第2話・算用

 秀保一行が京都に帰着したのは十月六日の事である。

 彼らは大坂で太閤殿下たいこうでんかに帰朝を報ずるつもりであったが、殿下は洛中にあり、関白は熱海湯治で不在との先馬報せに落胆したままの入京と相成った。


 聚楽第じゅらくだいで太閤相手に堅苦しい挨拶を済ませると、和州わしゅう屋敷で懐かしい顔との再会を果たす。


「なんだ桑山、その頭は」

 剃髪を命じた秀保本人の笑い声に一同は吹き出してしまった。

「ちゃっかりと治部卿法印等じぶのきょうほういんなどと良い名を授かるとは、咎人とがびととは思えぬなあ」

「いやはや、此度の騒動で南都なんとの衆中に迷惑をかけたという事で。しかしただの入道号にゅうどうごうでは、和歌山の主として示しがつきませぬ。そこで、わしもまあ貯めた金銀をどうにかはたいて良い名を頂いた次第に御座います」

 兎にも角にも南都の衆中とは上手くやっていく必要がある。それまで秀長の抑圧的支配から、少しは融和的になる必要を秀保も高虎も感じていた。

 そのように一人一人に声をかけていると、厳しい表情を見せる男が一人居た。彼は孫の仙丸に手を引かれ、そして傍らには勇武の嫡子が居る。


「これは仙、そして越後守。無礼講であるし、若輩じゃくはいの私だから然様に畏まる必要は無かろうが」


 男杉若越後守おとこすぎわかえちごのかみ、かつて朝倉に属し、丹羽長秀の若狭入りには娘を差し出し生き残りを図った男である。彼が羽柴家へ転じたのは、天正九年(一五八一)頃の織田軍の対毛利戦線の際で、山陰への荷駄にだ輸送を行うところに縁が生まれた。

 後に長秀と娘の間に生まれた仙丸が秀長の養子になると、一時期はその後継者の外祖父として名を轟かせた。

 その猛者もさが今、孫に手を引かれこうべを垂れている。

「この一年、領内の寺という寺を巡り歩き、己を見つめました。やはり越後守一人が罰せられずは、生き恥に御座る。家督は既に倅に譲りました。今出来るは越後守を捨て去ること。以後は無心むしんの号にて中納言ちゅうなごん様や仙丸様をお支え致す所存に御座います」


 杉若越後守、諱を知らず。名は藤七とうしちを一つに、令和の今は杉若無心すぎわかむしんとして名が残る水将である。彼は唐入りを前に家督を嫡男に譲ると伝わる。依って勇武の嫡子伝三郎でんざぶろうは、杉若主殿とのもとして歩みを始めていたのである。


 こうした宴席には酒が付き物だが、酒はない。世話人の藤堂が酒を好まぬ男ということもあるが、一番は戦地で服せなかった正親町院おおぎまちいん大政所おおまんどころの喪と、集う大名衆で揃い騒動が為の謹慎を兼ね、三つの意味がある。

 振る舞われた食事は質素なものばかりであったが、それでも久方ぶりに再会した主立った大和衆の顔ぶれが良い肴となる。

 例えば本田因幡ほんだいなば横浜民部少輔よこはまみんぶしょうは高虎の李舜臣話りすんしんばなしに耳を傾け、羽田長門はだながと宇田下野うだしもつけといった宿老は、初陣を遂げた仙丸、桑山小藤太ことうたといった青年武将の体験談を楽しんでいる。

 また小川左馬おがわさま池田伊予守いけだいよのかみ多賀出雲守たがいずものかみは茶の湯で激論を交わし、各家の内衆たちも旧交を温めている。

 藤堂家では磯崎金七いそざききんしちや庄九郎、小堀家では作介さくすけ、横浜家では長弥次郎ちょうやじろう、羽田家では息子の傳八でんぱちといった顔ぶれだ。

 わいわい、がやがや、やいのやいの。

 若き国主は、この宴の席を最上とする。彼は幼くして家族の団らんというものを失っていたから、こうした家臣団の結束に家庭を感じるのである。


「明朝は早く、日の出より前に起きた者から、此度唐入りの算用を取り纏める。大名衆各々筆と算術に腕の或る者を出し、一人一人の粉骨を求む。黄門様の和州凱旋わしゅうがいせんは十五日であるから大いに時間はある。とはいえ長らくの在陣疲れだ、洛中にて羽を伸ばしたい向きもあろう。藤堂めも、正直のんびりと呆けたい! どうか皆々、一日でも多く遊ぶ為に、筆を奮わせて頂きたい!」


