第37話・胸騒ぎ

 郡山へ戻ると皆いつも通りの政務の日々を送る。

 高虎は京都の屋敷で太閤殿下の聚楽御成への支度を進めていた。その最中の或る日、菱屋林忠左衛門の父次郎兵衛が少し困った様子で駆け込んできた。


「其方もよく存じて居ろう紺屋与兵衛だ。あの男が、急に、払えなくなったと言い出してな」

「あの与兵衛殿が?」


 京の紺屋与兵衛は天文年間貞隆の時代から甲良武士や商人たちと取引のある男で、実直な性格と戦乱をくぐり抜けてきた。その実績から林も高虎も信頼を置くお得意様である。

 林は手広く商いを行う中で、馴染みの取引先とは貸し借りもある。ちょうどこの秋が期限であったのだが、先に与兵衛自らが林を訪ねて詫びに来たという。

 今のところ林の懐具合に困ったところは無いので、返せる時で良いと言ったものの、やはり与兵衛に金が無いというのは奇怪であると話す。

 林次郎兵衛は、赤子の頃から高虎の全てを調えてきた商人であり、謂わば林家の財産というのは高虎や藤堂家中の調度にも関わる話だ。


「相わかり申した。内衆共に話を聞きに行かせます」


 この内衆の選定に高虎は頭を悩ませた。石田清兵衛が如き頼れる文官は、余計な雑音を耳に入れず政務に集中させてやりたい。

 それ以外の連中は、一応は材木の管理や職能者の監督は出来る者たちではあるが、何分戦国の時代が抜け切れていない武官たちで、言ってしまえば誰に似たのか粗暴な男たちだ。

 あまり圧をかけてしまえば、与兵衛に悪い。


「そんなに悩むんだったら、俺が行ってしまうけどな」

 傍らの長右衛門は呆れて嗤う。

「いや、長右衛門や孫作、竹助たちでは明け透けすぎる」

「面倒くさいねえ。それだったら腹括って久助きゅうすけと金七でも送り出すしか無いだろう。金七は衣がよれてきているし、久助なら奥向きの仕事もあるから調度はええやろ」


 磯崎金七は近江国人磯崎刑部の伜で、高虎が幼い頃に六角氏が佐和山を攻略し、代官に多賀常陸入道が置かれた際に知り合った。父の刑部は磯村の者として、松原内湖に出入りする舟の管理や代金の徴収、また勘過料の支払いを拒む不届き者を折檻し、その現役時代に愛刀を以て三十三名の不届き者を成敗した伝説を持つ男だ。

 当然伜の金七も勇ましく、また計数に長けた物と道理を理解した高虎を代表する内衆として目下成長を遂げている。


 細井は出自がよくわからないが、どうも豊臣家奉行の細井中務少輔と近しいらしい。中央の奉行に近いからこそ、高虎も早くから自らの足場を固めるために登用してきた、久助本人はそれをひけらかすこともなく、静かに高虎の歩みを支えてきた。



