第2話 才能があるよ

 警察に行ったのは、多分人生で初めてだった。

 名前を訊かれ、住所を訊かれ、生徒手帳を確認され、私を助けてくれた男性も名前と住所と身分証を確認され、少しの間、交番のカウンター席みたいなところに座って待たされた。殴られた頬、擦りむいた膝、とにかく痛かった。


 少ししたら女性の警察官が出てきて、怪我の具合、襲われた当時の状況、色々訊かれた。ぽつぽつ話している内に親が来た。まず母。一秒後に父。母にいきなり抱きつかれる。


「どうしようかと思った……本当に……本当に……」


 暑苦しい。

 父は警察官と色々話していた。被害届が何やら、治療費が何やら。


「このところ女性に背後から襲い掛かって暴力を振るう事件が頻発していまして」

 男性の警察官が渋面を作る。

「巡回を強化しているのですが」


 父は困ったような顔をした後、あれやこれやと警察官と話をした。それから、私を助けてくれた男性に何度もお礼を言っていた。彼の名前は、どうやら志村大軍さんというらしかった。


「素敵なお名前で」

 父が迂遠に「変わった名前だな」と訊くと、志村さんも分かったのだろう。「帰化した中国人です」と笑った。奥さんが日本人らしい。


 その日はもう遅かったので、書類なんかの作成はまた翌日という運びになった。学校があるだろうから、放課後、十六時くらいに来てください。怪我の具合を訊いてくれた女性の警察官にそう言われる。母が私より先に頷いた。どうやら、というか確実に、同行するつもりらしい。


 警察官に頭を下げ、志村さんにお礼を言い、私たちは帰ることにした。交番を去る際、何でだろう、志村さんの横顔に見覚えがある気がした。この辺に住んでいる人なのだろうから、どこかですれ違ったのかもな。その時はそうとしか思わなかった。


 そんなことが前日にあったからだろうか。

 木曜日。月火水と学校をサボっているので、計算上では今日行かないと週に二回の登校は果たせなくなってしまうのだが、私は学校に行く気分じゃなかった。でもこの日はちょっと勝手が違った。


「お父さんと駅まで行きなさい」

 どうやら昨日のことを心配して、ということらしい。

 父に付き添われて駅まで行った。かなり気まずかった。何を話していいか分からない。別に嫌いってわけじゃ、ないんだけど。多分相手がお母さんでも同じことを思っていたと思う。


 父と私は使う路線が違うので、駅に着くと改札のところで別れる。


「気をつけて行けよ」

 父が心配そうな目を私に向ける。私は曖昧に微笑むと、お父さんに「いってらっしゃい」と手を振った。父も振り返してくれる。


 やがて歩いていく父の背中を、私はぼんやり見守った。それから私は改札はくぐらず、しれっとした顔で駅から出て、いつものコースを歩き始めた。公園に向かうコース。どこにも属せない私が、唯一一人でいられる場所。


 ただ、この日は、やっぱりそういう運命だったのだろう。


 景色が違った。それは何かが大きく変わった、例えば植え込みにあるツバキの花が咲いていたとか、大きな工事があったとか、大道芸人がパフォーマンスをしていたとか、そういうのじゃない、明らかに私の認識が変わったから起きた変化だった。


 その変化以外はいつも通りだった。

 体操をする人。

 幼稚園のお見送り後のお母さんたち。

 つるんで下品な笑い方をする男子。

 でも、最後の「いつも通り」が。


 昨日の再来だった。最後の「いつも通り」、つまり「太極拳をしている人」が違ったのだ。いつも通りだけど、いつもの見方ができなかった。私は彼を知ってしまっていたのだ。

 それは昨日私を助けてくれた、あの不思議な男性だった。

「太極拳をしている人」。

 それは志村大軍さんだったのだ。

 道理で見覚えがあるわけだ。

 毎朝見ていたのだから。


「あ」


 目が、合ってしまう。

 彼も私に気づく。それから何を思ったのか、ゆっくり、それこそ太極拳みたいな歩みで、私の方に近づいてきた。

 太腿に触れるベンチの冷たい感触が、何だか棘を持ったような気がした。揺れる木漏れ日がスローに感じる。芝生の広場がある公園で、だからこそ色んな人がいて太極拳の練習をしている人も目立たないような場所なのだが、この日は志村さんがすごくハッキリ、鮮明に見える気がした。彼が私の前に来た。


「おはようございます」


 あまりに当たり前すぎる一言に私は拍子抜けしてしまう。私も挨拶を返す。すると志村さんが笑った。


「仕事がフリーランスだから、朝はこうしてここで練習しているのだけれど」

 訊いてもないことをぺらぺらと話す。

「そうか。よくここに来ている女子高生が君だったか」


 私が志村さんに対して抱いた気づきを、どうやら彼も得たようだった。彼は笑いながら続けた。


「学校は?」


 答えづらい。

 すると沈黙が雄弁だったのだろうか、志村さんは萎むような控えめな笑顔を見せると私の隣に座った。それから続けた。


「学校はいづらい?」

 何も言えない。

「僕も昔はそうだった。まぁ、僕の話は興味ないか。それよりも、もし、暇なら」

 志村さんは私の顔を覗き込んだ。

「一緒に太極拳、練習しない?」


 *


 特に断る理由もなかった、というか、昨日助けてもらった手前、断りづらかった、というか。

 私は志村さんと太極拳なるものをすることになった。二人して芝生の広場の片隅に。スリムなデザインのスウェットを着た志村さんは、私の前に立つと、「何となく僕の動きを真似してみて」と告げた。それからすっと、お腹を底に落とすというか、肩から力を抜くというか、不思議な立ち方をした。


「今からやるのは慢架まんかと言います。まぁ、一般的に『太極拳』と聞いてイメージできるあのゆっくりした動きの練習かな。何となくでいいから、ついてきて」


 と、彼がゆっくり両手を上げていった。私も真似して両手を胸の高さまで持っていく。それからまたゆっくり、大きな何かを沈めるように下ろしていく。かと思うと、今度は両手で梯子を作るような、何だか不思議な形を作った。これはちょっと難しそう、と思った。


「君は初めてだから全体の半分くらいにしておこうかな。多分二十分くらいで終わる。疲れたり嫌になったりしたら途中で抜けていい。なるべく、追いかけてみて」


 言われるままに動く。不思議な動きが多かった。

 腕の中、胸の前あたりに空間を作るような構え。

 両手で弧を描くような動き。

 そんな動きがいくつか。手をくるくる回すような動きや、片手で前方を押し出すような動き、どうもパターンがあるらしかった。繰り返し動作が意外と多い。かと思えば急に片足立ちになったり、くるっと向きを変えたり、飽きがこないというか、シンプルだけど変化に富んだ動きだった。説明が難しい。


 で、本当に二十分くらい。

 志村さんが両手を前方に持っていったかと思うと、また何かを沈めるように、ゆっくりと下ろしていった。何となく、感覚で分かった。終わったんだ、と。


「君、名前何て言ったっけ?」

 訊かれたので答える。

「泉舞です」

「泉舞さん」

 それから、志村さんは考え込むような顔になると、唐突にふっと表情を砕けさせた。その笑顔にどんな意味があるのか、私にはさっぱり分からなかったが、彼は何でもなさそうに告げた。


「泉舞さん。君、驚くほど才能があるよ」

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