上善は水の如し! ~女子高生、太極拳始めました~
飯田太朗
第1話 私はどこにも属せない
トイレにいると、上から水が。
教室にいると、「臭い」と言われ。
廊下を歩くと、誰かに足をかけられる。
咳が出る。動悸。苦しくて、パニックになる。
廊下でのたうつ私を見て、誰かがくすくす笑う。
やがて、どうやったのだろう、私は保健室にいて、先生がいつも通りのことを訊いてきて、そのままベッドで寝て。
そうやって一日が終わる。家に帰ると体が綿のようで、頭蓋骨には泥が詰まっていて、何もできなくて、部屋で死んだように眠る。ご飯は食べない。食べられない。かれこれ二年くらい、晩御飯を碌に食べていない。食べても味がしないし。
学校をさぼることを覚えたのは自然だった。
朝、学校に行くふりをする。駅の方に歩くふり。いや、歩いてはいるのだけど、駅に入る前に右手に折れて、そのまま駅近くにあるちょっと大きめの公園に行って、ベンチに腰掛ける。朝早い内はベンチが冷たい。そのひんやりとした感触が、何でだろう、温かいような気がして、私は生きていることを実感する。朝、学校をさぼってこのベンチに座るこの瞬間だけ、私は生きている。
公園には色んな人がいる。
走っている人。
体操をしている人。
幼稚園のお見送りの後なのだろうか、談笑する女性たち。
太極拳をやっている人。
つるんで下品な笑い方をしている私くらいの男子が数名。
そんな人たちを眺めて思う。
私は、どこにもいない。
私はどこにも、属せない。
*
あんまり休んでばかりいると学校から家に連絡が行くので、週に二日は学校に行くようにしている。保健室登校がほとんど。たまに図書室に登校する。教室に行くといじめられる。だから行かないようにしているのだけれど、何でだろう。まだあそこが居場所だと心のどこかで思っているのだろうか。たまに足を運んでしまう。そして気付く。私はここに、いてはいけないのだと。
教室の隅にある、座席表。
小さなホワイトボードにマス目が書いてあって、マグネットパネルに生徒の名前が書いてある。パネルが生徒の席を示している。そんなパネル、私のものが。
黒く塗りつぶされている。「泉舞」私の名前。もう読めないけど、私の名前。
机に行くと、落書きがされている。意味はないけど、読む。
「泉舞はお亡くなりになられました」
「死ね」
「何で生まれたの?」
心が痛くなって、目を閉じる。呼吸しづらくなって、ふらふらと教室を出る。背後から、笑い声が、聞こえた気がする。
それから保健室を目指す。
体が硬い。筋肉が石のようだ。
筋が伸びきったゴムみたいに軋む。
肺が機能しない。息が苦しい。
助けて。誰か助けて。
声が出ない。気持ちだけが喉の奥に詰まって、口から出ようとしてくれない。
せめて文字なら、とスマホを見る。
画面に映る、私の顔。
醜い。
何で生きてるんだろう。何でこんな生き物が存在しているんだろう。
涙が零れる。拭いながら廊下を歩く。チャイムが鳴って、生徒たちが教室に入る。静かになった廊下をひたすら歩いた。砂漠の中を歩いているみたいだった。
*
親からは発達障害を疑われていて、カウンセリングに通っている。
医師からはその傾向はないと言われているのだけれど、どうあっても学校に馴染めない私はやっぱり両親から見てもおかしい存在に見えるのだろう。二週に一度、駅前のカウンセリングルームに通っている。何とか心理士とかいう資格を持ったお姉さんに話を聞いてもらう。話すことなんてほとんどないけど、しんどいとか、眠いとか、そんな話をする。
「舞ちゃんはもう少し、柔らかく生きられるといいね」
カウンセラーの柴田さんがそうため息をつく。
「私と話す時もそうだけど、絶対に目を合わせないし、体も緊張しているし」
あんたが怖そうなだけだよ。こっちに入って来そうなんだもん。
「人と距離を、置き過ぎているのかもな」
そんなことない。
「薄情な人間だって思われているのかも」
薄情なのはどっちだよ。金もらってるくせに。
心をなだめるはずのカウンセリングで、逆に心をささくれ立たせながら私は家路についた。駅から家への道。住宅街を通るから、街灯が少ない。暗い中を一人歩く。静かに、死んだように、影みたいに。
夜の底は居心地がいい。
このままずっと闇に沈んでいたい。
そうして、誰にも認識されない、空気より僅かに重い存在になって地表に留まって。
何となくその辺を流れることができたら、どれだけ幸せだろうな。
とりとめもない思考だった。考えるだけ無駄なこと。何も生み出さない非生産的な空想。
そんなのに飲まれている時だった。
唐突に背中を突き飛ばされた。
思いっきり前につんのめってアスファルトに顔面から着地する。かろうじて両手で顔は守れたが完全に地面にへばりついていた。
何が起こったか分からない。顔にかかった髪を払って上を見ようとした、その時。
思いっきり、殴られた。
再び地面に叩きつけられる。誰だか分からない暴漢は、私の髪の毛をつかんでまた起き上がらせた。地面に叩きつけられたくはないので手をついて体を支える。そこにまた、飛んでくる拳。
何もかもスローだった。ああ、死ぬんだ。そう思った。こうやって誰かも分からない人のサンドバッグにされて。アスファルトに何度も何度も何度も叩きつけられて。ゴミクズみたいに、ボロ雑巾みたいに。さんざんに痛めつけられて死ぬんだ。
そう思っていた時だった。
何かが私と暴力の間に割って入った。暴力がたじろいだのを気配で感じた。私のかすんだ視界にそれは入ってきた。男性。何か、しなやかな動きで暴力をいなして、跳ね返している。
暴力が……暴漢が私みたいに地面に叩きつけられ、悲鳴を上げる。完全に怖気づいたのだろう。男は叫びながら逃げていった。
そうして私と彼とは取り残された。私と、暴力から私を守ってくれた、謎の彼とが。
「大丈夫?」
男性は私に手を差し伸べてくれた。
私は起き上がった。
何もかもが分からなかった。
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