トリフィリアの夜
@waduka227
episode:0.5 「無地の日記帳」
時節は秋の暮れ。時刻は、夕方六時を過ぎたばかり。
カラカラとした空気が肌にひりつき、外気は指先を冷やそうとするばかり。息を吸うたびに、どこか痛みが走るような、そんな錯覚が増えていくころ。
僕が彼女と出会ったのはそんな乾ききった季節だった。
「お前、どこの田舎者だ?」
そう言って少女は僕の腕を掴む。細腕から想像できないほどの力で引き上げられ、体幹がよろめく。思わず情けない声が出るが、転倒はなんとか防ぐことはできた。
鞄も服も、すべてが砂埃まみれ。だが、僕はそれを払うこともできずに、ただ目の前の彼女に釘付けとなってしまう。
「下がれ」
じろりと視線で責められたかと思えば、すぐに逸らされ、彼女は背を向ける。
「……廃人になりたくなければな」
携えられていた鋏が、暗闇の中で物騒な光を放った。思わず喉が鳴る。
華奢な体。厳ついゴーグルに、手袋。闇に溶けるような黒髪と、目の覚めるような赤色が視界の中で交差する。
そんな僕らと向かい合わせになるように――
見慣れない生命体が、ゆらゆらと脈を打っていた。
【○月○日 天気:くもり】
恋は突然やってくるというが、電光石火とはまさにこのことだろうか。
日記なんて書く柄ではないが、ふいに「青春の1ページ」というものを綴りたくなりこうして新品のノートを用意した次第だ。なんの変哲もない無地のノート。それでも、白紙というものは、なんだか心が躍る気がする。
これからここに記すことは、無論、誰に見せるわけでもない。見せるつもりもない。僕だけの日常であるのだから。
……さてさて、書き出しをどうしたものか。とりあえず自己紹介でも書いておこうかな。記念すべき、1日目だし?
というわけで改めまして。僕の名前は『津野灯一』。特筆するようなことは何も無い、どこにでもいる平凡な男子高校生だ。名前は”ともいち”と少し変わった読み方をする。難読がゆえ、間違えられることにも訂正することにも、もうすっかり慣れてしまった。そんな僕が、僕だ。
まどろっこしい文章は苦手なので、端的に書こう。
-僕は、逢坂暦という女性に一目惚れした。-
……うーん。
『女性』よりも、『女の子』という書き方の方がふさわしいだろうか? あどけない顔立ちをしているし、きっと彼女は同い年くらいなのだと思う。
推測しかできないのは、暦さんがまだ自分のことを何も教えてくれないからだ。知っているのは名前と声だけで、彼女が一体どこに住み、どういう生活をしているのかは何もわからない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
-暦さんは恩人だ。-
-僕の命を救ってくれた人だ。-
出会いはひと月ほど遡る。その日は朝から雲行きが怪しく、日が落ちるのも幾分と早かった。
まるで幽冥へと誘われるかのように、薄暗い路地へと迷い込んでしまった僕は、その場で身動きが取れなくなっていた。
背後は行き止まり。目の前には、退路を防ぐ大きな巨体。いや、生命体というべきか。
……そいつのことはよく知っていた。
『カハク』。 夜闇とともに現れる化け物。
「化け物」という表現がはたして相応しいかは分からないが、物心ついた頃から、その存在についてはよく教え込まれてきた。時に親、時に親戚、そして教育機関から始まり、大衆に向けたメディア。果ては創作の神話に至るまで、そのいずれもが口を酸っぱくして唱えるのが、以下の三箇条である。
ひとつ、それを見てはならない
ひとつ、それに気が付いてはならない
ひとつ、それに近づいてはならない
見るな、気付くな、近付くな。まるで張り詰めた人の心に触れる時のそれのようだと、幼心ながらに思っていた。そう、カハクは出会ってしまったら最後、普通の人間には立ち向かうことの出来ない、とても危険な生命体だ。そのように教育されてきた。
そして、その存在と、対峙してしまった。
「………………」
