エイプリルフール・プルーフ
及川盛男
エイプリルフール・プルーフ
エイプリルフール・プルーフ
始業開始から三〇分経った。早速押し寄せてきた新年度最初の日の忙しさを、せめて気持ちだけでも誤魔化したいという、その程度の考えだった。黒田は、隣の席でノートPCのキーボードを親の仇のように叩きちらしている白井に向かってぽつりと、
「なあ、知ってるか。エイプリルフールだから、嘘ついて良いのは今日の午前中までらしいぞ」
と言った。個人的にはウィットに富んだ嘘になっていると黒田は満足していた。この有名なルールは実は明確な由来のない、単なる都市伝説的な風習であることを知っていて、これ自体が嘘であるというメタな構造を孕んでいるからだった。
だがそれを聞いた途端、それまで残像すら見えるほど高速に動いていた白井の指はピタリと止まり、そしてゆっくりと黒田に顔を向けた。すっかり表情は蒼白になっていた。
「本当か?」
そんなに驚くことだろうか、と黒田の方だって思いがけない反応に動揺しつつも、
「あー、半分ウソってとこだな。ソースは無いけど、みんなもう結構信じちゃってるルールだから」
「どれくらいが?」
「んー……もう何年も前から言われてるから、今年くらいになると、もう殆ど全員なんじゃないか?」
聞くやいなや、白井はガタンと席を立ち上がった。呆然とする黒田を置いて彼は部長が座る席に向かうと、
「すみません、現時刻を持って退職します。お世話になりました」
「は?」
「はっ?」
部長と黒田の、重なった驚き声も聴こえているのかいないのか、白井はそのままカバンだけ持ってサッと部屋を出ていってしまった。
部署内に暫く、複合機が印刷物を吐き出す音だけが鳴り響いた。
真面目で品行方正、業務態度も問題無しの模範的な社員だった白井が、一体何を思ったのか。黒田は気がかりになって仕方なかったが、
「……黒田、とりあえず白井の業務はお前、頼むぞ」
部長の突然の采配に、そんなモヤモヤは一旦吹き飛ばすほか無かった。
十一時、一旦大至急対応すべき案件は終え部長に納品したところで、ようやく部長は「おい、白井をちょっと探しに行ってきてくれ、業務用の携帯に出ないんだ」という指示を出してきた。
といっても白井の行く宛に特段の心当たりもなく、取り敢えず従業員情報に登録されている彼の自宅住所へと向かうと、それもまた異様な光景になっていた。
「なんじゃこりゃ」
閑静な住宅街の一軒家、だったのだろうが、彼の自宅の前には大量の重機が並べられ、恐らく両隣のモダンなデザインと同じようだったであろう装いは、鉄板や鉄柱などでガチガチに覆われていて、まるで巨大な装甲車のような見た目になっていた。
「……おーい、白井ー!」
大声で呼びかけると、その鉄の城の上の方からにょきりと白井が頭を出した。顔は油か何かで汚れきっていた。
「お前、どうしちゃったんだよ、いきなり会社飛び出すわ、家を防弾仕様(バレット・プルーフ)の要塞に仕上げだすわ……戦争にでも備えるつもりか?」
「そうだ」
黒田の冗談に、白井は至って真剣な面持ちで頷いた。
「意味がわからん。何でそんな結論になる」
「お前が言っていたことだろう。エイプリルフールの嘘は午前中までだって」
「言ったさ。だがあれは嘘だし、本当だとしてもどうしてこんなことになるんだよ」
「最初は嘘だったかもしれんが、今は真実のルールになってるだろう。そうなると正午になった瞬間、この世界秩序は崩壊する」
大真面目な表情と声色で、そんなことを言うのだから、黒田は吹き出してしまった。シュールギャグのために、いくらなんでも身を張りすぎではないだろうか。
だが白井は「いいか」と、黒田を諭す。
「俺たちの社会や文明が、一体何で出来ているか説明できるか? どんなルールや理念に基づいている?」
「そんなん知らんが、まあ……自由や平等、資本主義、法治主義、民主主義、科学主義、っていったところじゃないのか」
「それは全て、嘘で出来ている」
ぎゅっと拳を握りしめる白井。
