第51話・正月中坊能舞台

 参内を終えた秀保一行は慌ただしく国許へ戻る。

 楽しいことが国にあるのだから、その脚は軽い。


 楽しいこと。それはすっかり定番となった奈良は中坊なかのぼうでの能である。

 開催のたびに奈良町の人々は水を得た魚が如く盛り上がる。見物に動員される僧侶はともかくとして、さして能に興味の無い老若男女も振る舞い目当てにやってくる。

 純粋に秀保と高虎が「能」を好んで、こうした催しを楽しんでいることが大きいが、それと並ぶほど

「郡山の侍衆は怖いものではない、奈良町の敵では無い」

ことを振る舞いを通じて伝えられることは出費としては安いものだ。

 普段家中に徹底して倹約を課す藤堂高虎が、中坊での能沙汰を許すのは実利を考えて居るのだろうと大名衆は噂する。


 陰で噂を吐き捨てる連中は、高虎のことを「数寄も知らぬ男」と侮るが、文化的素養のある家に生まれただけあって一通りのことが出来てしまうのが佐渡守藤堂高虎の器用さである。去る師走六日にも自らの館で能を催してもいるが、高虎自身は人に自慢することが苦手で、偶然近くに来ていた青蓮院門跡に知られた程度である。


「佐渡守殿は、これほどまでに教養があるのだから、今少し芸事で前に出ても宜しかろうに」


 門跡は斯様に褒めるが、


「いえいえ。所詮は雨水の表を手のひらで掬い、それを桶に集めた程度。人に見せるほどでは御座いませぬ」


 と謙遜する。それを傍らで聞く三人衆と矢倉秀親は、共に同じことを考えている。


「出過ぎぬことも良いが、表に出なれば見えぬこともありまするぞ」


 門跡はそう言った。


 己自身の生き方に一定の肯定感を持つ高虎は門跡の言葉に困惑したが、そこまで言ってくれる人が居るのも有り難いとも感じた。


「年始の中坊能では、わしも一つ舞ってみようと思うんだ」


「旦那様が?」


「いやあ門跡殿に斯様に言われてはな、一つ恥を晒してみるのも一興かもしれん」

「まあ。でも私の旦那様なのですから、下手でもいつものように胸を張っていて欲しいです。堂々としておれば、下手でも何とかなりましょう」


 なるほど、と思った。忙しさのあまり、妻とはなかなか夫婦らしいことはしてやれぬが、こうしてたまに会うたびに優しく声をかけてくれる。

 己には勿体ない妻の有り難い助言を、高虎は当日の舞に活かした。



「いやあ、下手ですなあ!」


 舞う姿を見た金春流の役者は思わず笑っていた。


「だが、それが宜しう御座る。侍が能まで上手くあられては、役者の立つ瀬が御座いませぬ」


 彼に言わせれば小堀正次しんすけが唯一上手い部類で、稽古を積めば秀保も伸び代があるという。高虎たちも能が上達した秀保を見てみたいと思うものだが、


「それは駄目だ。まずは政が第一だからな。こちらに熱を入れすぎると長州たちに叱られる」


 と一蹴してみせた。


「ならば政の伸び代を楽しみに」


「ああ。其方等が精進出来るように、国を導いていきたい」



 自分たちの演目が終われば、招かれた役者衆の舞台を楽しむ。

 幼い頃、敏満寺の役者たちを見てきた高虎にとっては肩の力が抜ける、至福の時間である。


「やはり見ている方が楽ですか?」


 演目の合間、舞台にうっとりしていると隣に秀保が座っていた。


「慣れないことは、するもんではないですな」

「私には良く見えました」

「有り難きお言葉にて」

「佐渡は能の道には興味は無かったのですか?」

「思いもしませんでした。多新おじの方針もありましたが、見るものという意識が強かったですからね。だから太閤殿下や中納言様、小新には驚かされるばかりです」

「茶の湯がそうであったように、数寄というものは広がっていくものなのでしょう」


 今からでも遅くはない。

 そのように言いたいのかもしれない。


「あまり遊んでいては、家中に申し訳が無いと感じるところもあります」

「そうですかね。藤堂の御家中は振る舞いを楽しそうにやっていますが」


 確かに耳を澄ませると、外から磯崎きんしちや長井、仁右衛門等といった藤堂家の若い衆の声が聞こえてくる。


「押すな押すな!」

「慌てずとも飯はいくらでもあるぞ!」


 鬱屈とした日々の中で、家中の心持ちを維持するためには、何かしらの心躍らせる行事が必要なのかもしれない。

 あまり乗り気では無いと重臣連中からは聞いていたが、それでもやれば出来るというのは主として嬉しい限りだ。



「私たちも表へ出ましょうか」