嫌な汗が流れ、あごの先まで伝ったのが感覚で分かる。ここは路地。背後は廃品だらけのごみ捨て場。それ以外には、高いレンガ壁があるだけ。……完全に行き止まりだ。砂埃交じりの空気が、鼻の奥に引っ掛かる。
底冷えするような路地裏を更に太陽から隠すように、カハクはびっしりと葉を広げている。教科書で見た図録とは違う、いや、こんなのはどこにも載っていなかった。まるで見覚えのない形態だ。
本体と思わしき部分は風船のように大きく膨らみ、その中心部は煌々と光を灯している。オレンジ色の、どこか暖かさを感じる光。脈打つように明滅し、それに呼応し伸縮する巨体。――まるで、胎動しているかのようだ。
危険信号が喉元まで刃を突き立てているというのに、見ては、いけないもの、なのに……何故か。目が反らせない。
鼻腔をくすぐる甘い匂い。ほのかに照らされる、自分の肌。
……頭が、くらくらする。
「どけ!!!」
突如、つんざくような怒号が頭上から降ってきた。
びくりと反射的に身体を引くと、眼前にひとつの人影が、ガシャリ――と派手な金属音とともに着地した。長い髪がふわりと舞い、レンズの向こう側を彩る。
細めた視界を裂くようにして、光の直線が描かれる。ひと筋、ふた筋、そしてみ筋。
僕が息を吞む間に、カハクの巨体は、割れ目を描くようにして崩れ落ちていく。一体この一瞬で何が起きたというのだろうか。緑色の何かが視界の隅を舞う。咽ぶような湿気を含んだ土の匂いだけが脳の奥を刺激する。
閉じられていた退路が、ばらばらとパズルのピースのように崩れ落ちるような……そんな、幻想的な視界の中。
「逃げるぞ!」
――乱暴に胸倉を捕まれ、僕は小さな少女に引かれるがまま夜の暗がりを駆けだしていた。
「まさかこの時間にふらつく阿呆がいたとはな」
「……っ、すみません」
投げるように少女に放られ、ドサリと尻もちをつく。彼女に引かれるまま無我夢中で走っていたが、いつの間にか街灯のある場所へとたどり着いたようだ。頭上では、羽虫が光に向かって噛り付く音が、バチバチと響いている。
眼鏡をかけ直し目線を上げると、少女がふんと鼻息を鳴らしている姿が良く見えた。……ゴーグル越しのため顔立ちまではわからない。が、同じくらいの年頃に見える。むしろ、歳下なのかもしれない。そんな年端も行かぬ少女に僕は助けられたということだろうか。落ち着かせるように息を整え、彼女に問いかける。
「さっきのって、カハクですよね……」
「見てわかるだろ。逃げもせずにぼけーっとしやがって」
初めて見た。そう言って僕は胸元を抑える。味わった覚えのない感覚だった。対峙すれば最後、怯む間もなく八つ裂きにされるものだと思っていたが、……飲み込まれるような、摂り込まれるような、恐怖とは別の脅威があった。
そんな僕の胸中を察してか、少女は続ける。
「ま、あの手のタイプは珍しいがな。あれは人をまやかしで引き寄せる品種だ」
彼女は携えていた大鋏を腰に納め、両の手のひらをヒラヒラと振る。分厚い手袋が目につく。
「すぐには攻撃してこないってのも稀有なもんだ。運が良かったな。フツーのカハクだったらお前、今頃血塗れのぼろ雑巾だぞ。もっとも、あのままでも廃人コースだったろうな」
漏れ出る悲鳴を飲み込むように、ごくりと喉が上下する。
「それ、度入りか?」
「あ、……え、これですか?」
僕の目を指さして少女は問う。かけている眼鏡のことを聞いているようだ。
カチャリと外すと、頼りない視界に包まれ、自然と眼孔に力が入る。僕は視力が酷く、これが無いと何も見えない。それを素直に伝えると、彼女は「成程」と合点がいったように顎に手を添えた。
「今回はそれに助けられたみたいだな」
聞くところによると、あの姿を直視していたらもっとマズい状態だったらしい。全身をなぞられるような感覚を思い出し、身震いする。
少女が付けているゴーグルもおそらく特注品なのであろう、特殊な色の光を反射している。それに、ゴーグルだけではない。腰に掛けられたベルトにはなにやら僕が知り及ばないような器具が押し込まれているようにも見える。着ている服も、手袋も、全てが革製の丈夫そうな生地で仕立てられているようだ。
