義手のピアノ弾きと、変態絵描き

九頭虫さん

義手のピアノ弾きと、変態絵描き


(ああ、痛い、痛い! これは嘘だ、最低の悪夢だ! 誰か、誰でも良いからそう言ってよ!)


少女の祈りは、押し潰された右腕と共に、慈悲無く消え失せた。


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


暖かな病室で、少女は目を覚ます。こんな場所で目が覚めるなら、あれが夢である筈もない。


(なんだか身体中痛い気がする……いや熱い…寒い…? よく分からない…、力も入らないし……)


「お目覚めですか、海田 理沙かいだ りささん」


看護服を身に付けた女性が少女に声をかけた。柔和な態度をしたその人は、少女──海田 理沙かいだ りさの緊張をほぐす。


「一旦身を起こしましょうか、失礼しますね海田さん」


看護師はゆっくりと理沙に近付き、起床を助ける。掛け布団が落ち、理沙の上半身が姿を現した。


右腕が無い。


「……え…」


目の前の光景が信じられなかった。不意に吐き気が襲い口に手を当てようとするが、その手は右腕で、動かそうにも存在していない。


「な……なんですか…"これ"……」


「…海田さんの右腕は、損傷が激しく……、再接着は不可能な状態でした」


看護師は申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。他に手は無かったのだが、彼女はそれでも心を痛めている。そこに偽りはなく、理沙の心を再び落ち着けた。理沙も、自身に何が起こったのかは覚えていたから。


(あれ…、これって……もうピアノ弾けない──)


ただし、受け入れられるかどうかは別の話だろうか。


(──私の夢……もしかして終わった?)


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


それから暫く日が巡り、理沙は機械仕掛けの右腕を着けていた。彼女は学生だ、退院後初めての登校である。


教室では数えきれない気遣いに揉まれ居心地の悪さに嫌気が差したが、結局はこの事態を引き起こした己の不運を呪うばかりだった。


一通りの視線を浴びせられ、日も傾いて放課後。誰もいない教室の中、理沙はぐったりとした様子で背もたれに身を預ける。


(…義手も着けた、リハビリも終わった、ちゃんと動かせる。…だけど全然違う、……ならこんなものあったって…)


理沙は作り物の右腕を恨めしそうに見つめ、握り込む。義手は理沙の思い通りに動作する、しかしその奥に失くした筈の腕が未だずっと残っているようで、どうにも落ち着かない。


(ずっと疼いてて気持ち悪い…。──私本当に、このまま生きていかなくちゃならないのかな…)


「…見つけた、海田理沙さん」


ふと、理沙を呼ぶ声。そちらへ向くと、華奢で透き通った小柄な少女が立っている。彼女は笑顔とも言えない、しかし嬉しそうな表情を浮かべていた。


「──誰…だっけ、去年同じクラスだったよね?」


音無 奏おとなし かなでです。まぁ名前なんてどうでも良いでしょ」


奏と名乗った少女はずかずかと教室に入り、理沙の隣に座る。


「お願いがあるんだけど、"右腕"描かせてくれない?」


「描く? …あぁその腕章、美術部か。…この義手が珍しいんだ?」


「違うよそっちは興味ない。腕千切れた人間とか初めて見るから描いてみたいの、断面とか見たいじゃん」


「は…?」


奏は、理沙の右腕をじっと見つめている。獲物を前にした肉食動物のような、餓えた目だ。理沙はそれに恐怖を覚えずにはいられなかったが、どこか彼女に惹かれたのだろうか、拒絶はしなかった。


「…すごく気持ちの悪いこと言ってるって思わない?」


「思うよ、「サイテーだなぁ…」って思いながら言ってる。で、答えは?」


「……良いよ、他にやること無いし」


二人は立ち上がって、教室を去った。


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美術準備室。音無奏はここを半分根城としている。たった一人の美術部員はこの場所で、ただ筆を動かしているのだ。


鍵の音カシャンッ


「…何で鍵閉めたの」


「こんな場面、見られちゃ不味いし。ほらそこ乗って、服脱いで義手外して」


奏はモデル用の台を指差して、促す。理沙は従って台に乗り、上着に手をかけたところで動きを止めた。


「…ねぇあっち向いててくれない? 脱ぐとこ見られるの恥ずかしくなってきた」


「外すとこも見たいから無理。言ってもその体じゃ大した下着でもないでしょ、早く脱いで」


「下着は下着だよ! 確かに布面積は多いけど…。ったくあんたが男だったらこの時点でお断りだっての…」


「私が男だったらその時点で組み伏せるけどね」


「…ほんと最低」


義手が置かれるゴトッ


右腕の断面が露になる。傷口は概ね塞がっているが、それは痛々しいものであり、理沙本人もあまり良い顔は出来ない。


「…へぇ……これが」


奏はずいと顔を断面に近づける。吐息がそこへかかる程に。


「──ッ!?」


台から転げ落ちるガタッダンッ!!


