第4話 面白そうじゃん
日曜日の朝、上下ジャージの動きやすい恰好でいつもの公園に行くと、志村さんがもう来ていた。私は慌てて志村さんの……先生の近くに行った。
「師父と一門の人たちに許しをもらってきたよ。私的にコーチをする分には問題ないって。教室を開くとなると話は別だけど、近所の子一人に教えるくらいならいいって」
私はホッとした。私の方に習う気があっても、もし先生の方に教える資格がなかったらどうしようと思っていたのだ。
「いつも何時頃来ているんですか?」
私は率直な疑問を口にした。せっかく教えてもらえるなら、なるべくたくさんの時間を一緒に過ごしたい。
そう思って訊いたのだが、しかし先生はぼんやり笑うと、「まぁ、適当だよ」と返してきた。適当か。適当なら、仕方ないな……。
「今日は
「はい」
それからすぐに慢架が始まった。まず両手をゆっくり持ち上げて、それから沈めて。動き出す。泳ぐように、でもゆっくり。
先日慢架を教わった後、何度か復習していたので、半分の時点まではスムーズについて行くことができた。けれどそこから、未知の領域に入るといろいろ難しい動きがあった。両手を引き絞ってそのまましゃがみ込むような動き。それから何かを跨ぎながら両手を広げるような動き。右手を脇の下に入れて左手を突き出すような動き。いろいろあった。
やがて、あっという間の五十分が過ぎると、両手を胸の高さに揃えて、ゆっくり沈めるあの動きがあった。終わりの合図だ。両手が沈み切ると、先生は両手をぐーぱーさせて体の感覚を確かめるような動きをした。私も真似をした。不思議な、痺れるような感覚があった。
「やっぱり、上手いね」
先生は笑う。
「まさか日本に来てこんな才能に出会うとは」
「言い過ぎですよ」
でも、嬉しい。
「ご先祖中国人だったりしない?」
「さぁ?」先祖のことまで分からない。
「何にせよ、上手い。よし、これから細かいところを教えるから……」
と、言いかけた先生に、私はジャージのポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「メモを取ってもいいですか?」
すると先生は嬉しそうに笑った。家の練習みたいだな、とつぶやいてから、続けた。
「いいよ。じゃあまず最初。揽雀尾……日本語で言うと『らんじゃくび』かな。
「らんじゃくび?」
ああ、と先生は笑った。
「それぞれの動きには一応名前があるんだよ。今日全部教えることはできないけど、この動きはこういう名前なんだ、くらいの認識は持っておいてもいいかもしれない」
それから先生は、私の慢架のもう少し工夫してほしいところを指摘した。
「左手を横に突き出して、右腕を扇のように振り上げる形だね。右足のステップに気を付けて。両手を頭上に持っていきながら右足を引く場面があるだろう? あの時点では右足は左足に対して平行なんだ。その後、両手を開く動作をする時に、右足の爪先が斜めに向くようにして開く。右手は額の前……そう」
「腰を落として両腕を開く。右手は五本指で何かを摘むように。両腕を均等に開くように見えるけど実際は違う。左手の肩はほぼ動かない。むしろ右肩の方を蝶番のように開く。両手の位置は少し高めに。右手の、この手の形は
「暖簾をめくるような動きの手の下からもう一方の手を突き出す。下から出す手は突き出しすぎないように。両腕は上側に来る腕と下から出す腕が九十度になるくらい。この足の形は
流派、という言葉が気になった。太極拳にも流派があるんだ。そう思ったので訊いてみた。これは何という流派の太極拳なんですか、と。
すると先生はちょっと笑うと、こうつぶやいた。
「Wu Style」
唐突に出てきた英語に私はちょっとびっくりした。いや、英語そのものというよりは、先生の発音の良さに。先生、英語もできるんだ。
「どういう流派かは調べてみて」
その日の練習はそれで終わった。家に帰ると、私はメモを見返しながらそれぞれの動きを復習した。
でもその日は何となく、それだけで終わりにしたくなかった。
夕方、と言ってもほとんど日が暮れた、夜の戸張が下り始めた頃、私はまたあの公園に行って、一人で復習をした。家でやってもよかったけど、外でやる方が気分が乗る気がした。全部を覚えるのはさすがに無理があったので、部分的に、記憶の断片を繋ぐようにしてやったのだが、躓きや気づきがあって、次の練習の時に訊きたいことが増えた。
