文禄四年の政変

柊凛音

文禄二年の章

第1話・文禄二年の帰還

 黄門こうもんとは、古来中国で中納言ちゅうなごんの位を表す言葉であった。そして大和の中納言とは他でもない、太閤たいこう秀吉の甥にして関白かんぱく秀次の舎弟である豊臣朝臣羽柴秀保とよとみのあそんはしばひでやすその人で或る。

 彼は此の日、二年ぶりに再会した具足親ぐそくおや藤堂佐渡守とうどうさどのかみ名護屋なごや城の風呂場に心身を融かしていた。


「どうですか、少しは疲れも癒えますかね」

「ええ。たまには、斯様な湯浴みも宜しう御座います」

「それは何よりです」


 二年の歳月と、その地位はここまで人を育てるものかと具足親は心の中で呟いた。

 今から三年前、彼は宰相ひでなが亡き国を預かることとなったが、彼は配下となる大和大名だいみょう衆・小名しょうみょう衆を前にして、斯様に言い放つ。


「余は暗愚です。弓槍きゅうそう取らず、馬にも乗らず、鉄砲も打たず。太刀は飾りに、まつりごと木偶でくにございます。それでいてみやこつとめの御身、和州わしゅうにはそうそう居りますまい。然れど余は人を見ている。この大和衆は暗愚の二代目を見て、己らも暗愚に成り給うか、かたや守り立てる為に励むか。各々の好きにしてください」


 具足親として、その実質的な後見役を託された藤堂は肝を冷やした。まるで武役ぶやくは預かり知らぬとの物言いだ。彼の後見人が文官の職を預かる者であれば、然様な発言は如何にせよ諸人もろびとの納得がいく話ではある。

 されど後見役が家中随一の武官で、その武功に並び出る者の居ない藤堂佐渡守藤原朝臣ふじわらのあそん高虎であったのだから、本人が諫言する前に秀長の側近として活躍した桑山重晴くわやましげはると、彼の舎弟格いちぞく式部少輔しきぶのしょうによる折檻は直ぐのことであった。


「良いですか若君、具足親はかの偉丈夫いじょうふ佐渡守なのですぞ。国主こくしゅたる御方が、斯様な戯れ言を吐けば、佐渡めの面目に関わるもの。自身が無くても、然様な事を言っては成らぬのです」


「あのときは面目面目と式部少輔しきぶや、兵部少輔ひょうぶによう叱られました。でもねえ、こうも二年に渡り名護屋に居て様々な事に接すると、面目というものが良くわかりました。佐渡、あのときは悪いことを言いました」

「いえ、少しずつ学んでいくのですよ。佐渡めも、間違えながらも、生きて参りました」


 二人の再会は二年ぶりであった。

 天正二十年(一五九二)に始まった唐入り。

 秀保を支える大和衆からは具足親の藤堂佐渡守と仙丸親子、桑山の三男小伝次貞晴こでんじさだはると嫡孫小藤太一晴ことうたかずはる、仙丸の叔父にあたる杉若伝三郎氏宗すぎわかでんざぶろううじむね等である。


 高虎は兵糧ひょうろう船に聞いたとして、船を下りるなり風呂を所望した。彼は船上のささやかな楽しみにしていたらしい。

 されど彼の主君あるじはそっけなかった。

「成りません。太閤殿下たいこうでんか御意ぎょいにて、我等は急ぎ上洛が決まっていますから」


 しかしそうは言いながら、ここに今主従は二人湯に浸かっているのである。


「ところで湯上がりに館で一つ二つ話があるのです。良き話と、悪い話の二つがあります。佐渡は何方から聞きたいですか」

「如何なる事や……、ならば良き話を伺いたく存じますが」

「相承りました」


 和州の館は堀秀治の隣にある。秀治はかの才人堀秀政の嫡男で、秀保の三つ上である。二年も共に名護屋を守った仲であるから、位の差など超えて兄弟のように仲が良い。

 兄弟であれば秀保には年が同じの兄弟分が居る。それが高虎の養子せがれで、かつての御曹司である藤堂仙丸である。


「それで黄門様こうもんさま、話とは如何なるものに御座いましょうや」

「お仙、そのように身を乗り出さずとも良い」

 仙丸は秀保を黄門様と呼び、秀保は「お仙」と呼ぶ。それでいけば秀保のことも幼名で呼べば良いものだが、彼の幼名が藤堂佐渡守の諱と被る「於虎おとら」であるから都合が悪い。