「旦那! 居りますかい!」

「少しは声を下げぬか金七」


 よろよろと与兵衛は出て来た。


「与兵衛……」

「これは磯崎様に細久ほそきゅう様……」


 久助はすっかり痩せこけた与兵衛に言葉が出ない。


「なあ俺の衣が薄汚れちまったから、染め直して貰えねえかな? 銭なら多めに出すぜ」


 金七の頭を叩こうとして、久助はすんでの所で腕を止めた。

 なるほど細やかな配慮が出来る奴だ。


「しかし旦那、どうしたんだい。旦那の衣こそ、染め直したほうが良かろう」


「ここのところ、どうにも食うのが精一杯でねえ。他のことによう手が回りませんのや」

「食えておるのなら、それは良いではないか。うちの殿は、何よりも飯を食えって」


 やはりこの男は……。

 金七はそこまで言うと、久助に頬をつねられた。

 声にならない悲鳴に与兵衛は思わず吹き出す。


「や、久しぶりに阿呆なことしとる侍さん見たから、笑うてしまいましたわ」

「いやはや、此方こそ、この馬鹿が阿呆で申し訳が無い」

「かまいまへん、かまいまへん。皆様方の大将も、亡うなった多新殿も、若い頃は皆阿呆なことして過ごしてきましたさかい、若いもんの特権ですわ」

「ならば阿呆を承知で伺おう」

「いや細久はんは、阿呆許される歳やありゃしまへんやろ」


林左りんざ殿の金は、何方いずかたへ失せたかね。無論、与兵衛殿がに流すような御方で無いことは、我々も十分に承知をしている。そして盗みが入ったのならば、其方は左様に申す筈だ」


 久助は端的に言葉を発するので、笑っていた与兵衛の顔は見る見るうちに萎んでゆく。


「それでいくと旦那。証文なんかは無いのかい? 証文があれば、家中で取り返しに参るが」


「証文は……ありまへん」


 奇怪なことだ。亡き大納言ひでなが様の貸し付けに便乗し、自らも金商人と結託して私的貸し付け事業を営んでいた井上源五でさえも、邪な気持ちがありながらも証文を出していたのにも関わらず、与兵衛から金を取った者は証文が無かったという。


「それは怪しき事だぞ。よもや与兵衛殿ともあろう方が、そのような怪しき者に、金を出すとは思えん」


 出立前、高虎は両人に対して次のように厳命していた。


「例え紺屋与兵衛から金を取った先が、何か大きいところでも、臆する勿れ。どのようなところが相手でも、貴様等のあるじ藤堂佐渡守は決して怯まない。これだけは心得ておくように」


 さては政権か、朝廷か、寺門か。何れにせよ、この問題は京都の大きく、そして人間の欲というものの底にある闇の一端を掬うものになるだろう。左様な家中の共通認識があった。

 だが一武官たちに何が出来るというのか。


「何か、この京洛に銭が絡む話っていうと、聚楽第の備え普請に纏わることかな?」


「……っ!!」

「旦那?」

「あきまへん、あきまへんっ。磯崎様、それ以上は言うたらあきまへん」



 少し出来すぎた物語に感じる。

 高虎は聚楽第に知己が多い。一時期、関白になる前の秀次を指南したこともあった。

 高虎が秀次と接したのは、徳川軍に急襲され、何もかも失った挫折の頃である。

 立ち直ろうと苦難する彼は誰よりも人間らしく、誰よりも純心な男であった。

 だが彼は天下万民を統べる人間であるか、といえば高虎には答えがない。それは主の秀保もそうだが、何よりも秀吉と秀長の二人が異質なほど、天下の差配に適していただけの話だ。

 さりとて国というのは吏僚の機構がしっかりしていれば回るもので、平安の昔からそのようにしてきた国に住むのだ。

 吏僚が回すのは国だけではない。国を統べる主を上手く扱うのも吏僚の責務だ。高虎は石治少みつなりが如き大坂の奉行連中の口には多少辟易するところもあるが、その仕事の出来には満足で好いている。


 ならば聚楽第の奉行はどうだ、と問いかけたいが、聚楽第の奉行たちは逢坂以東を管轄する機構だ。高虎たちとは関わりが無い。

 だが連中は大和に手を突っ込んでくるし、今に不快感を振りまいている。

 いや気持ちや感情だけで測るのはことは不適当であろうか。

 理でいけば、今の状態は一つの国であるのに二つの国があることと同義だ。それが海の外に兵を出す国の姿であるか。高虎には、今一つ疑問がある。

 潰すのならば。拳も刀も振り下ろすは一瞬だ。



「これは藤佐殿。如何された」

木工もく殿よ。随分と、この館は儲かっていると聞くが」


 明くる日、高虎は腹を括って聚楽第を訪ねた。またこの日も白備しらびんは居らず、粟野木工が出迎えた。知己は、逃げたのか。


「ははは。有り難いことに、諸大名から町人に至るまで貴賤問わず、我等の構想に賛同してくれましてな。お陰様で我等も心ある大名や商人にも貸すことが出来る。良き銭の流れがこの館を中心に生まれております」