「な…何してくれてんだ!」


「動かないでよ、よく見えない」


「っ、近すぎだって! もう少し遠くから見てよ!」


「それじゃあ画像見てるのと変わんないよ、もっと近くで見たいから呼んだんじゃん」


「だからっていきなり──」


奏は倒れた理沙の"右腕"へ、尚も顔を近付ける。


「ちょ、ちょっとおい…!」


「ふむ…なるほど……」


手が触れるするっ…


「ひっ…! や、やめろってゲロカスァッ!!」


理沙は振りほどこうと腕を振る。ただしそれは右腕であり、肩だけが虚しく動いた。


「…ふふっ、もう右腕なんて無いのに。可愛い──ふぉぐァッ!?」


慈しむ様な笑顔を見せた奏を、理沙は思いきり蹴り上げる。意図していなかったが、それは腹部に直撃した。


「あっごめん! そこまで綺麗に入るとは思わなくって…」


「…ぅえ、げほっごほっ! ……これが体格差か…、もうちょっと運動しとくんだった…」


「えー…っと、とにかく! 触るのは許可してない! 最悪近くで見るのは…良いから、分かった!?」


「分かったよ…じゃあ台戻って」


・・・・・・・・・・・・・・・


筆の音だけが響くシャッ…シャッ……


「──あのさ、理沙」


「何」


「その体勢辛くない?」


「そのままキープしろっていったの奏でしょ」


「うん、まぁ……」


……間。


「──えっそれだけ!? なんか物語が進みそうな空気だったじゃん!」


「なにそれ、物語なら常に進んでるでしょ人の歴史としてこの一分一秒が。…まぁそこまで言うなら本題行くけど」


「あるんじゃん本題…」


「どうしてすんなり協力してくれたの?」


「…別に、暇つぶしのあてを探してただけ」


「だからってこんな人間に付いて来るかなぁ普通…」


「自分で言うか──あぁ、そういえばこの人自覚あったわ…。まぁ…なんと言うか、変に気を遣われなかったのが寧ろ嬉しかった…のかな」


「へぇ…"被虐趣味あり"……と」


「曲解し過ぎじゃないの」


「あながち間違ってないと思うけどね。夢破れて自棄になってんだよ」


「……そうかもね。…ん? あれ、"夢破れて"なんて話したっけ私」


「いや憶測。でもその左手、ピアノ弾いてたでしょ」


「モデルの観察は得意って訳か…凄いね。…うん、私がたった一つ大事にしてたもの…、……それがこんな形で…」


理沙の瞳が涙で揺れる。忘れようとしていた思い出が溢れ出し、涙もまた。


「──……ほんと、在り得ないよなぁ…」


「あー動くなってば、涙拭くのなんてあとでやってよ」


「…このゲロガキッ」


「メジャーな悪態"ゲロ"って蛙かよ…」


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


筆を置く音かたんっ


「…よし、今日はこんなもんかな。もう帰って良いよ、ありがとう」


「…どういたしまして」


理沙は台から降りて体を伸ばし、その後義手を着けて服を着る。


「あぁ理沙、あとこれ」


不意に、奏が何かを投げ渡す。


「ここの鍵。明日は自分で来て」


「は、明日?」


「どうせ暇でしょ」


「…はいはい」


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蝶番が軋むキィ…


「ただいまー」


義手の右腕でゆっくり扉を開けて帰宅を告げる。…返事はない。


(…まぁ別に、入院中傍に居てくれただけで十分だけどさ)


理沙の両親は滅多に帰ってこない、姉も居たがまず実家へ帰らない。朝も、夜も、理沙はずっと一人だった。


・・・・・・・・・・・・・・・


ソファに体を投げるぼすっ


(ごはんは食べた、お風呂にも入った。…次は……次……)


理沙はリビングに鎮座しているピアノを見つめる。夜の間は、いつもずっと弾いていた。休日ならば、一日中弾いていた。毎日、毎日、休んだことは一度もなかった。いつかもっと大きな舞台で、たくさんの人を幸せにしたいと願っていた。そして何より、楽しかったのだ。


(…ピアノ……、私の全て)


義手の右腕で、鍵盤に触れる──


「ッ…!? ぁ…ぐ……!」


──激痛が走った。理沙は左手で義手を押さえてのたうち回った。声も出せない激痛、それは存在しない"右腕"がもたらしたものだろうか。


(……やっぱりまた……ッ! まだ"右腕"がある…、弾こうとしてるんだ…。私だって弾きたいよ自分の両腕で!! だけど…でも! もう…)


痛みは引かず、理沙は暫くずっと、横たわっていた。


(嫌だ……やっぱり嫌だよ…弾きたい曲が沢山あるのに…!)


