三 羅刹

「浄が内裏にまで侵入しました。このままでは天子様のお命も保証できません。我らの総意といたしましては、もはやこの男を引き渡し、何とか穏便に帰ってもらう他ないのでは、と」

 畳に頭をこすり付けながら、紫の狩衣を着た男が言う。

 その言葉を、藤は不思議な心地で聞いていた。光昭の体の下からは脱したが、未だ手首は縛られたまま。布団の上で縮こまりながら、不自由な手で乱れた襦袢の合わせ目を引き寄せている。

「単騎で都に乗り込んできて何になる。禁軍をもってして、たった一人の男を抑えられぬことなど、ありえぬ」

 己の襦袢の乱れを整えながら、光昭が言い返す。

「お言葉ながら、もうすぐそこまで迫っているのです。都は血の海と化しております。正確な数はまだ分かっておりませんが、禁軍の被害は一〇〇〇人に上るとか。どうかご決断を」

 一〇〇〇人。数字の大きさに、光昭は一瞬言葉を失った。だが、すぐに首を振る。

「そこまでやられて穏便に帰すだと? そのようなことをすれば、朝廷の、ひいては我の權威までもが地に落ちるではないか」

「すべては命あっての物種でございます。浄はやはり手を出してはならぬ者だったのです。天子様を失っては、我らは皆生きてはいけませぬ。なにとぞ!」

「浄を使えば、白虎を御すことも容易くなると言っていたのは、そなたたちではないか」

「申し訳ございません」

 畳に顔をめり込ませる勢いで頭を下げ続ける臣下を見下ろし、光昭は震える拳を握る。

「いや、ならぬ」

「天子様!」

「もしここで一時難を凌いだとして、その浄が再び白虎や六堂と手を組んだら、もはや朝廷は一切の太刀打ちもできぬということではないか」

 怒りに顔を赤くした光昭の視線が、布団の上の藤へと向いた。

「そもそも、この者を手中に置くことで浄を思うまま操れるという算段だったはず。ここで役立ってもらわずしてどうする」

 光昭は藤の腕を掴むと、強引に引き上げた。

しん、この者を連れて参れ。首に刃をあてつけ、浄に見せつけるのだ。我に従わねば此奴を斬ると」

 信と呼ばれた紫の狩衣の男は慌てて立ち上がると、光昭の代わりに藤の体を掴んだ。藤の体はなおも薬の影響を受けており、一人で立っていることもできない。信が呼んだ武士に左右を抱えられ、引きずられるように廊下を移動していくことになった。

 藤が連れられて行った先は、昨日藤が光昭に謁見した間だった。そこは障子を取り払うと、庭に面して開かれる。間の隅には篝火が灯されている。

 光昭は側近に連れられて藤の側を離れ、昨日と同じように御簾の向こうへと姿を消す。

 静か過ぎる程に静寂を保っていた内裏は、今や男たちの悲鳴と呻き声、剣戟の音にあふれていた。物々しい音が、徐々に近づいてくる。

 藤は両腕を左右に立つ二人の武士に掴まれながら、庭の向こうを見つめていた。囚えられている状況にも関わらず、戦いの音が近づくたび、不思議な高揚感が胸に満ちていく。

 と、その時。血飛沫が上がった。

 松の影から、月光の下に浄の姿が現れる。無造作に太刀を握り、全身を返り血に染めた男。誰もが恐怖する鬼のような姿でありながら、月光を受けて妖しく煌めいている。その姿を見た瞬間、藤は思わず下唇を噛んだ。

