番外編 なにも知らないあなたへ感謝を込めて

世の中様


いつもお世話になっております。

田淵です。


木々の緑が目にまぶしいかと思われる今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか?

こちらは今、寝床の周辺に着々と食べ物と薬の空きガラを積み上げながら日々を送っております。


診断を受けた時には、まさか自分がという思考が強かったように思います。

ただただ、自分が無能であるがゆえに与えられた仕事を全うできなくなり、自分が弱く欠陥があるからこそ業務中なのに涙が勝手に出てきてしまうのだと思っていましたので。

しかしもし自身の友人や家族が同じような事を訴えていたら、自分は恐らく休職や転職、カウンセリングを提案したでしょう。

自身の状況を自身が一番分かっていないなんて、元気があったなら大声をあげて驚いたと思います。

当時の自分はひたすら身体を起こし続けることに必死で、そんな余裕はありませんでしたが。


無事休職と相成りましたが、残念ながらそれは穏やかなものにはなりませんでした。

規則的な生活リズムでと言われても、寝ると決めた時間に薬を飲んで布団に入ったのに寝れず、ただ寝床の中で無為な時間を過ごすことになり、日が昇ってしばらくするといつの間にか気絶している。

起きても溌溂とした体調ではいられず、まるで筋肉が無くなったか体重が何百倍にもなったかのような重さで起き上がることが難しい。

バランスの良い食生活を送ろうとなんとか買った生鮮食品は、調理という重労働をすることが出来ずそのまま胃に詰め込めたもの以外は、ここ数週間開けていない冷蔵庫の中に眠ったまま。

薬を飲むためにレトルトの袋を開け、レンジだの湯煎だので身体を起こしているのも苦痛のため加熱せず胃の中に流し込む。

風呂掃除をして湯を溜めるのも体力がもたず、風呂場の床に蹲りシャワーを頭から被ることでなんとか清潔を保つ。

そして、起きていてもいなくても、何をしてもしていなくても自身を責めたて続ける自分の声。

この苦痛は、休職してから強くなったのでしょうか?

それとも、同じほどだったにもかかわらず業務をこなせていたのでしょうか?

自分視点が信用できない今、答えがでることはないのでしょう。


しかし人間は慣れるもので、数ヶ月と布団の虫を続けていると虫なりに開き直り思考がぽっと姿をあらわすことが増えました。

『どうしようもないんだからどうしようもないじゃないか』と、自身を責め立てる声の中に紛れて独り言ちているのです。

そして自分自身も、時折その声に「どうしようもないんじゃどうしようもないな」と返せることが増えてきたように思えます。

どんな状況であろうと適応しようとする人体の機能でしょうか。

それとも、快方にすこしずつ近づいているゆえでしょうか?

もしそうならば、自分が無為だと思っていたこの長い時間が身体にとってはそうでなかったのだということでしょう。

改めて、人間の肉体と精神の理解の隔たり具合には驚くばかりです。


とはいえ身体が重い日々は変わらず続きます。

布団と自身が一体になったような感覚のまま天井を眺め続ける毎日。

通院のための外出では、そのたびに季節が一足飛びで変わっているのを肌で感じ、戸惑いを覚えながらもまた布団の虫に戻るのです。

いつここから抜け出せるのか、そんなことは考えなくていいと医者に言われているけれど。


ある時、カランコロンという音がして目が覚めました。

乾いていて、でも柔らかいその音はアパートの前の道を通りすぎ、小さくなっていきました。

木造で防音もそこまでされていないアパートのため、井戸端会話や、自転車の通る音、酔っ払いの歌声などもよく聞こえる部屋ではありましたが、その音を聞いたのは初めてだったように思います。

その時期は日の8割を寝て過ごしており、それだけ寝てるにもかかわらずまだ強烈な眠気に襲われる日々でしたので、起こされたことへの若干の不快感を覚えつつ、その時はまた眠りについていた気がします。


再びその音を認識したのは、しばらくたってからでした。

また家の前の道路を通るカランコロンという音で目が覚めたのです。

外から差し込む陽の光を布団の中から呆然と眺めながら、その音を聞こえなくなるまで追い続け、「あぁ、木の音か」と得心がいった事をよく覚えています。

そして、音を普通に聞けること、聞いてその正体に思考を割ける事に驚いたことも、とても良く覚えています。

休職してそれまでは人の話し声は、何を言っているか分からない怒号、若しくは意味を聞き取り理解するまでにとても気力と体力を使う異文化語のようにしか聞こえず、お気に入りの曲やBGMもただただ脳を擦り減らす雑音にしか聞こえなくなっていました。