「フーッ…フー…ッ!!」


理沙は痛みをそのままにゆっくり体を起こし、今度は左手でピアノに手を伸ばす。


酷く歪んだ音色ポーン…


「ぐァッ…! ああウゥッ!!?」


ピアノの音と響き合うように、右腕の激痛は強さを増した。音を聴いた瞬間に、"弾きたい"という思いがより激しく揺さぶられたのだろう、右腕が潰れたその時よりも、ずっと痛かった。


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「──っていうことが出会った頃にあったかな…、その後一曲も弾けずにずーっと痛みと格闘してたよ。…今もそうだけど」


「あんた相当なピアノ狂いだね」


「人に言えたことかいつも私にこんな格好させといて」


「おっとなんにも言い返せない」


季節は巡り、美術準備室。理沙と奏は、奇妙な関係をずっと続けていた。


「奏も何か聞かせてよ、次はあなたの番だと思うけど」


「私は描くのに集中したいから後で。…あっポーズ変えてくれる? もっと断面見える感じで」


「……やっぱゲロいなあんた」


「口わっる…、本当にピアニストかよ」


「奏にだけだよ。…ほら、これで良い?」


「良いね。じゃ、キープよろしく」


・・・・・・・・・・・・・・・


筆を置く音かたんっ


「──よしっ、今日はこんなもんかな。おつかれ」


「ん。…あれ、もうこんな時間……、今日長くなかった?」


「帰っても家族居ないんでしょ、だったらたっぷり付き合ってもらうとも」


「勝手だなぁ…、──うわ、外もう真っ暗じゃん…」


「別に、近所でしょ家」


「…まぁ確かに。じゃあ、奏の話を聞く時間も残ってるかな?」


「あぁ覚えてたんだそんなこと。何が聞きたいの」


「じゃあ…家の事とか」


「あ゛ー…、それ聞く? えっと…私さ、家帰ってないんだよね」


「えっ、今高2でしょ? どうなってんのそれ」


「そうだな…"親が家を継がせようとしてくる"って言ったら面倒くささは伝わってくれるかな? 詳細は省くけど、いろんな人の協力を得て学校に匿ってもらってんの。バレたら多分…監禁コースかなぁ……」