「止まれい!」

 信が大声を上げると、藤の左に立っていた武士が、抜き放った太刀を藤の喉元へと突きつける。

「止まらねば、即刻こいつを斬る」

 声を聞きつけ、浄の足が止まった。周囲で追いすがるようにして戦いを続けていた武士たちも動きを止め、浄に対して一定間隔を保った武士の円ができる。

 浄の視線が、藤を捉えた。左右から武士に支えられて立つ、帯すらしていない乱れた襦袢姿。

 白い裸体が露わになり、明らかに体調の悪そうな藤の様子に、浄は一瞬大きく目を見開く。そして、感情を削ぎ落としていた眼に、怒りが燃える。

「浄よ、そなたには天子様より次の命が下っているはず。この者の命が惜しければ、即刻都を離れ、己の成すべきを成せ」

 先程までは光昭に全力で赦しを乞うていた信だが、今は実に堂々としている。

 だがしかし、信の言い分を聞き終えた浄もまた、全身から溢れ出る殺気を抑えようともしていなかった。

「藤が死んだら、俺は都の人間すべてを殺す」

 地を這うように低められた浄の声は、藤も今まで聞いたことがないようなものだ。発せられた内容にも、藤ははっと息を呑んだ。

「そなたがこちらに向かう素振りを見せた瞬間、その大事な藤は死ぬ」

 信が、微かに声を震わせながらも言葉を返す。信のこめかみからはしきりに汗が伝い、袴の下では膝が震えている。

 その緊張は武士にも伝わった。藤の喉に突きつけられている太刀に力が籠もり、チャリと小さな金属音がした。

 信を睨み据えたまま、浄は歯を食いしばる。しばしの膠着と、静寂が場を支配する。

 不意に、浄が太刀を上げた。反応し、武士もまた太刀を振りかぶろうとする、その瞬間。

 色濃く落ちていた篝火の影から飛び出したのは、梧だった。手にした包丁を、太刀を握る武士の背へ深々と突き刺す。

「なっ」

 驚愕に声を上げたのは信。

「貴様ぁ!」

 藤の右隣の武士がすかさず反応し、太刀を抜いた。だが、梧はその瞬間に崩れ落ちる藤の体を抱き上げ、庭へと飛び降りる。

 武士が梧と藤の後を追いすがろうとするが、その時。


 風が吹いた。


 血の、鉄の匂いを多分に含んだ風。周囲の者の首を一閃で吹き飛ばし、地を蹴り、庭を駆け抜けた浄。梧と入れ違いになるように、庭から寝殿の欄干へと飛び上がる。

 浄の全ての太刀筋を追いきれる者は、この世には存在しなかった。まるで鎌鼬かまいたちにあったかのように、間にいた人間全てが無残に血飛沫を上げ、倒れていく。

 瞬く間の所業。目の当たりにすれば、もはや羅刹に立ち向かう意思を持ち続けられる者などいない。

 斬られた御簾と御帳台の布が落ち、光昭の姿が露わになる。胸から上が、斜めにずるりと落ちていく。

 帝、崩御の瞬間だった。


「大丈夫かい」

 この場に似つかわしくない程の優しい声をかけられ、藤はゆっくりと顔を上げる。目の前に梧の心配そうな顔がある。

 梧は浄と入れ違いに庭に降りたあと、すぐさま藤を庭に下ろした。そして、そのまま戦いが終わるまで、守るように藤の上に覆いかぶさっていたのだ。

 梧は藤の様子を確かめると微かに笑み、藤の両手を縛っていた拘束を解いた。

 と、その時、欄干を越え、浄が庭に降りてきた。

 先程見かけた時も血に汚れていたが、赤黒い鬼のようにも見えるほど、ますますどす黒さが増している。

 その血の中に、本人が流したものは一滴たりともないという事実が、また恐ろしい。

「藤」

 鬼からいつもの浄の声がした。名前を呼ばれ、藤はただ頷く。浄にどのような態度をとったら良いのか、何を言えば良いのか、わからない。

 梧は、まるで己の役目は終わったとばかりに立ち上がると、静かに藤の側を離れた。篝火の影になるあたりで、浄と藤の様子を見守っている。

 入れ替わりのように藤の元へ近づいた浄は、地面に座り込んだままの藤と、視線を合わせるためにしゃがみ込む。

 そして納刀の準備をするように、手にしていた太刀を軽く振るって血を落とすと、刃の向きを変え、藤の方へ柄を差し出す。

 浄の行動の意図が読み取れず、藤は目を瞬いた。ただ促されるままに、目の前に差し出された太刀の柄を握る。

 と、浄が微笑む。血に塗れてなお美しく、幸せそうな笑顔で。

「藤が望むのなら、俺はここで死ぬ」

 浄の声には、竹林の家の縁側で、天気の話をしている時のようなのどかさがあった。

「っ……」

 藤は息を詰めた。

 浄が太刀の柄から手を離す。

 薬の影響を受けた藤の体には力が入らない。しかし、太刀を手放すことはできなかった。太刀の重みを支えきれず、カタカタと刃が地面に当たる。

 それを目にして、浄は己の手が斬れるのも厭わず刃を握ると、自分の喉元に押し当てた。

 こうなってしまえば、軽く倒れ込むようにするだけで、今の藤でも浄の首を斬れる。

 藤が思い出すのは、あの日の村の惨状。それは、あまりに今の内裏の様子に酷似している。腹部を両断された幼子であった妹の姿は、一生瞼に焼き付いて離れることはない。

「お前は災厄そのものだ」

 掠れた声で囁く。

 浄はその時を待つように、ゆっくりと目を閉じた。

 月光と篝火に照らされる顔。伏せられたまつ毛は長く、血に塗れてなお、美しい。刃が、浄の喉の皮膚に沈み込む。

「――っ」

 太刀が地面に落ちる金属音が響いた。

 藤は両腕を広げ、飛びつくように浄の体を抱きしめる。とめどなく溢れる涙は、万感の想いが籠もって、熱く頬を伝い、藤を苛む。

 号、袁先生、母上、父上、桜……。胸の中に去来するいくつもの名前を噛み締めて。

「愛してる」

 涙に息を詰まらせながら、藤が口にできる言葉は、それだけだった。

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