黒豹のせい
「五回目のデートでどこに行きたいか聞かれて何も思い付かなかったの」
ため息をつき、禾森さんはハイボールに口をつけた。
「毎週どこかに行ってたら行く場所なんてすぐなくなりますね」
とりあえず当たり障りなく同意して、僕もビールジョッキを持ち上げた。
――数十分前。
終業後、会社を出て駅に向かっていたら、ちょうどコンビニから出てきた禾森さんと鉢合わせた。いつもは駅まで一緒に歩くだけだけど、今日は飲みたい気分だという禾森さんに連れられ、二人で居酒屋に入った。
禾森さんは会社の先輩だ。新入社員の頃にとてもお世話になった女性で、誘われたら断れない。とはいっても、部署を異動して以降、顔を合わせたら世間話をする程度で、特段親しい間柄というわけでもなかった。
そんなわけで、二人で飲むのは初めてで、だから、僕は少し緊張していた。
あと、期待もしていた。いいじゃないか。禾森さん、美人だし。
そして始まった、禾森さんの彼氏の愚痴。
最近付き合い始めて順調だというその話は、愚痴の振りをした惚気だった。
こっちは彼女いない歴=年齢なわけで。惚気なら他でやってもらいたい。
勝手に期待してほいほい着いてきた僕がバカだった。
「行く場所がなくなるっていうかあ、彼とならどこ行っても楽しいんだけどなんていうかあ」
「幸せ真っ只中じゃないですか」
「そおなんだけどお」
僕は禾森さん――いやもうカナコでいいや――カナコと鉢合わせたことを後悔した。
何が哀しくて、聞きたくもない惚気話の傾聴要員をやらなきゃならないんだ。
「先輩は、どこに行くか、じゃなくて、誰と行くか、が大事なんですね」
「そう! そおなのよう。彼とならどこ行っても楽しいから逆に困るの」
「じゃあもう全部お部屋デートでもいいんじゃないんですか」
イライラしながら、運ばれてきた山芋鉄板をヘラで切り分ける。
自分が食べたい分だけ取ってヘラを置く。
「んんん、あたしはそれでもいいんだけどお」
カナコもヘラを取って残った鉄板焼きの半分を自分の皿に移した。
「それじゃ、すぐ飽きられそうだしい」
「それは、まあ……相手にもよりますし……」
どう言いつくろったものか。
山芋鉄板からカナコに目を移し、僕は思わず息を飲んだ。
目の前のカナコが、
柔らかそうだった頬は黒く
そこには、とても美しい
「あたしって何なんだろうね」
何かと言われれば黒豹だ。
ただ、カナコが聞いているのはそういうことじゃない。
開いた口の隙間から牙が覗き、柔らかそうな長い舌がうねりと動いた。
「相手の趣味に合わせるとかどうです?」
無難なところから答えてみる。
「目の前の黒豹が何か」なんて哲学的な問い、アルコールの入った頭で真面目に考えてられるか。
カナコはほっと息を吐いた。
「そうね、ありかも。あたし、自分がやりたいことも特にないし」
そう言って、黒豹は唐揚げを取り、そのまま口に放りこんだ。
僕も自分の取り皿に唐揚げを取る。
「でも、彼に合わせるだけじゃそのうち飽きられて捨てられそう。つまんねー女、ぽいって」
何かを摘まみ捨てるジェスチャーをし、黒豹はハイボールを煽った。
「じゃあ、彼に秘密を作ったらどうです?」
「秘密って?」
「例えば、会社の後輩と人には言えない関係になる、とか」
黒豹がギョッとした顔で僕を見た。完全に固まっている。
僕はシャインマスカット色の瞳を見返す。「こんなことなんでもない」って表情を作っているつもりなんだけど、うまくできているだろうか。
静寂、きっかり三秒。
「あっはははは!」
堪えきれなくなって笑ったのはカナコだった。
「え? そこ、笑います?」
「ごめんごめん、かなり予想外だったから」
実際にお腹を抱えて笑う人、初めてみたかもしれない。
ひいひい言いながら笑うカナコは、もう人間に戻っていた。
「まあ、話だけならいくらでも聞きますよ」
「そう? ありがとー」
満足気にハイボールを口に運ぶカナコに、もう黒豹の面影はない。
結局、なんで急に黒豹になって、なんで急に戻ったのか。
「いえいえ、じゃあここは先輩のおごりってことで」
そんなことを言いつつ、しっかり全額払う気でいるんだけど。
「もー、しかたないなあ」
まんざらでもなさそうに、カナコがハイボールを飲み干す。
これは、失恋したかもよくわからない
「次、何飲みます?」
「んー、おなじの」
「わかりました」
僕は、ハイボールをピッチャーで注文した。
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