「良い話は赤子様あかごさまの御生誕です。太閤殿下は、お拾君ひろいぎみと御名付遊ばされたと聞き及びました。これにより豊家ほうけの継嗣問題は片付きました。

 実のところ先年お拾君御生誕の砌より、何かにつけ上洛じょうらくせぇ上洛せぇと催促の日々を過ごしてきました。それでいて今名護屋にあるのは、催促の度に佐渡たちを引き合いに出して、家中の者共が渡海とかいし奮戦の途上、せめて彼らが戻ってからに、と猶予を勝ち得たのです。ここで其方そなたが帰国したら、私も戻らなければならぬ。戻って、皆で赤子あかごに平伏すのです。和州家わしゅうけの真心を表すのです。継嗣問題の楽着御目出度らくちゃくおめでたきことかなと」

 だから今、大和衆やまとしゅう帰朝きちょうの途についたことを誰も知らぬという。それには高虎も驚いてしまった。


「そのようなこと、殿下の耳に入れば如何になりましょう」

赤間関あかまがせきあたりで早馬はやうまを出す手筈です。そこから上手いこと帰洛すれば、早馬が届いてから暫く、何と大和衆は帰朝の疲れなど吹き飛ばし太閤殿下の為に急ぎ帰洛なさったと、お褒めの言葉を預かりましょう。叔父上は、そうしたところも見て居るのです」

「しかし堀殿や奉行衆には」

堀久兄ほりきゅうあにには言い含めてあります。奉行衆は、今それどころではないでしょう。大忙しですから」


 そのようにして彼は悪い話を始めた。これが長くなり、とても長くなる。


「斯様に奉行衆が忙しくしているのは、どうやら唐入りの終結が難航しているとの由。まあそもそも同じ国、同じ家でも解り合えぬと言うのに、違う国と解り合おうなど早すぎたのだ。つまり今一度の唐入り、これをどうか覚悟して頂きたい。

 二に在国ざいこくの不首尾です。むしろ和州にとって喫緊きっきんの課題が、和州の騒動と没落です。全ては亡き宰相様ちちうえの金貸しと、中坊なかのぼうの苛政によるものです。折からの騒動で、治安は乱れました。全く以て由々しき次第。私たちは、やり過ぎました。いくら豊家ほうけの為とは云え、ここまで奈良衆中を苦しめてしまったのは失策です。急ぎ和州へ戻り、民草たみくさを慈しまなければ成りません。

 三に兄の不穏です。これは断片的、あくまでも風聞の類ですが、どうやら身体が悪しく、それでいて正親町院おおぎまちいんの喪が明けぬうちに狩猟に勤しみ、公家との間柄も今一つ宜しくないと。実際にこの目で確かめるが肝要ですが、万が一に関白殿下に不行状ふぎょうじょうがあるのならば、私たちがお諫めしなければなりません。」


 長く、重苦しい課題である。

 今再びの唐入りは、天下惣無事てんかそうぶじが相成ったといえども武門ぶもんの藤堂家ならば、いつでも出立の支度を相整える必要がある。それらは父や留守居の家臣たちがやってくれよう。

 しかし在国大和の騒動は頭が痛い。

 元々天正十九年に宰相ひでながが世を去った後、奈良の治安は金商人かねあきうどの不穏を中心に悪化の一途を辿る。

 同年も奈良で一揆の噂が起ったが、これは藤堂の武力で未然に防ぐも、二十年に彼らが西へ下ると遂に崩れたらしい。

 和州の留守居を担う横浜一晏よこはまいちあん、桑山重晴、奈良を治める奉行井上源五は一揆勢とその女房から怪しい町人まで、牢に入るだけ捕らえに捕らえてしまった。

 一揆勢は京や大坂に連行され厳しい取り調べを受けたが、結局は訴えが認められる。

 

