第40話・神無き月の狂宴
文禄三年十月。
この頃の京都市中の注目と言えば、他でもなく大閤秀吉の聚楽第御成である。
この御成を史料で見るには、やはり山科言経の記録を含め『織豊期主要人物居所集成』が大いに参考となるが、それ以上にルイス・フロスが「叙述」した記録も興味深い。
『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第1期 第2巻・一五九五年十月付(二十日)、(長崎)発信、ルイス・フロイス使の年報補遺』
公家たちの記録などが「何が起きたか」を簡潔に記述されているのに対し、フロイスの筆致には感情が込められていて読み応えがある。一方で、何処までが実際の出来事なのかを見極めるのは難しい。あまりにもフロイスの筆の乗り方が心地よすぎるのがいけないのだ。
恐らく起きたことに対して、フロイスが脚色を加えていたのだと筆者は考えている。
例えば政権内部の話など、如何にしてフロイスが知る由もあろうか。いや政権内部にも当時フロイスと繋がりのある諸侯、例えば秀吉方なら蒲生や小西・京極、聚楽第方なら池田教正があったから、知ることは可能であったのかもしれないが。
一方で市中の「感情」などは、少なからず見るところがあるのではないかとも考えている。
それでもあくまでも「読み物」としてはとても面白いので、是非とも読んで欲しいと推薦しよう。
フロイスが叙述する市民の感情としては、大閤秀吉が聚楽第の関白秀次を殺す、あるいは逆に関白秀次が大閤秀吉を殺す、といった狂った風聞に酔いしれる奇妙なものがあった。それは熱狂と呼ぶ方が正しいのかもしれない。
さてフロイスは秀吉方が「風聞」を気にして当初の日取りから八日間も遅らせて、聚楽第方つまり秀次の面子を潰したと叙述している。
福田千鶴氏に依れば、この聚楽第御成は元々八月十九日を予定していたが、それが翌九月、更に十月へと延引していたという。(『高台院』)
実際のところは八日どころでは無かったのである。
八月の十九日とあれば、その数日後に高虎は大坂を訪れ秀吉に伏見城への古塔移築が遅れていたことを詫びている。
果たして御成の延引と何処まで関わりがあるのか定かでは無い。
十月十六日、大閤殿下は伏見から上洛を遂げた。
同じ日、高虎は政権による検地を終えた伊勢国で千石の加増を受けている。詳しい場所は安芸郡今井三郷。現在の三重県津市一身田の辺りだろうか。ともかく唐入りの慰労を含む加増と考えられる。
そして加増を受けた日が太閤殿下の上洛日と一致することは偶然でも無く、この上洛後に加増の宛行状が発給されたと思われる。つまり高虎は上洛した太閤殿下のもとに呼び出されたのであろう。
加増と共に日程を知らされた高虎は、そのように秀保へと奏上する。
「聚楽第への御成が終わると、二十三日に前田様、二十五日に蒲生様、二十八日に上杉様の屋敷を御成あそばされるとの由」
「いよいよ始まりますね」
「支度には、えらく時間を要した模様ですが。まあそれは我等にしてみれば知らぬことにて、宴を楽しむが肝要かと存じまする」
「ええ。久しぶりに兄上をはじめ、諸侯が集うのです。この喜ばしき式を、私も楽しみたいと思うておりました」
普段は質素な衣装を好む高虎も、この日ばかりに亡き姉より貰った衣装を直させ、更には昔大閤殿下から拝領し愛用する羽織もまた綺麗に整えさせた。
家臣にもこれまでの働きを労うべく、着飾りのために出費を怠らない。たかだか二万石に過ぎない大名ではあるが、旧京極被官の人間として、そして大和中納言豊臣秀保の最側近としての「格」に見合うだけのものを内外に魅せつける良い機会だ。
二十日大閤は牛車に乗り、後方には盛大な行列を引き連れ京の街を行く。
行列に諸大名と家臣があるように、秀保にも諸大夫や高虎たち宿老衆が脇を固める。特に『鹿苑日録』は家康に次いで秀保、金吾秀詮、秀信が並ぶ。この序列は秀保以下の誉でもあったことだろう。
フロイスの叙述に依れば式の次第として或る大路で両者の牛車が向き合い、関白の側から蒲生長岡(細川)の両人が使者として大閤側へ歩みを進める。
この使者の動きを合図として、何処からともなく叫び声が響き渡ったのである。
「関白御成、千秋万歳!」
一同の万歳の声に、車中の秀吉は手を振って答えた。そして、
「先へ行かれい!」
と関白の車列が前を行くことを許したのである。
まさに両者の融和を表す瞬間だ。
だがこのような儀式の言葉で京都市民が納得する訳が無い。
