旧 第一話

『いつも威嚇してくる地域猫が今日は撫でさせてくれて嬉しくて

開けたドアの角に小指をぶつけてすごくイライラして

小さい頃から知ってるタレントさんの訃報で悲しくなって

誘われて試しにやってみたゲームがめちゃくちゃ楽しくて

そんななんでもない事が誰かのためになるなんて

その時の私は思ってもみなかった』


教室の窓際、暖かい日の光に包まれてうとうとと舟をこぐ氷見谷。その眠気で蕩けきった彼女の頬をむにぃと引っ張る指。


氷見谷「むぃえ」

清水「次移動だよぉ、氷見谷さん」

氷見谷「大丈夫、おきてる」

清水「さっきの授業ほとんど聞いてなかったでしょお」

氷見谷「いや、ちょくちょくは聞こえてたよ」

加藤「へぇ。次の授業でさっきの内容の小テストやるって言ってたけど大丈夫?」


隣の席から聞こえてきた加藤の言葉に氷見谷の細まっていた目がカッと開く。


氷見谷「……ノート見せてもらうことってできます?」

勇上「マジで寝てたのかよ。具合でも悪いんか?」


慌てて氷見谷が返す。


氷見谷「あぁごめん、そういうのじゃないの。最近朝にバイト入れてるから、この時間眠くなっちゃって」

清水「なんで?」

氷見谷「公演代」

加藤「……前にも言ってなかったっけ?」

氷見谷「それとは別! 今回のは新幹線で日帰りしなきゃいけないから……」

勇上「すげー。そういうのってめちゃくちゃ金かかるんだろ?」

氷見谷「全然安いよ! 毎回公演終わったらむしろ『このお値段でこんなに楽しませてくれてありがとう……!』ってなるもん。だからせめて物販も全種類買わなきゃ」

加藤「分かんないな。そういうの買わなくても、楽しかったって感想言ったり応援したりすれば良いんじゃない?」

氷見谷「でもそんなの役に立たないし」


思わず相槌が打てない3人。事もなげに言った氷見谷だったが、そんな3人の固まった顔に気づき首を傾げる。そんな氷見谷に向かって、勇上は大ぶりな動作で指を差した。


勇上「……意義あり! ちょっとそこに座りなさい」

氷見谷「えっ」

勇上「役に立たないことないだろぉ! 楽しかったって言われるのがどれだけ嬉しいと思ってんだ!」

氷見谷「だってぇ! それじゃ生活の足しにならないって言ってたんだもん!」

勇上「推しの人が言ってたん!?」

氷見谷「ファンの人!」

清水「熱っ」


ぎゃんぎゃん言い合う2人を生暖かい眼差しで見守る加藤と清水。


八宮「ほう」


バチンとバインダーをペンで弾く音。ギョッとして氷見谷と勇上が視線を向けると、教室の入り口に八宮が厳しい表情をして立っていた。


八宮「そのためなら学業を疎かにしても良いと。良いご身分だ」

氷見谷「そ、そういう意味で言ったんじゃ……」

八宮「ではどういう意味で言ったんだ? 言ってみろ」

氷見谷「……」

八宮「氷見谷。お前は特に奨学金などを受けておらず、授業料や学校納付金、教科書や文具、制服や通学費用はご両親から支払われているはずだが間違いは無いか」

