朽穴の世界(くちあなのせかい)

 その「穴」に気が付いたのは、住込みバイト五日目のことだった。


「オウバさん、この穴ふさがないんですか?」


 私は、雇い主である婆さんに尋ねる。


「ああその穴ねえ、塞いでもすぐまたできるのよ」


 困ったようにオウバさんは言った。

 よわい七〇のオウバさんは、五〇代と言われても信じてしまうほど元気な婆さんだ。この山奥の集落に小さい頃から住んでいるそうで、村興むらおこしで移住してきた若い夫婦に農業を教えながら自分も農園を切り盛りしている。


 今はオウバさんの果樹園の夏エンカが収穫時期で、私は手伝いのため八日間の短期住込みバイトとして雇われた。


 穴は、オウバさんの家の庭の木製の柵にあいていた。そこだけ柵が朽ちてぼろぼろになり、大人がひざまづいて通れるくらいの穴になっていた。いくら塞いでも何故かそこだけ腐ったり崩れたりしてしまうそうで、だいぶ前に塞ぐのを諦めたらしい。


 柵は大人の背丈より高かった。穴から覗くと土手の下に小川が流れていた。その向こうに私が住込みバイトの間だけ使わせてもらっているオウバさんの別宅がある。


 小川の幅は五メートルほど。川面のところどころに大人の頭くらいの大きさの石が出ている。簡単に渡れそうだった。ここを通れば、わざわざオウバさんの家の門を出て、道を歩き、橋を渡り、別宅に戻るより早く帰れる。

 私が穴の向こうを見ているとオウバさんがボソッと言った。


「その穴は通っちゃいけねえよ」

「え?」

「その穴はよくねえのよ。だから通っちゃいけねえよ」

「はあ……」


 田舎によくある迷信か何かだろうか。くだらない。


 その日私は穴を通って帰った。

 穴をくぐると、小川は朱色に染まっていた。夕焼けの色が川面にうつって光っている。誰もいないと思っていたが、川べりに座り足をぶらぶらさせる七、八歳くらいの子供と橋の上から身を乗り出すようにこちらを見る女性がいた。


 逆光で彼らの表情は見えなかったが目が合ったと思った。背中に冷たいものが走った。


 さあっと風が吹いて思わずまばたきをする。瞬間夕焼けは色を変え、群青色の空と暗い小川がさらさらと流れていた。――そこには誰もいなかった。


 きっと何かを見間違えたんだ。連日の慣れない作業で疲れているんだろう。

 私はそのまま小川を通って家に入った。


 真夜中、ふと目が覚めた。山奥の夜は夏でも涼しい。窓を全開にして蚊帳を吊れば充分快適だ。今何時頃だろうかと考えながらうつらうつらしていたら家の外から声が聞こえてきた。


「今日は手足」


 十歳にならないくらいの舌足らずな子供の声だった。


「そうね、今日は手足」


 続いて聞こえてきたのは女の声。

 二つの声は会話を続ける。


「明日は腰と胸」

「ええ」

「明後日は首と頭」

「それで全部?」

「うん、全部だね!」


 楽し気に笑う声がだんだんと遠ざかっていく。

 いくら鍵もかけない田舎とはいえ、こんな夜中に女子供が出歩くのは危ないんじゃないか。唐突にそう思い、声の向かった方に目を凝らす。暗闇のそこにはもう誰もいなかった。




 夏エンカ農家の朝は早い。私はまだ暗いうちに家を出た。睡眠不足で手足が重い。でもオウバさんはいつも門の前で待っているから、朝は抜け道を使えない。

 オウバさんは私の顔をみるなり血相を変えた。


「……アンタ、あの柵の穴を通って帰ったね」

「え、いやあの……はい」


 オウバさんの只事ならない様子に気圧けおされ、私は頷いた。


「そうかい……」


 オウバさんはため息をついた。


「あの、どうしたんですか」

「どうしたじゃないよ、前にもあの穴を通って死んだドアホウがいてね。今のアンタと同じ顔してた」

「ええ……」


 穴を通ったことと死んだことを結びつけるのは強引すぎやしないか。そう言おうとして、オウバさんの真剣な顔に思わず言葉を飲み込んだ。


「たまに居るんじゃ、穴を通るドアホウが」

「――あの、なにかあったんですか?」


 オウバさんが農業を教えている若夫婦が来た。二人とも心配そうにオウバさんと私を見比べている。

 オウバさんが手を振った。


「いやなに、大したことじゃないよ。この子具合悪そうでね、悪いが先に行っててくれ」

「え? ええ……大丈夫ですか?」

「病院行きます? 僕車出しますよ」

「そんな大げさなことじゃないよ、ほら行った行った。夏エンカの収穫は待っちゃくれないよ」


 心配する若夫婦をうながし果樹園に行かせたオウバさんは私に向きなおった。


「今すぐ別宅に戻って、昨日帰った道を逆に辿ってうちの庭に来な。ちゃんと最後にあの穴を通るんだよ」

「はあ……」

「途中で何か見たり話しかけられたりしても反応しちゃいけないよ」

「え? あ、はあ……」


 オウバさんはすごい力で私の背中を押した。

 一体何がどうしたのか。


 分からないまま別宅に戻り、小川のそばまで来る。

 石に足を乗せた。


「今日は腰と胸」


 後ろから子供の声が聞こえた。真夜中のあの声だ。

 気付けば朝焼けで空も川も朱色に染まっていた。


「そうね、楽しみね」


 女の声が応えた。刺さるような視線を感じる。背中に冷たいものが走った。


 私は、昨日の夕方穴をくぐったときに見たモノ達を思い出した。川べりに座り足をぶらぶらさせる七、八歳くらいの子供と橋の上から身を乗り出してこちらを見る女性。あれは見間違いじゃなかったのかもしれない。あの二人が真夜中のあの声の主かもしれない。いや、そんな、ばかな。


 振り返って確認したい衝動をこらえ、私は小川を渡りきった。

 小川から穴に続く土手の草は、朝日で真っ赤に染まっている。

 後ろから声が聞こえた。


「明日は首と頭」

「それで全部?」

「うん、全部だよ!」


 穴に手を掛けた瞬間、一陣の風が吹いた。世界が朱色から紺色に変わった。穴をくぐる。庭にはオウバさんが封筒を手にして待っていた。


「ほれ、今日までの分の給料だ。これ持ってとっとと帰んな」

「あの、今……」


 今の出来事をオウバさんに話そうとしてさえぎられる。


「アンタはもう手足をとられているんだろ。ここへはもう来るんじゃないよ」

「……」


 無言で封筒を受け取りオウバさんに一礼し、まだ日の登らない紺色の空を見ながら帰途についた。


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