「全部、最初この世界に存在しなかった物を、人類が想像力の力で生み出し組み立ててきたものだってことだ。法も貨幣も企業も、ルールや約束という概念そのものも、全部人類が共通の虚構を信じているからこそ初めて成り立つものだ。じゃあもし、ある日の正午にそれら虚構を吐き出し信じることが全て禁止されるとしたら?」
大きく腕を広げ、白井は世界を指し示す。
「全ての社会が基盤から崩壊して、とんでもないことになるだろう。貨幣は価値を失い、法は誰も守らない。虚構を信じる程度の能力が無かったころの人類――それこそ類人猿の時代まで文明は後退し衰退するに違いない。暴力が全てを支配し、資源は物々交換でやり取りされる。そんな世界の到来に備えて家の防備を固めているのさ。防弾ではなく、防嘘仕様と言ったほうが正しいだろう」
白井の言葉にあっけに取られる黒田だったが、慌てて首を振り、
「待て待て待て。なんだそれは。別に嘘を吐いちゃいけないなんて法律が出来るわけでも、飲んだら全部言ったことが嘘になる薬を投与してさっきのことを言った訳でもないぞ。嘘を吐いて良いのは正午までなんて、そんな絶対的なルールでもなんでも」
「だが、お前が言うには皆もうそのルールを信じているじゃないか。そうなれば嘘も立派なルールになるのは、正に法や貨幣が今存続していることが証明し続けていることだ」
黒田は額に汗を垂らしていた。時計を見ると正午まであと十数分だった。
「お前の言っていることは矛盾しているぞ。つまり、嘘も吐き続ければ本当になる、ってことを言いたんだろうが、それなら真実になった貨幣経済や法体系は嘘では無くなっているのだから、消える必要はないじゃないか」
「それらは真実になったわけじゃないのさ。あくまで単なる建前だ。つまり本当に信じるつもりは無いが、ただそうした方が便宜的に良いものとして置いているものに過ぎない。便宜の建前と真実になったルール、果たしてどちらが強いのか――」
構ってられない。これ以上一緒にいると自分までどうにかなってしまう。黒田は踵を返して白井の自宅を後にした。
全く、このようなことにあの白井の言葉たった一つで至ってしまうとは到底思えない。きっと元々白井は相当な精神面での不調を抱えていたに違いない。同僚としてそれに気づけなかったは無念だが、しかし部長に状況を報告して、適切な処置が行われるよう差配しよう。
駅のホームでスマートフォンのメールクライアントを立ち上げてそのようは報告文を書いていると、前に並ぶ高校生男女の会話が聴こえた。
「……俺、お前のこと好きなんだ」
「えっ? い、今なんて?」
「なんちゃって、エイプリルフールでした」
「……知ってる? エイプリルフールって嘘を吐いていいの、午前中だけなんだよ」
「知ってるって、だからギリギリを狙って――」
「もう、十二時過ぎてるよ?」
「えっ?」
驚いたまま顔を真っ赤にしている男子と、同じく顔を赤くしながらもニヤニヤしている女子。それを見ながら黒井は胸を撫で下ろした。こういうのでよいのだ。正午を挟んで展開される、ちょっとしたすれ違いラブコメ。嘘は正午までというルールに求めているのはこういうギミックとしての役割でしかないのだ。それに見よ、正午は既に周っているのに、世の中のなんて平和的なことか――。
瞬間、ホームが真っ暗になった。あちこちで悲鳴が上がる。
『えーただいま、東京電力管内で大規模な停電が発生した模様です。現在状況を確認しております。ご不便おかけ致しますが今暫くお待ち下さい』
やがてそんな放送が流れて周囲の動揺は収まっていったが、黒井は不安が立ち上ってくるのを感じた。そんな邪念を振り払おうと報告文の作成に戻ろうとして、流れてきたニュース速報のテロップに黒井はいよいよ顔を青くした。
『東京証券取引所にて人的トラブル発生 後場の再開は未定』
続報を見ようとした瞬間、電波が圏外となってしまった。再び周囲に広がる困惑の声の中、黒井は居ても立ってもいられなくなり、改札外に向かって走り出した。一刻も早く、鉄板を調達しなければならなかった。
エイプリルフール・プルーフ 及川盛男 @oimori
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