氷見谷「……間違ってないです」

八宮「お前がこの学校に通うことによってかかる数百万円と、その公演とやらにかかる数万円。どちらを優先するべきかよく考える事だな」


バチンと再びバインダーを弾く八宮。ビクッと身体を震わせる氷見谷。八宮は踵を返して教室を去る。


清水「……言い方ぁ」

勇上「こっわ」

加藤「まぁドンマイ」

氷見谷「……」


落ちこむ氷見谷を見て逡巡した後、話しかける加藤。


加藤「……別に公演を諦める必要は無いと思う。観に行きたいんでしょ? そのために真っ当に頑張ってるんだし、授業も普通に受けて胸張って行ってきなよ」

清水「簡単に言うね」

勇上「まぁ、出来ればヤミセンも文句言えんだろ」

清水「そうだけどぉ」

氷見谷「……たしかに、私、どっちも頑張らなきゃだね!」


自身の両頬をバチンと叩く氷見谷。チャイムが鳴り響く。


清水「やっば」

勇上「走れ走れ」


バタバタと教科書を持って廊下へ駆け出す4人。

翌朝。朝日が差し込む氷見谷の自室。8時を示すスマホ。ベッドの上で青ざめる氷見谷。


氷見谷「あのっお疲れ様です氷見谷です! すいません、私寝坊して……!」


慌ててスマホでバイト先に電話する氷見谷。その後、教室の机に突っ伏して沈みきった氷見谷。「どうしたん?」「マジで具合悪くなった?」などと3人が声をかけているが、氷見谷の耳には入っていない。氷見谷の脳裏に「深夜帯のバイトの子に残ってもらったから、今日はいいよ。次からは気を付けてね。」と言う社員の顔が浮かび、申し訳なさ情けなさなど苦悶に顔を歪める。

翌日の早朝。ネットカフェ。店内とカーテンで区切られており、雑然としているバックヤード内の机に、立ったまま手をついてしんどそうに俯いている高橋。ネットカフェの制服を着た氷見谷が恐る恐るといった様子でカーテンをくぐり、入ってくる。


氷見谷「あ、あの、高橋さん」

高橋「……」


億劫そうに顔を上げる高橋。氷見谷は高橋に頭を下げる。


氷見谷「あの、この前はすいませんでした! 高橋さんが代わりに残ってくださったって聞いて……」

高橋「……別に。具合悪かったんでしょ」


高橋は大きなため息をついて、壁にかかっているバインダーに手を伸ばす。清掃のチェック表が挟まっている。


氷見谷「あっいえ、普通に寝坊で」

高橋「……へぇ。俺が寝る間を削って代わってやってるあいだに君はのうのうと眠ってたんだ?いいねぇ高校生は気楽で!」


語気が荒くなる高橋。手元がおぼつかず、バインダーを取り損ねる。バインダーが床に落ちバシンと音が鳴ると、氷見谷はヒッっと息を飲み込んだ。その様子に高橋は目を見開き、次の瞬間とても嬉しそうに、幸せそうに表情を歪める。ゆっくりと高橋はバインダーを拾い上げた。


高橋「どうせ遊ぶ金欲しさでやってんでしょ? でもバイトとして働いてる以上、きちんとしなきゃいけないんじゃないの? あ、困ったときには親に泣きつけば良いか。高校生だもんな!」

