第5話 水晶みたいに

「図書室行こう。教室だといじめられるでしょ」

 授業中。隣の席の広崎あんずさんがノートの切れ端を投げてきた。今時古典的な、と思ったが、考えてみれば私はクラスメイトの連絡先を誰も知らないので広崎さんも私にメッセージを送れないのだ。丁寧に畳まれた紙片には昼休みを図書室で過ごす提案が書かれてあった。ふと目を横に投げると彼女が熱心に私を見ていた。私は黙って、頷いた。


 それから、あっという間に昼休み。

 二人で図書室に行くと、意外にも、というか今まで私が校内のことに目を向けることがなかっただけなのだけれど、図書室にはたくさん人がいて、教室なんかよりずっと大きな規模の人だまりだった。私はしばし唖然とした。そんな私を置いて広崎さんが閲覧テーブルのひとつにすたすたと歩いていく。


「ほら、ここ座って」

「広崎さん……」

「あんずって呼んで。私もあなたを舞ちゃんって呼ぶ」


 二人で向かい合うように、閲覧テーブルの両端に座る。何だかこう、お見合いみたいな。


「で、舞ちゃんはどんな武術をやってるの?」

「ぶ、武術? 喧嘩、とか?」

「まぁ、多くの場合人が人をやっつける手立てのことを言うよね」

「わ、私そういうのは……」

「えー、嘘だよ」

 あんずさんはにっこり笑った。


「あなた、急に変わった。私席が後ろの方だから色んな人のことを見てる。あなた、この数週間で急に変わった。それまでただ鈍臭くいじめられてるだけだったのが、今日は即座に反応した」

「えっ、そうかな、そんなつもりは……」

「私、人間観察好きなの。あなたのこともちゃんと見てた」

「い、いや、それは……」

「ねぇ、教えて。あなたは何をやっているの?」

 あまりの勢いにたじろいで、思う。そうだ。観察されてるなら観察し返してやれ。私に向いた矛先を、あんずさんにうまいこと向けよう。あんずさんのことを訊いてやろう。


「あ、あんずさんこそ何かやってるんじゃないですか?」

 しかしあんずさんはまたもにっこり答えた。

「私? 私は剣道をやってた。昔のことだけどね」

 と、掌を見るあんずさん。マメ……の跡? 皮膚の一部が固くなっている。


「心臓の病気をしてね。もう剣道どころか、スポーツはやれなくなっちゃったんだ」

 触れてはいけない話題に触れた気がして、私は押し黙る。ほら、こういうところだ。こういうところがあるから私は友達ができない。

 なんて、私が一人で落ち込んでいると、しかしあんずさんはそんなこと気にしないとでも言うかのように続けた。


「私ね、好きな本があるの」

 そう、立ち上がって近くにあった本棚に行く。「文化・芸術」のコーナー。そこにあった本は……。


『世界の武術・マーシャルアーツ』


「え、何この本」

 芸術コーナーにある本なの? 

「その名の通り、世界中の武術についてまとめた本だよ。これを見て、ああこういう戦い方をする流派があるんだなー、って思うの」


 とても病弱な女の子の趣味とは思えない、けど……。

 あんずさんがパラパラとめくったページにあったのは足を高く上げて蹴りを放つ人や拳を突き出す人の画像、それから組み合って腕を固めているような画像から武器を扱った画像まで、多種多様だった。そしてその中に、あった。