 この藤堂高虎こそ、算用合わせに困っていた。

 彼の隊は多くを船の回漕かいそうに割き、更には信頼置ける二人、一門筆頭の藤堂新七郎、但馬時代から頼りにしている文官細井久助は分散する二万石分の知行を管理する為に唐入りには不参加で、この日も不在である。

 彼に今あるのは、歴戦の近侍きんじと新時代を担う小姓衆こしょうしゅう程度だ。

 ただ洛内には祖父以来の出入り商人あきんどが居り、彼らの関係で算用に長ける人材を京留守居に手配していたのが功を奏した。更には何処で聞きつけたのか大坂からこの男も駆けつけた。


黄母衣衆きぼろしゅう速水甲斐守はやみかいのかみが一族、速水庄兵衛はやみしょうべえにて。人手足らぬとの事、藤堂様何卒私めをお使い下さい」

 彼は実の名を「渡辺かつ」と謂う江州武者ごうしゅうむしゃである。高虎が織田七兵衛おだしちべえに仕えて居た時代、上役として頼りにした渡辺与右衛門の嫡男であり、父が大坂城で主従敗れると母方の速水家に身を寄せている。

「おおう、庄兵衛。母君様や姉上は息災か」

「いやはや御若君御生誕で、全く休む暇がありません。んま、母は暇が嫌いですから、逆に元気になったと姉とよう話しておりますわ」

 何よりだ。泉下の与右衛門様、それに七兵衛様もお喜びの事だろう。

 正味、昔なじみとは言え家の算用を他家の庄兵衛に見せることは些かの不安がある。しかし彼は天下の黄母衣衆を務める伯父に鍛えられておるし、不始末があっても先走って告げ口をするような男ではない。

 それに、何か不足あれば赤子の時代より知る織田七兵衛の遺児・庄九郎に聞くだろう。


 黙々と、たまに部分部分での確認で怒鳴りつけあいながら算用の確認は進む。

 家臣が書き上げた帳簿を確認しながら、高虎はつくづく戦というのは割に合わないものだと感じた。特に身取りが皆無な外征では、特に割に合わない。

 確かに最前を征く将士に比べると兵糧の輸送費は抑えられた筈だ。しかし船を扱うことに銭が掛かる。特に幾度も朝鮮軍の奇襲に遭った海将の立場としては、失った水夫の家族に報わなければならない。

 大くひろく見ると、彼は大和紀伊を一手に纏める老衆おとなしゅうの筆頭格である。だからこそ全ての算用が揃ったときが怖い。

 いったい、亡き宰相大光院ひでなが様が貯めに貯めた財が幾ら遺るのだろう。その銭は、奈良町の人々があくせく働き、時には悪どく稼いだ銭であるし、更にいえば紀伊の材木で奉行衆を騙して稼いだ銭である。

 民草に報いるのなら、彼らに還元するべきなのだろうが、そうはいかない事情がある。郡山に戻ったら中坊の井上源五らと共に、奈良の町人を慈しむ策を講じなければならぬ。しかし自分たちはそれが出来るのだろうか、奈良町の民草は自分たちを受け入れてくれるのだろうか。心配は募る。


 考え込みながら、それを隠しながら算用に勤しむ家臣を見て回る。

 流石なのは若かりし頃の孝蔵主こうぞうすに鍛えられた文官石田清兵衛いしだせいべえで、計算も速く筆記も早い。負けじと働くのが徳川家から転じた祐筆の西嶋九郎兵衛である。彼は此度唐入りの船戦、揺れや矢弾をものともせず平然と首帳を書き上げる姿で、初陣多い小姓衆を安心させた。

 その小姓衆では、やはり筆頭の磯崎金七と庄九郎の出来が良い。甥の仁右衛門と、在籍四年目になる長井弥二郎の弓馬派ぶとうは二人も、互いに罵り合いながらも、手を墨で汚し奮闘している。