氷見谷「そ、そんなこと思ってな……」

高橋「じゃあなんで寝坊なんかしたんだよ!」


机にバインダーを叩きつける高橋。大きなバシンという音が鳴り、氷見谷は身を竦ませる。


氷見谷「ごめんなさい……」

高橋「そんなに適当な気持ちで仕事されても迷惑なんだよ!」

氷見谷「も、申し訳ありません……」

高橋「謝って済む問題じゃないんだけど。俺の事馬鹿にしてんの?」

氷見谷「いえ、ちがっ……」

加藤「あの」


カーテンをめくり、加藤がバックヤードを覗き込み声をかける。思わず振り返る氷見谷の目には涙が浮かんでいた。


加藤「なんか凄い音したんですけど、大丈夫ですか? 店の中にまで響いてましたけど」


加藤は氷見谷がいることに気づき目を見開くが、特に言及せずに高橋に話しかける。が、高橋は険呑な表情で加藤を睨みつけた。


高橋「こちらはスタッフ以外立ち入りをご遠慮いただいてます。店内にお戻りください」

加藤「だって本当にでかい音だったから。寝てる客もいるだろうし、やめてもらえませんか」

高橋「おい、おい! 盗ろうってのか? 俺が今食ってんだぞ!」

加藤「エジンが集まってくるって言ってんのが分かんないんすか? 困るのアンタだよ」

高橋「……」


据わった目で加藤を睨む高橋。カーテンがめくられ、店長が顔を覗かせた。


藤敦「あれ。お客様、いかがなさいましたか?」

加藤「あ、ちょっと漫画の場所分からないのがあって訊こうと。入っちゃってすいません」

藤敦「そうでしたか! じゃあ、氷見谷さん案内お願いしていいかい? 高橋君は時間だから、もう上がっちゃって」

氷見谷「は、はい!」

高橋「……お疲れ様でした」


ふいっと踵を返す高橋。店内へ出て、本棚へ加藤を案内する氷見谷。本棚に向かい、漫画を探す素振りをする2人。


氷見谷「……加藤くんで良いんだよね?」

加藤「ここでバイトしてたんだね。知らなかった」

氷見谷「うん。なんでこんな朝早くに?」

加藤「あー……。漫画いっぱいあるし、時々この時間に来て読んでるんだ」

氷見谷「そうなんだ。……ありがとう」

加藤「別に。お礼言われる筋合い無いよ」

氷見谷「それでも、ありがとう」

加藤「……まぁいいけど。8時上がり? どうせだし一緒に学校行く?」

氷見谷「あ、うん。じゃあバイト終わったら声かけに行くね」

加藤「りょーかい」


目当ての漫画を見つけ、手に取る加藤。そんな加藤をじーっと見る氷見谷。


氷見谷「エジンってなに?」

加藤「……んーーー。そんな事言ったっけ、俺?」

氷見谷「言ってた。エジンにバレたらどうこうって」

加藤「……まぁ、気にしなくて良いんじゃない?」

氷見谷「言いたくない?」

加藤「……」

氷見谷「じゃあいいや、自分で調べよ」

加藤「うーーーーーーーーんそれはぁ……」


頭を抱える加藤をじっと見つめる氷見谷。悩んでいた加藤は渋々といった様子で口を開いた。


加藤「方言みたいなもん。俺とあの人は、まぁ、同郷みたいな感じでさ。地元の人以外のことを『エジン』って言うんだよ。沖縄で本州の人のことを『ないちゃー』っていうのと同じかんじ」

氷見谷「へぇー。……じゃあ食ってるとかって言ってたのは?」

加藤「……それは、わかんないなぁ」


じっと加藤を見つめる氷見谷と氷見谷と目を合わせようとしない加藤。「これ読んだことある?」と手元の漫画を差す加藤に不満そうに顔を顰める氷見谷。

数日後の早朝。バイトの制服を着て氷見谷がバックヤードに入ると、私服の高橋が椅子に座っていた。身を竦ませる氷見谷。バックヤードに入ってきた氷見谷に気づいた高橋は慌てて立ち上がる。


氷見谷「なんで……今日シフト入ってなかったのに……!」

高橋「高橋さん、この前は酷いことを言って本当にすいませんでした!」

氷見谷「!?」


直角に深々と頭を下げる高橋に慌てる氷見谷。


高橋「あの時俺就活ボロボロでイライラしてて、いや、だからって君に暴言吐いて良いわけはないから許してもらえなくて当然なんだけど、余裕なくて氷見谷さんに八つ当たりした。本当、申し訳ない」