「銭の流れ、とは興味深い。さては渡海の衆の懐を潤すのであれば、此方としてもやぶさかではないが」


 この日の高虎は自制心が上手く作用していた。普段なら、臆せず単刀直入に切り出すのであるが、冷静に相手の出方を見極める。


「ふうん、渡海の衆、か。いや、渡海の衆に銭を届けるという選択肢がそこにあったのか、と思いましてな。他意は無いのですが、我々はそのような近海狭い視野にはあらず。もうちと広い目を持っており申す」

「広い目、とは。例えば南蛮との交易ですかな。は藤堂佐渡守も、宜しかろうとは思いますが、それ以上に足下にも目を向けて貰いたく……」

「京の町衆共は関白殿下の策に同心する次第にて、足下の懸案は及びませぬ」


 粟野は嘯く調子の良い男だと思ってきたが、さすが四国にそれなりの知行を持つ大名だけあって、堅実なところもあるようだ。

 だが、決定的に両者の見解には相違がある。


「あいや、手前が懇意にしておる町衆は、不本意ながら金を失ったとの訴えありて、此度佐渡守が参上した次第」


「はて? 不本意とは? まずはその証を持ってくるべきでしょう。藤佐殿は、まさかありもしない訴えを鵜呑みにして、関白殿下や我等を糾弾なさる、と? 関白殿下とて、藤佐殿が左様な御方とは思うてはおりませぬ」

「……。しかし……」

「藤佐殿にあること無いことを吹き込む輩があるというのは、悲しきことに御座います。まあそれは藤佐殿の御家のことでありますから、手前共に関わりの無いところ。一つ申すことがあるとするならば、藤佐殿も、藤佐殿に吹き込む輩も、御運が悪う御座いましたな」



 帰りの道すがら竹助ちくすけが思わず口にした。


「殿、よう堪えられましたな」


「阿呆竹助。己の言葉に従ったのみよ」

「確かに。いつか申されましたな。無駄ないさかいを起こす勿れ、と」

「俺が何か起こしてしまったら、黄門様の顔に泥を塗ることに成る。それは俺でも弁えての事だ」

「あの殿が。いやはや、蹴られ殴られ、折られた歯も喜んでおりましょう。それにしても、何処か寄り道とは。此方に行けば町衆が居りますが……」

「会いたい人があるのだ」


 毎度の事ながら竹助は高虎の行動に驚かされる。

 よもや、吉川平助の妻子から一族郎党に出会うことになるとは思っても居なかったからだ。高虎に最も近い彼でさえ、平助の一族は処断されたものだとばかり思っていた。


「どうだね、商いの様子は」

「お陰様で、三蔵殿の手も借りながらですが、上手いことやれておるかと」

「やはり、吉川殿の商才は確かであったと、其方等が商いを以て証明してやらねばならぬ。何かあれば菱屋の林を頼ると宜しかろう」

「佐渡守殿、何から何まで……」

「時に、何か変わったことは無いかね。近頃手前共の贔屓の職人が、金を何処ぞに盗られたそうでな。用心してくれよ」


 高虎はそれだけを伝えると、足早に去ろうとした。


「……御座います」

「それは如何に?」




「近々、太閤殿下が関白殿下を廃するために兵を起こす、逆に、関白殿下は太閤殿下を亡き者にしたい、との企てが渦巻いておる。斯様な風聞が囁かれております……」



 文禄三年(1594)秋、京都。

 妙な胸のざわめきと、御家の内訌を予感させる、異様な雰囲気が、この街を包み込んでいた。

 これは謀の序章に過ぎない。

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