肩、それに繋がる胴、それぞれの中の何かが、微妙に、いや驚くほどに……。
先生の掌の中は動き続ける。
「これが
「これが
「これが
先生の手が離れた。私はぽかんとしていた。
「容れ物を選ばない。究極的には形を選ばない。そう、扇通背だろうが単鞭だろうが玉女穿梭だろうが、形はどうでもいい。体の動かし方だ。骨格の全てが自由に動く。『水の如し』は哲学的な意味でもそうだし、身体的な意味でもそうだ。太極の理想はそこにある。そしてさっきから言っていることの真理もそこにある」
君は才能がある。先生はそう続けた。
「いつか必ず理解できる。でも思い出して。大事なことは……?」
「……頭を空っぽにする?」
私が続くと先生は、今度はにっこり笑った。嬉しくて、私も頬を緩めた。
「その通り。やっぱり君は、才能がある」
「でも頭を空っぽにしたらさっきのことが考えられません」
先生は目を伏せ首を横に振った。
「例えば自転車に乗った時、『ここで右足を漕いで、次に左足を漕いで、おっと、ハンドルを切って……』なんてことを考えるかい?」
先生の言いたいことが、朧気ながら見えてきた気がした。
「練習が必要ですね」
私がそうつぶやくと、先生はまた優しく笑って、返してきた。
「そう。練習しましょう。慢架に推手、八門五歩……」
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