氷見谷「い、いや、元々私が寝坊しちゃったのが悪いので……!」

高橋「寝坊で言って良い限度超えてたから……!」

氷見谷「もう頭上げてください!」


あわあわしていた氷見谷だが、ふと思い付き高橋に話しかける。


氷見谷「そ、それじゃあ許しますから、質問に答えてもらえますか?」

高橋「もちろん」

氷見谷「加藤君が言ってた『エジン』ってどういう意味ですか?」


高橋は目を見開き、氷見谷をじっと見つめた後逡巡する。氷見谷がそのまま返事を待っていると、高橋はあぁ、と納得したように声を漏らした。


高橋「答えても良いけど、長い話になる。それでもいいかな」

氷見谷「……! はい!」


日中、高橋の話が気になり全てに上の空の氷見谷。勇上と清水がどうしたんだろうと言い合っている隣で、加藤は気にしながらも特に声をかけることは無かった。

その日の放課後。ファミレスの端の席に私服の高橋と制服姿の氷見谷が座っている。


高橋「ごめんね、端っこで。あまり人に聞かれたくない話だから。怖かったらすぐ店員呼んでいいから」

氷見谷「大丈夫です」


呼び出しスイッチを氷見谷の方に寄せると、高橋はしばし顔を覆った。


氷見谷「だ、大丈夫ですか……?」

高橋「うん……」


高橋は大きく息を吐き、覚悟を決めたように氷見谷に向き直る。思わず背筋を伸ばす氷見谷。


高橋「『エジン』っていうのは、餌の人って書く。それで餌人」

氷見谷「餌人……」

高橋「その餌人が誰の事をさすか。……君達人間だ。」


まっすぐ見返す高橋に表情を強張らせる氷見谷。


氷見谷「……漫画の話ですか?」

高橋「その認識で終わってくれるなら俺めっちゃ助かるんだけどね」


「白目が真っ黒になったり?」「あれ面白いよね」などと話しながらも緊張感が切れない2人。


高橋「俺達は『粧人』。君達人間の感情を食べて生きている、人ではない生き物なんだ」

氷見谷「……ってことは、あの時高橋さんは私の感情を食べてたってことですか?」


高橋に怒鳴られた時の事を思い返す氷見谷。高橋は頭を抱える。


高橋「本当にごめん、がっついて……。気持ち悪いよね、本当にみっともない俺……」

氷見谷「いや、どういう気持ちになればいいのか分かってないです……私は感情食べたことないので」

高橋「君達人間はどんな時もその身体から、俺達の食料であるエネルギーを発してるんだ。なんにもない時は身体を薄く覆うくらいだけど、感情が強くなるにつれ上半身を中心に濃く強く立ち上る。俺達はそれを食べてるんだよ。人間と同じ姿をしているのは、より身近に栄養源を確保するために俺達の祖先が進化した結果。だから口以外は人間とほぼ同じ身体をしてるんだ」

氷見谷「口……」


高橋の口をじっと観察する氷見谷。その視線に気づいた高橋は笑った。


高橋「こっち」


自身の背後を指さす高橋。指さされた先をじっと見る氷見谷。


高橋「人によって形が違うけれど、背中から触手が生えてるんだ。それで君たちが発したエネルギーを吸い込んで食べてるってわけ」

氷見谷「……何も見えないです」

高橋「うん。粧人じゃないと見えないし、触れないからね」


「いいですか?」と手を伸ばす氷見谷に「いいよ」と答え身を捩って背中を見せる高橋。2人で人目を気にしつつ、高橋の背中をわさわさと触る氷見谷。ひとしきり触った後、自身の手を不思議そうに見て、ここらへんか?と自分の周りのエネルギーに触ろうと空に手を掻く氷見谷を見て高橋は思わず吹き出した。


氷見谷「えっなんですか!?」

高橋「こんな話を信じてくれようとしてるのが嬉しくて」

氷見谷「もしかして嘘ですか!?」

高橋「ちがうちがう! でも君たちにとっては信じられない話でしょ? 証拠も出せないしさ。なんなら『あーあ、中二病拗らせてら』って笑われてもおかしくないし、狂人扱いが関の山。それなのに事実として受け入れてくれたのが、本当に嬉しくて。ありがとう、氷見谷さん」


鼻の頭が少し赤くなっている高橋に驚く氷見谷。泣かないでください!とあわあわする氷見谷に君のせいだよとお道化る高橋。

翌日の学校。人気の少ない教室で氷見谷は小声で加藤に話しかけた。


氷見谷「ねぇ、加藤くんの触手はどんな形してるの?」

加藤「っ!? なんで知って……!」

氷見谷「えっ、え?」


驚き、声をあげようとするが間一髪飲み込む加藤。その反応に呆気に取られている氷見谷の腕を加藤は掴み、人気の無い場所へ連れ出した。


氷見谷「ごめん、もしかしてそういうの訊くのってデリカシー無かった?」

加藤「なんで知ってるの。どこで調べた?」

氷見谷「あー、えっと、色々……図書館とか……」

加藤「嘘だよね? どうやって知った? どこまで知ってんの?」

氷見谷「待って! 別に私、粧人のこと言いふらしたりするつもり無いから! 本当に! ただ興味本位で……」


慌てて弁明する氷見谷をじっと見つめる加藤。深くため息をつくと氷見谷の腕を離し、ガシガシと乱暴に自身の頭を掻く加藤。そんな様子を見て、氷見谷は腑に落ちたように呟いた。