「いや、そういうのは……」

「父上もたまには表へ出ましょうや」


 秀保と一高くないに引き摺られる形で、高虎も振る舞いの現場に顔を出した。

 目の前に広がるのは、奈良町の民が餅や粥の振る舞いに並び、皆楽しそうな顔をしている様子である。

 特に秀保と一高が表へ出ると市民から歓声が上がり、二日目にして侍から奈良町人に至るまでの興奮は最高潮に達した。


「中納言様ありがとうございます!!」

「姫様おめでとうございます!」

「美味しゅう御座います!」

「中納言様かっこいい!」

「よっ! 関白殿!」

「宮内少輔様男前!」



「皆の衆、毎度協力してもらい感謝致す。無礼講故に遠慮は不要、飲み給う、食い給う」


 それぞれが酒を注ぎ、飯をよそい、餅や粥を配る。

 一体何人分を配膳しただろう。ふと秀保の前に幼き娘が立っていた。


「何か欲しいものは、ありますか」


「ここに来たら、美味しいもの、食べられるって」


「ああ。其方そなたは一人か?」

「家にじじ様とばば様がおります!」

「……。そうか。それなら二人の分も持って行くと良い」

「ありがとう!」


 幼女は辿々しいが、言いたいことは明瞭だ。さぞかし良く育てられてきたのだろう。あまり人様の家庭に深入りするつもりは無いが、両親が不在というのは少し引っ掛かる。恐らくは子を残して、というものだろう。


「あのねお殿様、お殿様が奈良まちに来るとたくさん人が来て、美味しいご飯も食べられるでしょ? だから私お殿様大好きなの!」


 そんな言葉をかけられるのは初めてのことで、秀保の顔は赤くなる。


「毎日やって欲しいって、ばば様は言うの! ねえ次はいつやるの?」


 瞬間的に高虎と一高の親子は顔が引きつる。返し方如何によっては、出来もしないことを約束する羽目になる。史上愚かなる人は大盤振る舞いが徒となる、という理論だ。


「ありがとう。だが毎週やるわけにはいかん。其方のじじ様やばば様、周りの大人たちが日々を生きるように、我らにも本業というものがある。其方らが、食うに困らぬよう日々考えて生きておる。ただ、わしも其方のような笑顔を見るのは好きだ。其方が望むのであれば、雨降る季節までには催しを開きたい。約束しよう」




「なるほど。大した御方という訳だ」


 光が当たれば影がある。

 こうした裏方には影のある人間がよく似合う。その最たる例が高虎その人であるが、この日は彼にも強い光が当たっている。


「あの! 佐渡守様ですよね! うちの母さまが身籠もっておりましてな、是非とも御家老様の武勇にあやかり、撫でてやってはくれませぬか」



「どうだね次郎殿。今日まで、あのような御姿を見たことはあるか」


 影では千賀地半蔵保田則直と、矢倉大右衛門尉秀親、そして菱屋林次郎兵衛が退屈そうに駄弁っている。


「意外と言われそうだが、彼奴は女子供相手の付き合いは上手いのだ。幼い頃から村で留守居をする間に多賀一門や家士村人。その様々に育てられたし、相手をしてきたからな」


「なるほど」


 林の説得力ある言葉に千賀地は感心した。


「与……大右衛門、貴様は表へ出ないのか」


「いいんですよ。わしは此方の方が気が楽ですわい。黄門様のように人を楽しませる才は無く、ただ淡々と務めるのみにて。それでいけば商人衆は、よう儲けられますな。関白殿下が御渡海あそばされると、いよいよ黄門様が国の中枢と相成る。これは一番の儲け時ではないか」


 大右衛門は適当な話を振ったつもりだった。


「良いかね大右衛門。状況は常に変わるのだ。そう楽観視してはおれんよ。色々耳に入るんだ。そもそも関白が渡海するということは具体的に決まったわけでも無い」


「あら、やっぱりそうなんです? 確かに会津殿の御病状を考えたら、怪しいだろうなと見ていたが」


 林の言葉に千賀地の反応はあっさりとしていた。

 そうした商人二人の反応に、大右衛門は腕を組み考え込んだ。


 会津侍従羽柴飛騨守蒲生氏郷は近江の一国人から政権の重鎮となった出世頭である。

(何と言うことだ。確か佐渡守様と同じくらいの筈では……)


 祭りにのぼせ楽観的な考えを持つことは、今一度考え直して方が良いのかもしれない。楽しい時には、いつか終わりが来るものだ。

「それ」が来たときに、大名の臣は何が出来るか。今深く考えねばならぬ。

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