そんな風にして、日が完全に沈んだ頃。
さすがにこんな時間まで外にいるとあれか、と思い始めた。
先日のことが頭をよぎる。いきなり暴漢に襲われた。
あんな目に遭うのはもうごめんだ。蘇った恐怖で体が震える。
帰ろう。そう思って支度した時だった。
「面白そうじゃん」
急に声をかけられた。私はびっくりして振り返った。
公園の、外灯の下。
学ランを着た男の子が立っていた。
制服の特徴を見てもどこの学校かは分からなかった。この辺の学校じゃない。っていうか誰? 不審者? やっぱり先日のことが頭をかすめる。逃げよう。そう思った。
「何やってたの?」
しかし、その男の子は。
すっと一歩前に出ると、私の進行方向にかぶせるように体を傾けた。逃げても追いつくぞ。暗にそう言われている気分になった。
「た、た……」
声が震える。でも質問に答えないと何をされるか分からない。そう思って、声を振り絞る。
「太極拳、です」
すると男の子が一瞬目を見開いて、それから緩んだような笑顔になった。
「太極拳、かぁ……」
ちらりと彼の方を見る。黒髪。短く切りそろえられている。耳。ピアスだ。家紋? みたいな円形のものに札のようなものがついた、一見すると風鈴のような和風の耳飾り。男の子が首を傾けるときらりと輝いた。家紋の男の子。風鈴の男の子。もしかして、育ちがいいのだろうか。
「ありがとうよ」
男の子は急に興味を失くしたように体を引いた。帰っていい、ということだろうか。私は体を抱くようにしてその場を去る。
家に着いて、深呼吸する。
怖かった。でももう大丈夫。
部屋に帰るとまた、復習をした。揽雀尾。扇通背。単鞭。玉女穿梭。先生に教わった注意点に気をつけながらやってみる。
やがて何も気にしなくても注意点を守れるようになった頃、私はお風呂に入った。体を洗う時、何となく腕に触って、思った。こんな風だったっけ。何だか妙な、たくましさがある気がした。
*
翌日。月曜日だ。
学校に行こうと思った。何でかは分からない。ただ何となく、自分に課している週に二日の登校義務の内、一つを早めに消化しておきたい気持ちになった。お父さんに付き添われて駅まで。電車に乗って、学校へ。
教室に着くと、やっぱりあのくすくす笑いがあった。そして異変に気付いた。私の机が、ない。
さっと教室に目を走らせると、一番後ろの列の窓際に、倒れた机と椅子があった。あれだ。そう思って近づく。
机と椅子を起こそうとすると、背後に気配があった。振り返る。
「何?」そうつぶやく。
私の後ろに数名の女子。気まずそうに目線を逸らす。
「別に何も」
そのまま立ち去る。多分、だけど、机と椅子を起こそうとしゃがんだ私を蹴飛ばそうとしていたのだ。嫌な気持ちになって、口を結ぶ。起こした椅子に座って、机の横にカバンをかける。
教室を見渡して思った。席替えしたんだ。みんなの配置が違う。学校に来ないとこういう変化にもついていけないのか。ちょっと面倒に思う。これからもう少し、登校頻度上げようかなぁ。そう思っていた時だった。
「ねぇねぇ」
急に声をかけられた。
びっくりして振り向く。ボブカットの小さな顔。隣の席に座っている女の子だった。名前は、えーっと……。
ひ、広崎あんずさん、だったっけ。
「さっきはすごかったね」
推定広崎あんずさんは、か細い声でそうつぶやくと、にこっと笑った。何のことか分からずぼけっとしていると、彼女は続けた。
「背後の気配、感じたんでしょ?」
ずばり当てられたのでびっくりして彼女を見ていると、広崎さんは続けた。
「何か格闘技とか、武術とかやってるの? 後でお話ししよう。お昼休み暇?」
「えっ、えっ、うん……」
クラスで人から話しかけられるのなんてほぼ初めてだったから挙動不審になってしまった。しかも昼休みの約束まで。このクラスになって初めて……いや、高校生活初めてくらいなんじゃないだろうか。
……後にして思えば、この時から色々なことが動き出していた。
一因に太極拳が……あったのかもしれない。
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