氷見谷「やっぱり粧人って本当なんだ……」


思わず目を見開き、氷見谷を見る加藤。氷見谷は加藤を落ち着かせようと弁明を重ねた。


氷見谷「暴露したりしないから! 正直聞いた時は半信半疑だったけど、本当にいるんだったらそうなんだってだけ。私の感情も気にせず食べて! どうせ私は食べれないし、加藤君達のお腹の足しになるならどうぞどうぞ! でも粧人のこと全然知らないから、色々聞かせてもらえると……」

加藤「そんなに面白い?」

氷見谷「えっ?」

加藤「理解甘いんじゃないの。俺達は人間のふりした化物だよ。素知らぬ顔でアンタ達を食い物にしてる人外。その正体を知ってる人間が現れたら、俺達が身を守るためにどうするか、想像できるでしょ」


立ち上がり、冷たい表情で氷見谷を見下ろす加藤。思わず息がつまる氷見谷を見ると、加藤は踵を返した。


加藤「これ以上深入りしないで、忘れなよ。それが一番平和なんだから」

氷見谷「……」


去っていく加藤の背中を納得できないとでも言いたそうな表情で見送る氷見谷。氷見谷の脳裏に鼻を赤らめた高橋の顔が浮かぶ。


氷見谷「……」


その日以降、高橋と何度も会う氷見谷。「食べ物つまみ食いし放題なのは楽ですね」「そうでもないよ」と話したり、人ごみの中で「この中にいます?」と訊いたり、高橋に触手のスケッチをしてもらったりする氷見谷。学校生活も問題無く楽しそうに過ごし、粧人の事を口には出さないものの、加藤とも普通にやり取りするようになる。

が、とある日、氷見谷と高橋はいつものように話しているさなか、高橋が大きな本をわざと落とす。バタンという大きな音に思わず身を竦める氷見谷。「ごめんごめん」と謝りながら本を拾おうと身を屈める高橋の表情は恍惚としている。その後も親し気で協力的な態度は変えないまま、時折氷見谷を恐怖させる行動をするようになる高橋。異変を感じつつも、高橋の普段の態度は変わらないため呼ばれたら会い、会話もする氷見谷。

しかしその後も頻度が高くなっていき、高橋のいない学校生活や家の中でも物音や人の姿に恐怖するようになってしまう。


清水「氷見谷さん、なにかあった?」

勇上「最近変じゃね?」

氷見谷「ううん、なんでもないよ」


スマホに通知が入り、高橋の名前が表示されるのを見て身体が強張る氷見谷。そんな氷見谷を無言で見つめる加藤。


加藤「……」


その日の夜。高橋を怖がりつつも、表面上は何でもないように装う氷見谷。高橋がふと時間を確認し、言う。


高橋「遅くなっちゃったね。気づかなくてごめん。氷見谷さんといると楽しくて」

氷見谷「あっ、じゃあ帰りますね」

高橋「家まで送るよ」

氷見谷「いえ!そんなっ」

高橋「え?」

氷見谷「……っ」


顔を強張らせ俯く氷見谷と心底幸せそうに顔を綻ばせる高橋。そのまま笑顔で話しかけてくる高橋と帰路に就く氷見谷。自宅までもうすぐという所になり氷見谷は意を決したように高橋に言った。


氷見谷「ここまでで大丈夫です! もう家すぐ近くなので。送ってもらっちゃってすいません」

高橋「そう? じゃあここで」


ほっとする氷見谷に、高橋が話しかける。


高橋「……代わりに、聞いてほしいことがあるんだけど良いかな」

氷見谷「あ、はい。なんですか?」

高橋「俺、氷見谷さんのこと好きなんだ」

氷見谷「……え?」


虚を突かれぽかんとしてしまう氷見谷。


高橋「会うたびに、なんていい子なんだって思ったよ。八つ当たりした俺のことを気遣って許してくれて、正体を知っても引かないで、むしろ好奇心旺盛に色々聞いてきてくれて、優しくて可愛い魅力的な子」