宴の外では常に大閤関白の死滅が囁かれる、この異常事態が尚も続いたのである。そうした中で高虎の宿所に慌てた顔の菱屋忠左衛門と、険しい表情の今井二郎が駆け込んできた。
「如何」
「どうにも菱屋がお目通りを請いまして」
「忠左衛門が? 何事かね?」
厳格な今井が会わせた方が良いと判断したのだから、高虎としても尊重するほか無い。
喜ばしきことに浸りたいが、現実はそうも行かぬ。嫌なものだ。
「菱屋、此度の用件は如何に。何か宴の調度に悪しき具合でも暖かね」
「いや、風聞の真偽を伺いに参りまして」
「はあ……。風聞とは一体?」
「大閤殿下は御無事でありましょうか……」
「ほら、松明に照らされておりましょう。どうにも屋敷の中で変事が起きただの、いよいよ関白殿下は立ち上がったのだ、そのような風聞が流れ出て居るとの由」
フロイスはこの噂について、狂言の装置(能舞台か)を移動させる中で人足が用いた松明の明かりが、遠方からは殺害事件が起こったと勘ぐらせたらしい。
「そんなこと、在る訳がないじゃあないか。全くの虚報、豊家を貶めんとするならず者の虚報だ」
「そりゃそうですよねえ」
「そりゃそうですよね、じゃあないんだよ忠左衛門! 貴様の親父殿ならこのような下手はせんわ! もう少し見極めねば、商人として生きてはいけぬぞ」
「申し訳ございません!」
めでたい席なのに高虎は悪癖の癇癪が爆発してしまう。いかん、冷静にならねばならぬ。
考えろ、考えるのだ。忠左衛門が考えも無しに、わざわざ宿所を訪ねることがあるのだろうか。
いや厳格で仕事の出来る林次郎兵衛の息に生まれ育てられた彼が、そのような愚鈍な真似をする訳がない。物事には理由があって然るべきである。
「あ、いや。これはそういうことではない。忠左衛門、詫びも含めてお主の持って居る物を買い取ってやる。だからこそ、わざわざこの時に、藤堂佐渡守を訪ねたのだろう?」
態度を変えた高虎の言葉に、ほくそ笑む忠左衛門の顔は父次郎兵衛の企む顔に似ていた。
「さすが殿。よくわかりましたね」
目的地へ向かう道中、平助が尋ねてきた。平助を伴うのは、これから出向く先に依るものだ。
「何さ、簡単な勘を巡らしただけだ。菱屋も馬鹿では無いから、藤堂家に関わらないことに態々手は出さん。手を出したということは、藤堂家に関わる人間の仕業となるし、俺が知る限りそれが出来る人間は二人しか居ない」
「……お見事」
程なくして二人は公家の屋敷に辿り着いた。側に侍る藤堂平助が育ち、高虎の知らない藤堂氏が長く支える広橋の館である。
「お二方、どうかこの通り頭を下げます故、謂われの無いことを吹聴するのは差し止めていただきたい」
頭を下げる高虎に、他でもない輝資・兼勝兄弟は憮然とした表情をしている。
「一体、この目出度い席に、何の不満がありましょうや」
「目出度いとな? 笑わせるな佐渡守」
兼勝は静かに怒る。その目は偽りの無い本気であろう。
「貴殿は目出度いと思うますやろ。それは其方が武家やからや。方や、我等の立場は如何や? 氏長者の居ない宴なぞ、子供騙しの偽り、虚しいもんや」
このように輝資が話すように、あくまでも彼らは曲がること無く氏長者、つまり薩摩へ流された近衛信輔の帰還だけを求めている。
「詮無きことを……」
真っ直ぐな姿勢には感服したいものだが、彼らのやっていることは看過できない。ここは是非とも断ち切るために説得を……。
「ただし此度の放言で不快に思ったのならば、此方も詫びても良ぇ。だがな勘違いして欲しくない事が一つある」
「大納言様……」
「わてらが言うたんは、この松明の量やったら何か起きても不思議はあらへんな、ただそれだけや。もしもわてらが、関白大閤の死を欲していると思たんやったら、思い違いや。わてら公卿がそんなん流すかいな。一応兄上もわても、弁えてはおりますのや」
高虎は思い知った。これほどまでに京中のなかで、関白と大閤の衝突を望む声が高くなっているとは。もちろん両公卿が関わる市民が、自ずと彼らの内面によって豊臣家の不幸を待ち望む層に偏ることもあるだろう。しかし、それにしても、だ。
まだ京都にだけ留まれば良いが、これが塘を越えて大和にまで伝播するのが怖い。
そのようにして宴と共に神の無き月が終わる。
関白秀次は若い大名を集めて宴の慰労を行うと触れ出した。もちろん秀保は当然、高虎親子も姿があった。
恙なく、何事も異常なく、極めて穏やかな宴である。
宴の中で誰からともなく能の話題が出た。秀保も高虎も、知識はある方なので能の話をする一団に混ざり花を咲かせる。
ここのところ張り詰めていた高虎には思わぬ癒やしの時間で、久方ぶりに物事を楽しむ感情を思い出す。
