第9話 謳歌と苦悶
「ただいま」
誰もいないリビングに向かって小さくそう言って静かに鍵を閉める。
「ふぅ……疲れた」
カバンを放り投げてドサッとカーペットの上に倒れこんだ。静かな部屋の中で自分ひとりの時間が流れる。窓の外から微かに聞こえてくる小学生の楽しそうな笑い声や、柔らかい春風が窓を撫でて行く音がすっと耳に溶け込んで来た。
「デートかぁ……」
三日後のデートが今から憂鬱で仕方ない。俺の人生初のデートが陰キャの久保になるなんて思ってもみなかった。
「考えてもしょうがない! 今日は、これだ!」
俺はスマホをカバンから取り出し有線のイヤフォンをプラグインして、大好きなアイドルの曲を流した。
耳元から聞こえてくる心地よいリズムやアイドルたちの可愛らしくも美しい歌声。どれもが愛おしくて、嫌な気持ちが全て吹き飛んでしまうようだった。
「……オォ~、ヘイ! オォ~、ヘイ!」
コールを叫びながら目を閉じると、自分がライブ会場に来ているかのような感覚になった。周りには推しのサイリウムカラーを輝かせた同志たち。目の前には煌びやかなステージと、眩しいくらいに輝いている推し達の姿があった。なんて有意義で幸せな時間なんだろう。
一人の時間を謳歌していると、リビングの戸が開く音が聞こえてきた。
「ただいま」
買い物袋のカシャカシャという音と共に、母の優しい声が聞こえてきた。
「おかえり」
イヤフォンを耳から外し母に笑いかける。
「今日も楽しそうね?」
「まぁね」
母は俺がオタクであることをしっかりと認識し受け入れてくれている。
「楽しむのもいいけど、勉強はしたの?」
「大丈夫、大丈夫。課題は学校で終わらせてきたから」
いつもの定型の言葉を口にして俺は息を呑んだ。
「ヤバ! 今日は何もしてないんだった!」
俺は急いでカバンを拾い上げて自室に飛び込んだ。
「今日はあの事で頭がいっぱいでなんもしてなかった……」
俺はテキストにペンを走らせた。レポート用紙には自分でも読めるかわからない字が羅列されていく。課題ってこんなに辛かったか……。今日の精神状態も相まって久々に課題に苦悶した。
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