氷見谷「そ、そんな!」

高橋「それに、忘れられないんだ」


混乱と褒められている羞恥であわあわしている氷見谷を突然路地の壁に叩きつける高橋。そのまま殴りかかるように腕を振り上げたため、氷見谷は固まってしまう。


高橋「あぁ、美味しい」

氷見谷「……!?」

高橋「そう、この味だ。どいつもこいつも浮かれた味を押し付けてきやがって! 吐き出すことも出来ない地獄の中で、君のこの甘さが俺を救ってくれた! その後も、君は何回も俺を救ってくれた。食べさせてくれた。俺の事を受け入れてくれた。ねえ、なんでもしてあげるよ。君に苦労はさせないって誓う。だからこれからも俺に食べさせて。ずっと、毎日、永遠に。俺を怖がって。ずっとそばにいて。ねぇ、結婚しよう、氷見谷さん」


縋りつくように氷見谷に迫る高橋。俯いている氷見谷の表情は高橋には見えない。しかし高橋は異変に気づき、戸惑ったような表情を見せる。


氷見谷「……高橋さんには感謝してます。迷惑かけたのは事実だし、高橋さんがいなきゃ餌人の意味も、粧人のことも知らないままだった。どんなに質問しても、嫌な顔一つせずに答えてくれた。高橋さんもいい人です」

高橋「ねぇ、違うんだけど。俺が欲しいのはその味じゃない。戻してよ、氷見谷さん」

氷見谷「そりゃあ私達は感情を食べないし、垂れ流し状態でしょう。だから、命に関わるくらいに欲している人に協力するのは良いことだと思います。でも私は、高橋さんが求めるような関係にはなれません。ごめんなさい」

高橋「甘くなくなっちゃった……なんで、どうして取り上げるんだよ。俺の幸せを返して。怖がれよ、なぁ、ほんとに殴っても良いのか?」

氷見谷「っなんて言われても、私は!」


毅然と断ろうとした氷見谷の顔を強くつかみ、掌で口を塞ぐ高橋。


高橋「じゃあ殺す。めいっぱい怖がって死ね」


氷見谷の首に手をかけようとする高橋に、氷見谷は自身の口を塞いでいる高橋の掌に噛みついた。高橋は悲鳴を上げ氷見谷を振り払おうとするが、氷見谷も必死に食らいつく。ギジッっと歯が皮膚を切り裂くと、高橋は叫びながら氷見谷の頭を殴り飛ばした。吹き飛ばされ、路上に倒れこむ氷見谷の口から高橋の血が覗く。痛みに耐えようと無意識に唾を飲み込み目を開けると、視界いっぱいの道路とその先で血が滴る手を抱える高橋の姿。上半身を起こそうと顔を上げる氷見谷。その目に、夜空や外灯よりもっと近くほのかに発光する半透明の触手のような物が、自身を覆うように背後から靡いているのが映る。ふと高橋の方を見ると、彼の背中にも形状は違えど似たような発光する触手が生えていた。


加藤「完全にライン越えだよ、アンタ」


氷見谷は自身の背中にある手に気づく。振り返ると、加藤が高橋を睨みつけながら氷見谷の身体を支えており、自身を覆うように流れる触手も彼の背中から生えているようだった。


高橋「お前っ……また盗み食いしに来やがって! 離れろ! それは俺のだ!」


掌の痛みに顔を歪めながらも怒鳴る高橋を加藤はじとーっと見つめ、ため息をついた。


加藤「誰のもんでもねーでしょ。……大変なんだろうけど、マジでアウト」


たなびく加藤の触手が蠢き、高橋がたじろぐ。


加藤「しばらく絶食いかがっすか」


加藤が4足獣のように姿勢を低くすると、加藤の触手が高橋の方へ勢いよく伸び、彼の触手を千々に切り裂いた。高橋は後ずさりし、加藤の触手を振り払うように自身の触手と腕を振り回すが、触手は多少加藤の触手に傷をつけるが、その腕は一つも切り傷は付かず、触手に触れているようにも見えなかった。引き裂かれた触手の端は線香花火が終わるように光を無くし、夜闇に溶けていく。2割ほど触手が裂かれた所から高橋の動きは緩慢になり、5割ほどになると高橋の身体は脱力し、地面に倒れこんだ。そしてしだいに2人の触手は氷見谷の視界から薄れて消えていった。


氷見谷「……。し、死んでる……?」

加藤「んなわけあるか」


加藤は立ち上がり座り込んだままの氷見谷に手を差し伸べようとするが、氷見谷の身体がビクッと震えたのを見ると思いとどまり、倒れた高橋へ近づく。氷見谷が自分の事を見ているのに気づくと振り返り、薄く笑いながら言った。