これこそが惣無事、これこそが平らかなる世というものだ。
だが現実というものは甘いだけでは無い。
問題は宴の終わり、主宰秀次の挨拶で起きた。
「此度皆が務めを果たしてくれたお陰で、良い宴が出来た。伯父大閤殿下よりも御礼の言葉があったが、予、関白からも御礼申し上げる。常日頃鍛錬を怠らぬ諸侯に敬意を表したい。しかし、世の中には己が務めを果たさず能に鷹狩りなど遊興に現を抜かし、国許で起きた人斬り強盗の下手人をも満足に捕らえることの出来ない不届き者がある。また、主を甘やかす後見人もいる。更にこの男は、大閤殿下に媚び諂ったか、番替から逃れ来春まで渡海を延ばしたのだ。予は年明けに海を渡るというのに、全く情けない武士で或る。この宴席にそのような輩が居ることで余計に腹が立つ。良いか、このような才無き者は御家を滅ぼす不忠者だ。皆も努々忘れるべからず、御家へ実或る忠を心掛け給れや」
関白の言葉に列席した若き諸侯は動揺を隠せない。あまりにも直接的な言葉で、大和中納言秀保と藤堂佐渡守を名指しにしているも同然の言だ。
秀保も一高も、思わず関白に反論しようとしたので高虎は瞬間的に両者を止める。これは乗ってはならぬ不毛な挑発だ。
高虎が頭を使い、どのように口答えするか思案をしていると一人の男が口を開いた。
「それでいきますと関白殿下は、禁猟の地での狩りに罪人の試し斬りと、流石天下を統べる鍛錬を行っておられる! 拙者も殿下を見習わなくてはなりませぬわ」
救い船を安芸宰相毛利秀元が出した。
更に一人の猛者がこの船に乗ったのである。
「恐れ多くも関白殿下は御子が多くいらっしゃると聞く。まさに次代を担う御方に相応しい御振る舞い。是非とも多くの子を為す秘訣を、我等へ御教示戴きたい」
かつて信長卿相手にも動じることの無い恐れ知らずの猛者森忠政である。
更にこの男は油を注いでいく。
「それにしても関白殿下は何人の男の子が居られるのか。全く我等も知らぬ所なれど、関白殿下にお仕えする我等としては、一体誰が殿下の嫡子となられるのか、耳目集めるところにございます」
この応酬によって高虎の中で何かが崩れた。以降忠政と関白側近の罵り合いの記憶も無く、ただただ大きな身体が震えるのだけを感じていた。身体は凍りつき、腹から気持ち悪いものがこみ上げてくる。
宴の後、話を聞きつけた武官が高虎を囲む。
歴の浅い白井、中村、友松。早くから仕える矢守や村井、島崎と言った強者たちだ。
甲冑を着けなくとも武功を挙げる猛者たちは口々に喚く。
「殿は! 言われっぱなしで宜しいのですk! 我等家臣一同口惜しうてなりませんわ!」
「武士は面子を潰されたら、返さなくてはなりませぬ!」
「其方等のわしを思う気持ちは有り難い。有り難いが、何もわしが名指しで貶された訳では無い。関白殿下とわしは長い付き合いだ。何かあれば直に申してくれよう。気にすることは無い」
ふらふらと寝所へ入ると大木長右衛門が手を握りしめる。
「気を落とすな。関白殿下も右近大夫様も、酔っておられたのだ。悪い酔い方だ」
高虎の大きな手を握りながら、更に背を摩る。
「案ずる勿れ、宮内少輔殿が安芸宰相様や右近大夫殿へ礼をしている」
持つべき者は友だ。ここで煽るのでも無く、そっと寄り添ってくれるのが良い。
「奇妙なのは何故御両人は、あの場で毅然と返すことが出来たのか。これは俺の想像だが、宴の前に予め中納言と其方を衆目懲らしめんと誰ぞが企図し、無用な諍いを避けるために諸侯の中で関わりの深い右近大夫様に反論をするな、と根回しをしていた。だが右近大夫様はそれを反古にして、毅然と返した。あの御言葉は、咄嗟にはそうそう出ないものだ。安芸宰相様は何も知らん。何も知らんが、何処かで二人は意気投合して、此度の結託に至ったのだろう。菱屋親子に探らせるか?」
「いや、そこまでせんでも良い。直感だが何れ向こうからあるだろうよ」
「おっ生気が戻ったか」
長右衛門が言ったことも気にはなる。他に気になる事は、何故秀次は弟の趣味を取り沙汰し、その後見人を糾弾するに至ったのか。
「……。なあ長右衛門。人というのは難しいものだな」
「だからこそ現は面白い、だろ?」
「多新おじが一番現を楽しんだ」
「多新殿のようにはいかぬが、楽しまねば」
二人して寝転び天井を眺めるのは何時以来だろうか。高虎はそっと長右衛門の肩を叩く。隠し事はこうして小耳に入れねばならぬ。
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