第3話 忘れられない

 学校をサボるつもりだったから、時間はあった。

 そのまま志村さんにくっついて練習した。二十分の「慢架」。本当は四、五十分かかるものらしい。


「いい具合に体の力が抜けている。頭も空っぽだった? 意念がないのはすごくいいことだよ」


 やたらに褒められた。人から褒められるのなんて久しぶりで、何だかくすぐったい。

 そんなむず痒い気持ちを抱えていたら、志村さんが急に笑った。輝くような、綺麗な顔で。


「君、やっと笑ったね」


 そうか。私今、笑ったのか。

 久しぶりに感情を表に出した気がした。何だか悪いことをしたような、不思議な気分になったけれど、でも不快ではなかった。


「毎朝ここで練習している。金曜と日曜は昼過ぎまでやってることも多い。いつでもおいで」


 十時頃、志村さんは帰った。私は公園に残った。公園に残って一人、木漏れ日の下、さっき教わった動きを復習してみた。気持ちよかった。爽やかだった。


 *


 いつでもおいで。


 志村さんはそう言っていた。本当にいつでも行っていいのだろうか。迷惑じゃないんだろうか。一人で練習すれば捗ることも、私みたいなド素人がいたらままならないことだってあるだろう。


 それに、私としても……。

 高校二年生の今から何かを始めてものになるとも思えない。だいたい何かをやってる子は小学生や中学生の頃から始めていて、高校から新しいことを始める子だって一年の頃にはもうスタートしている。二年の今頃、それも太極拳を始める子なんていない。


 でも、でも。

 気持ちよかった。風や日差しの中に身を置いて、ゆっくり体を動かして深く呼吸をして、水の中に浮かんでいるみたいに、頭を空っぽにするというのは、あんなに気持ちいいんだという、気づきを得ることができた。


 金曜日と日曜日は昼過ぎまで練習をやっていることもある。


 確かそう言っていた。

 多分、明日学校に行かないとさすがに家に連絡が行く。明日は学校に行かないといけない。でも、昼過ぎまでやっているなら、出席だけとってさっさと学校から逃げて、あの公園に、お昼ぐらいにつけば、そして志村さんがいれば、もしかしたら……。


 いやいや。首を振る。

 高校生が太極拳? 何を言ってるんだ。

 でも、すごく気分がよかった。

 才能があるって言われた。


 一晩中悩んだ。元より眠れないことが多かったから、ベッドに沈んでぼんやりと、太極拳を始めた未来と始めなかった未来、どちらについても検討した。答えが出たのは夜中の二時くらいだった。こうと決まると不思議なもので、ぐっすり寝ることができた。


 *


 くすくす。

 くすくす。


 学校に行くと笑われる。私の存在がおかしいのだろうか。それとも単に不快な思いをさせるためだけに笑っているのだろうか。どっちかは分からない。分からないまま、席に着く。いや、着こうとする。椅子がない。


 仕方がないので立っている。私の後ろを通る時に、誰かが私の背中をこっそり、肘で小突いた。前につんのめるが机に手をつく。やっぱり学校だ。学校は学校だ。


 出席をとられた。泉、お前何で立ってるんだ。先生にそう訊かれた。


 くすくす。

 くすくす。


 先生も察したのだろうけど何も言わなかった。見て見ぬふりというやつだ。大人な対応。みんなと同じ。


「お前、何で生きてるの?」

 出席を取った後。

 一限目の授業が始まる前の僅かな時間、私に話しかけてきた子がいた。

 鈴東すずとう莉麻りま。このクラスの女子のトップ。ついでに言うとこの学年の不良女子たちのトップ。よく廊下や空き教室で取り巻きとつるんで下品に笑っているところを見かける。

 そして、私をいじめる人たちの主犯格でもある。


「学校来るなよ。死ね」

 足元を蹴り払われて、私は何もできずに床に倒れ込む。その様子を見てまた笑い声が聞こえる。

 くすくす。

 くすくす。


 鈴東が私を一瞥していなくなる。私は何とか立ち上がると、用が済んだのでさっさと帰った。教室を出る時もあのくすくす笑いが聞こえたけれど気にしなかった。

 自宅の最寄り駅に着くと、真っ先にあの公園に向かった。改札を出るのももどかしい気分だった。


 歩いていた。最初は歩いていた。気づけばリズムよく足が動くようになって、だんだん、速度が上がった。いつの間にか公園についていて、そしてそこで、やっぱり志村さんが太極拳をしていた。ただ今日は、いつもやっている動きとは違った。足がほとんど動いていなかった。昨日やったやつは足を上げたりしていたのに。


「お、来たね」

 志村さんが首を動かすことなく私に告げる。

八門五歩はちもんごほというのをやっている。君もやってみる?」


 答えなかった。答えるより先に体が動いて、私はスクールバッグを脇に置き、志村さんの傍に立って同じように体を動かしていた。海の底、波間で揺れる海藻のような動きだった。


 水をかき分けるように手を動かす。ゆったり体を動かしながら、思った。昨日やった慢架まんかの重要な部分、エッセンスのようなものが詰まった動きだな、と。


 ひとしきり、その八門五歩なる動きが終わった後、志村さんは私に感想を求めてきた。どうだった? 気持ちは落ち着いた? と。


「はい。穏やかな気持ちに……」

「それはよかった」

 微笑む志村さんに私は続けた。

「あの、この八門五歩って、何だか昨日の慢架っていう動きの重要な部分が集めたみたいなものでしたね。これをやれば慢架も上手くなりそうだし、慢架を丁寧にやれば八門五歩でも気持ちを落ち着けることが出来そう」


 すると志村さんが一瞬、ぽかんとした。それからつぶやいた。


「やっぱり君才能あるな。たった二日で慢架と八門五歩が繋がるとは」

 褒められると嬉しくなってしまう。当たり前のことだけど、私にとっては当たり前じゃなかった。最後に褒められたのなんていつだろう。すっごく昔のことのように思う。

 そんな風に、心の中に吹いた穏やかな風に当たっている時だった。私の口から、自然にこんな言葉が出た。


「教えてください」

 言ってしまった。でも後悔はなかった。

「教えてください。太極拳」


 すると志村さんは考えるような顔になった。


「人に教える、か。多分師父は喜んでくれるだろうけど、兄さんと姉さんには話を通さないといけないかもな」


 でも、と志村さんは考えてくれた。一人の子が、変わるきっかけになれば。そんなことをつぶやいた。


「明日、一門の人たちにおうかがいを立ててみるよ。明後日またこの公園においで。一緒に練習しよう」

「はい!」

 自分でもびっくりするくらい元気な声が出た。何でだろう、お腹の底が、というか全身の隅々が、温かかった。

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