〈太極拳:中国武術のひとつ。練習はゆっくりした動きであるが実戦では柔らかく連綿と続く挙動で相手を制す〉


「どうしたの?」

 あんずさんに訊かれ、びっくりした私は答える。

「た、太極拳」

「ああ」あんずさんは微笑んだ。

「中国武術のひとつ。長い歴史のある武術だね。私、ちゃんと見たことはないけど、柔よく剛を制す、って感じらしいよ」

「そうなんだ……」


 と、つぶやいた私を見て、あんずさんがにやっと笑った。

「もしかしてこれ? 舞ちゃんがやってるのって」

 勢いに飲まれて頷く。頷いてしまう。

「へえ!」

 あんずさんがちょっと大きな声を出したから、周りの人が一斉にこっちを見た。


「太極拳練習してるんだ。すごい」

「す、すごくないよ……」と、謙遜してみる。実際私は始めたばかりで全然すごくない。先生は何だかすごそうだけど。中国の出身だし。

「太極拳なら病気の私も平気かなぁ? 今度教えてよ」

 教える、という言葉に先日の先生の言葉を思い出した。兄さんや姉さんの許可を取らなきゃ。何となく、私もそれっぽいことを言ってみる。

「せ、先生の許可を得ないと……」

 するとあんずさんが目を輝かせた。

「一子相伝的な? すごーい! かっこいい!」

「い、いや、その」


 そんな風に、その日の昼休みはあんずさんと武術談義をして終わった。とても女子高生が図書室でするような話じゃなかったが、それでも私は楽しかった。楽しく話せた。



 学校が、楽しくなった。

 それは単純に友達ができたから、という理由が大きかった。

 あんずさんはクラスで立場がない私にも平然と接してきてくれる子だった。いじめられている私と関与したらあんずさんも巻き込まれるんじゃないかと心配したが、彼女はどうも不思議ちゃんと思われている節があるらしく、いじめの標的になることはなかった。あの飄々とした雰囲気が、どうも神秘性を帯びてなかなか近づかせないようだ。


 太極拳の練習も続けた。学校に行く前に公園で一回、放課後に三回、帰宅後二回。毎日六回は慢架をした。ただひたすらに体を動かした。夢中で、とにかく、やれるだけ、動いた。


 その内、心が静かになるというか、特に何も考えなくても体がすっと動くようになった。最初は漠然と、「こう動かす、ここはこう」だったのがだんだん「操り人形になって操られているみたいに」なり、次第に「水の中に浮いて体を動かしているような」感触になって最終的には「頭の中が水晶みたいに透明になって」「気がついたら体が動いていて慢架が終わっている」くらいになった。それくらい練習した頃になって、先生が言った。


 推手をしてみようか。


「推手って何ですか?」

「体を使った問答法……っていうと分かりにくいか。ちょっと複雑な手順の手押し相撲だと思えばいい。本当はもっと高度なやりとりなんだけどね。じゃ、僕が言った通り体を動かしてみて」


 一、二、三、四。この四パターンの動きを覚えて。そう言われた。


 一、両手で両肘に触れて前につんのめる感じ。

 二、つんのめったまま右手だけを伸ばす。

 三、これが難しかった。体の重心を後ろに持っていきながら、二で伸ばした右手を抱え込むようにして、右肘に触れていた左手を起こし……とにかく難しい。

 四、重心を後ろに乗せたまま、三の結果胸の前にある両手をそっと下ろす。これは簡単。


 そんな感じで重心を前後させながらひたすら体を動かして、パターンに慣れたところで不意に先生が近づいてきた。手と手を合わせる。私が三、の時に先生が急に一、の動きで入ってきて、そのままお互いにお互いのリズムで動く。


 やってみると分かる。私が前に出る動作(一と二)の時に先生は下がる(三と四)。逆に私が下がる(三と四)の時先生は前に出る(一と二)。交互に前後。手は流れるように動かし続ける。


「頭を空っぽにして」

 手の動きや重心の前後でいっぱいいっぱいになっている私に先生が助言してくれた。

「大丈夫。君、慢架では頭を空っぽにすることができている。いつもの練習のように、慢架と同じように動いてみて」


 慢架と同じように。

 できるだろうか。

 できる気がした。


 頭の中が透き通っていった。透き通らせるのではない。透き通るのだ。何も考えずに動いた。死ぬわけじゃない。間違えてもいい。無になって。何も始めず何も終わらず。


 ひとしきり体を動かした後、先生が笑った。「君はやっぱりすごい」と。

「この推手にはいくつか別のパターンがある。それもいずれ教える」

 まだ違う動きがあるんだ。学ぶことの多さに、私の胸は高鳴った。極めても極めても先がある。それは美しい世界だった。常に始まり続けていて、終わりはまた新たな始まりで。


 そんな風に練習を続けた。数カ月。学校では定期試験が終わって、文化祭が近づいた頃だった。あんずさん……もう、あんずって呼んでたけど、は相変わらず私に武術や文化の話を振ってきて、ある国にはこんな文化があって、その影響でこういう社会性で、結果こんな武術ができて、みたいな、女の子らしいようで女の子らしくない、そんなおしゃべりを毎日した。

 そうして気が付けば、私をいじめる人間が目に見えて減っていった。それまでは私の足をひっかけたりして笑っていた女子が違うことに意識を向け始めた。私は平穏な生活を送っていた。


「おい、広崎」

 だが、そんな中で、ほんの何人か。

 私が市民権を得るのが気に入らない人間がいた。いわゆる一軍、いわゆる勝ち組、そう、ある日、このクラスの女子のトップ、鈴東すずとう莉麻りまがあんずのことを呼び出した。

 

 休み時間、弱々しい体のあんずが鈴東に乱暴に連れていかれるのを、私は見てしまった。

 胸の奥がピリッと痛んで、私はあんずのことを追いかけた。

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