 近侍の大木おおき長右衛門、居相いあい孫作、服部竹助ちくすけの三名は何も気にならぬほどの、安定感がある。


 その中で無骨な相貌ながら、振る舞いから字に至るまで美しい者に目が留まった。



 七日朝より始まった、算用は二日半も掛かった。

 それでも当初は四日掛かると思われていたものが、十月九日の昼には全ての家から算用帳が出揃ったのは、稀に見る早さといっても過言では無い。

 そうして大和衆の算用帳は秀保の居館に全て集まり、夕刻に奉行衆へ届ける手筈が整ったのである。


 集まった算用を聚楽第へ届けに出向くのは秀保の役目である。その時、供奉ぐぶの為に馳せ参じた高虎はやんわりと断られ、代わりに仙丸と仁右衛門に声が掛かった。

 やはりこれからは若い者たちの時代なのだろう。寂しさをおぼえるも、かつての高虎もそうだったのだからと思い返せば、何のことは無い。


 そうして自らの屋敷へ戻った高虎を、出入り商人の筆頭である菱屋忠左衛門ひしやちゅうざえもんと気になる男が待っていた。

 こういった席には、近侍の三人や小姓衆を置くか、廊下に座らせる、武者隠しむしゃがくしに潜ませるのが常である。しかし今は小姓衆のなかで腕の立つ者は、束の間の洛中を楽しんでいる為に不在である。

 そうなれば大木長右衛門や居相孫作、服部竹助のいつもの三名を各所に置くことになるのだが、何故だか高虎は、どうにも妙な胸騒ぎを覚えて供回りを外して面会を行うことにした。


一時いちじは、今日の夜までの務めを覚悟致しましたが」

「いやはや、皆々ようやってくれた。まだまだ夕餉ゆうげまで時間があるから、金七や弥二郎ながい、清兵衛や九郎たちは連れだって聚楽じゅらくを眺めに行ったよ」

「それで旦那様。この者に用があると伺いましたが、正直申しますと願ったりにて」

「やはり菱屋は知って居ったか。この者の出自を」

「知っているも何も、我が家の本家ほんげというのは、元々広橋家の出入りから商いを始めた家柄にて。これはえにしに御座います」


 菱屋忠左衛門は商人あきんどである。

 その本姓は林で、父の林次郎兵衛は多賀新助、つまり高虎の祖父が健在の時代に出入りをはじめ、新助が戦で亡くなると母おとら附の商人となり、藤堂家の食事から戦までを支えた隠れた名臣である。

 また永禄から元亀にかけての動乱、そして本能寺の変といった近江を巡る動乱の影に母の伯父多賀新左衛門ありと囁かれている中で、その手足として暗躍したのは次郎の一党ではないかと高虎は分析している。

 そんな次郎の倅が連れてきた男だ。見応えはさぞかしあるだろう。


「それ平介殿、旦那様にご挨拶をば」


 無骨の中に気品を持つ男が面を上げた。


「藤堂平介に御座います。父祖三河入道明赤みかわにゅうどうみょうせき景盛以前、広橋御一家にお仕えすること二百年。父藤堂駿河するがは景盛より数え六代にて、時はいま広橋中納言にお仕えしておりまする。当方生まれながらの粗暴者にて、遂には武家の侍へ転じるべきやと家を出されましたるところ、良縁を得て新七郎様に見出され家中末席かちゅうまっせきに加え入れて頂くだけでも光栄の所、更には佐渡守様へのお目通りが叶いたるは、まこと喜悦の至りに存じます」


 藤堂平介、諱を景政という。

 誰も彼も平介の年齢を知らない。面は壮年に見えるも、立ち姿は小姓衆と変わらぬ瑞々しさにて、その所作は普通の武家では老齢になり、ようやく身につくと言われる美しさである。

 藤堂平介は少なからず常人じょうじんでは無かった。


 そして菱屋が紡いだ縁は藤堂平介という存在だけでは無かった。高虎がそれを知るのは、翌文禄三年(一五九四)三月の吉野大花見まで、待たなければならなかったのである。

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