加藤「怖いでしょ」

氷見谷「……」

加藤「だから言ったろ。深入りすんなって」


倒れた高橋を背負う加藤。


加藤「この人はしばらく入院だし、もう姿現さないようにさせる。だから、まだ間に合うよ。忘れるの」


氷見谷が返事する前に、高橋を背負ったまま夜道を歩き去る加藤。氷見谷はしばし呆然とした後立ち上がり、口元の血を袖で拭った。

翌朝の学校。朝早くから校門の前に立ち、きょろきょろと登校する生徒の中で加藤を探す、氷見谷(加藤はそれに気づき、別の所から忍び込むように学校に入る)。氷見谷がSHRギリギリに教室に駆け込むと、既に着席している加藤。声をかけようとするが、教室に教師が入ってきてしまったため、何も言えず席に着く氷見谷。授業が終わった瞬間、加藤に話しかけようとする氷見谷だが加藤がすぐに席を立ち教室を出て行って姿を消してしまう。

そんな中、授業中に清水がこっそりと加藤に話しかける。


清水「ねぇ、話があるんだけど放課後時間ある?」

加藤「……なに?」

清水「詳しい話は今無理」

加藤「分かったよ……」


放課後、氷見谷を撒き清水が指定した場所に来る加藤。清水の姿は無く、途方に暮れていると氷見谷が姿を現した。


加藤「……!」

氷見谷「ごめん! どうしても話したくて……」


氷見谷は申し訳なさそうに頭を下げ、加藤は大きくため息をつく。


加藤「ドMなの?」

氷見谷「へっ?」

加藤「じゃなきゃ馬鹿か無神経なのか、頭がおかしいのか。あんな目に合ってさ」

氷見谷「……そうかもしれないけど! でも、加藤君だって忘れろって言っといて避けようとするしおかしいじゃない!」

加藤「だってそっちが……」

氷見谷「忘れられる訳ないじゃん! すごく痛かったし、怖かったし。でも私は知ったことを後悔してない。それに、加藤君の事はまだ何も知らないから……!」

加藤「また痛い目に会うよ」

氷見谷「分からないよ、そんなの」

加藤「どうする? 俺があの人みたいになったら」

氷見谷「……そうなっても、全員がそうだと思わないでいたいよ、私は」

加藤「……」

八宮「おい、大声が聞こえたがトラブルか?」


八宮が現れると氷見谷は慌てて居住まいを正す。


氷見谷「いえっ! なんでもないです!」

八宮「本当か?」

氷見谷「はいっ!」

加藤「はい……」

八宮「……まぁいい。最近は居眠りもしていないようだからな、そのまま健全な学生生活を送るように。いいな」

氷見谷「はい!」


バシッっとバインダーをペンで弾く音に氷見谷の肩がビクリと跳ねる。その場を去る八宮を黙って見送る2人。


氷見谷「加藤君」

加藤「なに」

氷見谷「八宮先生って……」

加藤「違うよ」

氷見谷「そっかー」

加藤「安心した?」

氷見谷「……なんとも言いがたい!」

加藤「そう」

氷見谷「どんな味がする?」

加藤「俺は判別器じゃありませーん。言っとくけど、これからそういうクイズ出されても答えないから」


むすっとする加藤の顔を見あげて笑う氷見谷。


氷見谷「……わかった!」


『高橋さんの事は、もっと私が上手くやってればって辛くなるし

未だに音とかにビビっちゃってる自分にイラッとする

粧人の事を知れたのは純粋に嬉しくて

加藤君に訊いたり、思いをはせるのはめちゃくちゃ楽しい


そんななんでもない感情が加藤君たちのためになっていると知ったって

結局私達は食べないから関係ないし

粧人のことを知ってる人が私一人分増えたからって世界が変わるわけでもない

でも』



加藤「……楽しそうで何より」

氷見谷「うん!」


遠くから2人の様子を伺っている勇上と清水に気づき、そちらに歩き始める氷見谷と加藤。

清水「終わった? ならいっしょに帰ろ!」

氷見谷「うん、帰ろ!」

勇上「告白? 告白だったん? LOVEだったん?」

加藤「ちっげーわ」

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