何より印象的なのは、彼女の腰の高さまである、大きな鉄製の鋏であった。
――間違いない。
彼女は、『お花屋さん』だ。
ふいに脳裏に浮かんだ、まるで幼言葉のようなそれに、思わず苦笑しそうになる。ケーキ屋さんやパン屋さんじゃあるまい。けれども、彼女が”それ”であることは確かだろう。もっとも、幼い子供が憧れるにはあまりにも無骨で、泥臭く、命知らずな存在。
言い方を直して、僕は改めて命の恩人に向き合う。
「……あなたのような『花屋』、初めて見ました」
そういうと、彼女は「そうだろう?」と笑みを返す。不敵な声色のままだが、ゴーグルの奥が、綻んだ気配がする。つられて自分も、肩の力が不思議と抜ける。……はは、情けないな。安心したせいか、身体に力が入らない。かろうじて動かせる指先は、じゃり、と力なく地面の石粒を撫ぜるだけ。ひやりとした質感に、指先が凍る気配がする。
弛緩した身体からは、溜息が白い気体となって吐き出され、逆に吸い込もうとするそれは僕の胃の中ごと冷やそうとして来るのを感じる。夜の空気の、味がした。
「大丈夫か?」
心配そうに顔を覗いてくる彼女が居た。
「お前、死にかけてたもんな」
僕のことを捨て猫だとでも思っているんだろうか。そのまま頭を小突かれる。お手柔らかとはほど遠い、遠慮のない音がコツコツと響く。じっと視線を返すも、彼女はお構いなしといった風に、再び立ち上がって空を見上げる。
彼女の姿を追うように目線を上げると、視界に飛び込んできたのは、一面の星空だった。
思わず、息をのむ。
こぼれ落ちてきそうな光の粒は、太陽光とは違う色を世界に照らし出す。僕がただひたすらに暗い世界だと思っていた「夜」は、こんなにも鮮やかなものだったのか。
呆けている僕を、少女はからかうように見下ろした。
「もう迷い込むんじゃねえぞ? お前みたいなのに限って取り込まれやすいんだからな……」
彼女が笑う度、星砂を弄ぶかのように髪がゆらゆらと舞う。いつの間にかゴーグルを外していたのか、彼女の素顔と目が合った。その象りは逆光で上手く捉えきれないが、瞳の奥がチカリ、と輝いているのが解る。
人をまやかしで引き寄せる品種、とでも言ったか。
上手いことを言うものだ。
-貴方は一体何者なのですか-
問いを投げかけるように、視線を送る。彼女はふむ、と考えこむように口に手を当てた後、――こう言った。
「見送りも匿いも面倒だな、よし」
パン、と両手を鳴らすと、決まったな、といったふうに僕の首根っこを掴んだ。
驚いている間もなかった。
なぜなら、次の瞬間には僕の視界はぐるりと一回転した後、暗転したからだ。
身体が宙を舞い、全身が鉄製の何かに力強くぶつかった。ガシャンと鉄製の重苦しい音が鼓膜を擦る。
「…………は?」
身体が動かない。疲れや驚愕といった類のそれではない。何かに阻まれ、閉じ込められている。先程の目を奪われるような光景とは一転、正真正銘の闇だ。闇の中だ。しかもなんか生臭い。頬にチクチクと何かが刺さっている。
「ちょっと!? え、なんですか、何したんですか?」
闇の向こうから、呑気な鼻歌が聞こえてきた気がした。いや、気のせいだそんなの。あの美しい星空を纏う少女がこんなことするわけがない。
だからきっと、気のせいだ。この得体のしれない箱に閉じ込められる前に――「ゴミ箱にでも捨てとくか」なんてぼそりと聞こえたことも。全て、全て、聞かなかったことにしたい。
乱暴に蓋を叩いても、重石でも乗せられているのかガシャガシャとむなしい音が響くだけ。助けを請う僕の叫び声は、虚空に消えた。
――時節は秋の暮れ。時刻は、夕方六時を過ぎたばかり。
-僕は、とんでもない人と出会ってしまったのかもしれない。-
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