「その折は中坊の井上を、わざわざ名護屋へ呼びつけて叱りつけたと伺いました」

「ええ。そうでもしないと奈良の衆中が納得しないと思いましてね。お仙もそうでしょうが、私にも面目がありますから」


 井上源五は中坊なかのぼうの屋敷に居する事から、中坊なかのぼうと呼ぶ人も居る。彼は「奈良貸ならかし」と呼ばれる、強引に金を貸し付けて、強引に毎月の利子を回収する事業を担ったが、その中で過分に徴収を行い私腹を肥やした、それが金商人ら奈良衆中の怒りを買っていた。


「腹を切らせても良かったのですがね、三千五百石たくわえの没収に留めました。本人は泣いて詫びましたが、ああいうのは本心かわかりません。頭を下げるに銭は要りませんから。然れど私が脇差しを向けて、取り乱して泣きわめく姿は、あれが人の素でしょう」

「まこと立派な御裁定ごさいていにて」

「いや、立派かどうかは、お仙が決めることではなく、国に帰って、衆中が決めることです。猶も世は乱れているわけですから。むしろ、ここから太守たいしゅとして立派の言葉があたうようにならねば」


「いやはや遠く名護屋より、宿老しゅくろう衆の手助けを無しに在国の処分を決めるは立派といわず何と言いましょう。横浜法印ほういんは叱責、桑山殿には修理大夫しゅりのだいぶを没収し出家せしめるとは、我等宿老衆では出来ぬ裁定にて」

 この羽田長門守正親はだながとのかみまさちかは宿老の一人で、大和郡山の後方しりえを担う小泉城などを治める。横浜一晏と並び、宰相秀長の出頭人しゅっとうにんとして活躍する男の不在は、在国の治安を乱す一因にもなった。


「ところで我が祖父杉若無心すぎわかむしんの処遇は如何いかが相成りましょうや。昨年の騒動に関わりし宿老は概ね処されたなかで、祖父のみ処分は無く。よもや仙が顔の為に処分無きやと存じますが、然様さような心配りは無用に御座います」

「杉若は見せしめという処分だよ。まあ単に事情も知らず桑山に巻き込まれただけですし、そもそも隠居の御身おんみを急かされただけですから。ここで厚意を見せ、裏で孫の威光でああだこうだ言われる。そこで挽回するか、折れるか、傲慢になるか。功臣杉若越後えちごの生き様を見てみたい」


 こうした話をしていると、丁度良く桑山一晴と貞晴、杉若氏宗が揃い詫びに訪れた。彼らは唐入りで功を上げたのにも関わらず、詫びてきた。

 それぞれ、子や孫として一族の汚名を雪ぎ、己等の面目が為に行うものなのだろう。



 閏九月二十五日、名護屋を出た和州一行は赤間関にあった。

 藤堂高虎の隊列は出征の時よりも荷物が多い。曰く、昵懇じっこん江戸大納言えどだいなごん徳川家康へ贈るために連行する二人の朝鮮人てるまや戦利品だという。

 また藤堂個人の趣味として、朝鮮の石像も運んでいるという。郡山の居館、その庭に置くつもりらしい。

 彼は幼い頃から石造物に触れ、また湖東三山ことうさんざんとの縁もあるため仏教にも一応の理解がある。その割には若い時分、織田信重おだのぶしげのもとで敵対する寺社を燃やし、和州では寺院に対し武力で脅しをかけている。


 上方かみがたそして在国ざいこくへの途上、ふと気の重さを感じた。

 どうやら前途も波が多そうである。豊家の将来、国の行く末、領民、御家おいえ、そして黄門秀保の顔が高虎の両肩にのし掛かる。如何に乗り切るか、いや乗り切ることが出来るのか。

 少なからず、どのような結末になろうとも、宿老としての働きを見せなければ。

 気の重い帰り道である。


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