なのにその木の音はなんら自分をすり減らすことなく自分の中に入ってきたのです。

明確に、自身の身体に変化があったのだと感じた出来事でした。


それからというもの、その木の音で目が覚める日々が続きました。

音がして、起きて、時間を確認すると決まって朝の全く同じ時間のため、目覚まし時計代わりにちょうど良くはありました。

ただ土日祝日や大型連休の時には音がしなくなるため、完璧に規則正しい起床とはなりませんでしたが。

しばらくそんな日が続くと、天井を眺め続けるのに飽きたな、少し体を起こしてみようかなどの考えがふわりと浮かぶようになっていきました。

結局起きなかった時もあり、起きようとしてみたけれど難しかった時もあり、起きれた時もありました。

ある起きれた時に、思い立って寝床の周りに積んでいたゴミを大きなゴミ袋に纏めることが出来た時、かなり疲れはしたものの今まで感じた事の無い達成感を覚えたのは鮮烈な思い出です。


レトルトの食品を久々に温かくして食べれたり

シャワーを蹲らず浴び、身体を洗うこともでき

掃除や洗濯などの家事もすこしずつやれるようになり

テレビはまだ疲れてしまうけれど、ラジオなら言葉がかみ砕けるようになり

自分を責める声はまだ聞こえるけれど、頻度も強さも以前よりはずいぶんマシになり

夜が更け寝床につけばまだ暗いうちに寝ることができるようになり

また通りすがるあの木の音で目を覚ます。


足の指でにじり歩くような速度ではあるけれど、当たり前のようにしていた普通の生活が近づいてきている気がします。

ずいぶん前から開けていないパンドラの中身を改める気力と体力は、まだ溜まっていませんが。


とはいえもちろん、牛の歩みの自分をよそに世の中はさっさと先に進んでいます。

季節は相変わらず一足飛びで駆け抜けていってますし、木の音の主も、淡々と、黙々と、日々何かをしに家の前の道路を通り、夕方同じように音を鳴らしながら通り過ぎていきます。

自分の事などつゆほども知らず、気づかず、関係無く、進んでくれています。

それが今の自分には心地好い。

どれだけ立ち止まっていても、ひどく遅い歩き方をしていても、知らない人は知らないのです。関係無いのです。

この先自分が普通の生活を送れるようになって、そしてまた何もできなくなっても、あらゆるものがなんでもない顔をして進んでくれる。

そして、もしかしたら自分と自分の知らないだれかと立場が逆になっている時があるかもしれない。

進んであげている、支えてあげているなんて思い上がりではなく、自分と同じように思ってくれる人が世の中のどこかにいるかもしれない、いるだろうと思うようになり、ずいぶん気が楽になりました。

蓼食う虫も好き好きと言いますし。

意味はすこしずれますが。


木の音の正体が一体何なのか、その持ち主がどのような人なのか。

確かめる気はありません。

もちろん声をかける事も一切無いでしょう、突然知らない人が声をかけてきて「あなたの鳴らしている木の音をずっと聞いていました」なんて言ったとて、恐怖以外なにものでもないでしょうから。

でもそれでも、彼か彼女かわからないその方に多大なる感謝と祝福を。

木の音に医学的な作用があったなどとは言いませんが、自分を救ってくれた一つではありますので。

あなたのこれからに、溢れんばかりの幸せがありますように。






世の中様


いつもお世話になっております。

田淵です。


ついに、パンドラを開ける気力と体力と覚悟がたまりました。

中がどのようになっているのか、いわゆる腐海のような有様なのか、意外となんてことない状態なのか、予想が全くつかない故の恐怖心に満ち満ちております。

いくつか単語を組み合わせて検索し、前例が無いか、どう対応すればいいかなどを調べようとしましたが、調べ方が悪かったのか見つかりませんでした。

食中毒の危険だの、美味しく食べれる正しい保存方法だの期間だの、それどころの話ではないというのに。

とはいえこのまま放置するわけにもいきませんので、ついに今日、着手しようと思います。

幸運を祈っていただけたら幸いです。

いえ、この場合の幸運とはいったいどのような状態の事を示すのか何もわかりませんが。

とにかく、なにか良いようになれば幸いです。



それでは引き続き、よろしくお願いいたします。


田淵

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