「なんか…色々とギリギリだね……。じゃあ今は学校に泊まってるんだ」


「そう、特例中の特例だってさ。先生には感謝しかないね」


「そうか……、よし、今日家来てよ! 私の家」


「はっ?」


「家じゃいっつも一人で寂しかったんだ。…やることもないしさ、たまには私にもわがまま言わせてよね」


「…まぁ、別に良いけど。じゃあピアノの資料でも作ろうかな……、外に出るのいつぶりだろ」


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迎え入れる音がちゃっ


「さ、どうぞ」


「…お邪魔します」


奏は緊張した様子で家に入る。外に出るのは久し振りらしいが、誰かの家を訪ねるのは初めてらしい。


「そんな緊張しなくても、私たちの関係ならそう変でもないよ」


「私たちの関係?」


「あれ、ピンと来ないか…。それなりの友達だと思ってたけど」


「とも…だち……、って本気? だってサイテーの出会いだった──」


「やっぱそこ正気あるのおかしいよ。出会いは確かに最低だったけど、今はまぁまぁ好きだよ奏との時間」


「…じゃあ断面触って良い?」


「ころすぞ。それよりお腹空いたでしょ、ご飯作るね」


「情緒どうなってんだよ…」


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


「──あ」


落ち着いた夜の時間が始まろうとしたその時、理沙が声を上げる。


「そっか、私ピアノ弾けないんだった今」


「…ん? まぁそうだろうね」


「気抜くと忘れちゃうなぁ、これじゃやることないや」


「えぇ……それ普段何してんの」


「右腕の痛みと戦って床を転げまわってる」


「……ずっと?」


「ずっと。奏と出会った日から」


「ふむ…、見せてよその現象」


「言うと思った。流石にただの醜態だから無理ですね」


「それは残念。…じゃあ"いつもの"やるかぁ。折角だしピアノ椅子に座って貰おうかな」


「はーい」


「何か最近抵抗無くなってきてんだよなこの人…。あっピアノの蓋も開けるか、そっちの方が"らしく"なるからさ」


・・・・・・・・・・・・・・・


鉛筆を動かす音さっ…さっ……


「そういえばずっと気になってたんだけど、何でまだ私の断面見ながら描いてるの?」


「モデルとして優れてるから。……他のところも含めて」


「…へぇ? 具体的にどの辺」


「ピアノを弾けなくなってなおずっと忘れられないで溺れてる愚かさや虚しさが滑稽だよね、見てて飽きない。今日は特に顕著だけど」


「結局そういう方面か…」


理沙は奏の返答を聞いて思わず脱力する。理沙が座っているのはピアノ椅子である、であればその拍子に。


音でもない音ポォーンッ…!


理沙の左腕が鍵盤に触れた。


「ア゛ッ!!?」


酷く転倒するドダァンッ!!


落雷のように鋭く、理沙の存在しない右腕が暴れ出す。


「おっラッキー、これが噂の」


奏はここぞとばかりに観察の体勢をとった。


「…ッゲロガキィッ!」


「これに関しては理沙の不注意だし? …ふふ、打ち上げられた魚みたいになってる、可愛いー」


「……最ッ低…! アッ! ぐ、ううゥッ!!」


「へー痛みにも波あるんだ、なるほど?」


「この、冷静に観察しやがって…!!」


・・・・・・・・・・・・・・・


「──あれ、落ち着いてきた?」


「…ぜぇ…はぁ……なんとか──」


「んー…、延長で」


慈悲無き好奇心ポーンッ!


奏は軽い手つきでピアノを鳴らす。


「ウ゛ッ!!? おォいッ!! 待ておまっ、曲を弾くなァッ! ァ、伴奏…伴奏がした──あ゛っぐッ…ギュァッ……!」


・・・・・・・・・・・・・・・


「…フーッ……フゥーッ…! …ふざけんな……マジでさぁ…ッ!!」


「ふむ…まぁこんなもんで良いか。ご協力どうも」


「協力してねえよッ!! これで満足しなかったらどうするつもりだったんだこいつ…!」


「再延長…する?」


「やめて…。もうなんか…ピアノが凶器──あ゛ッ! …駄目だ、今ピアノって単語出すだけでやば──ぐッ…」


「すご…ほんとに重症じゃん。なんかそういう背景ってあるだけで絵にも生きてくるんだよねぇ、もっと苦しんでほしい」


「遠慮が無さ過ぎるな…、こんな人と居てどっか心地良くなってる私もおかしいよほんと…。…ちょっともう一回お風呂入ってくる、酷い汗のかき方した……」


「あ、じゃあお背中流しましょうか?」


「ついでに断面触る気だろ、座れ」


「おぉ、バレてる」


・・・・・・・・・・・・・・・


「ん、おかえりー」


「ただいま…って何してんの」


「ピアノの下潜り込んでる」


「ごめんそれは見たら分かる、何の為に?」


「作画資料作ってる。おかげさまで描く機会も増えてきたからね」


「そこまでするんだ…まぁ変なことしないなら良いか。──あ、そういえば今日奏のこと泊まらせるつもりだけど…」


「えっ、初めて聞いた。そんで言い方強引だな別に良いけど」


「先生に連絡とかしとく?」


「あー…今する。…した。うわ返信はやっ、「誰か監禁でもしたのか」って」


「先生からも信用されてないのか…。そういえばまだ私たちの関係話してないんだっけ」


「そうだね。どっちかって言うと監禁されたの私だよ」


「そっちの関係じゃねえよ、変態をなすり付けんな」


「監禁を否定しなよ…。まぁ適当に誤魔化しとこうかな、まだ理沙を独り占めしてたいし」


「……ねえ、今私の何が立ったと思う?」


「腹と鳥肌と目くじら」


「目くじらは余計だよ。全く…じゃあ寝る準備だけ済ませとこっか。そのソファ使って良いよ、毛布は今から持ってくる」


「え、部屋別なの?」


「奏と一緒に寝るほど不用心じゃないんで」


「……ごもっともです」


・・・・・・・・・・・・・・・


短い鉛筆を動かすさっ…さっ……


眠る準備も整ったところで最後の自由時間。とはいえ二人のやることは変わらないらしい。


「くぁ…ぁ……」


ここで、理沙が大きなあくびを響かせた。


「──ん、まだ寝ないでよ終わってないんだから」


「えぇ…人の心が無い……」


「今に始まったことじゃないでしょ」


「そうだけど……ぁ…無理だ、ごめん流石に寝る」


「えぇー。……まぁ、仕方ないか」


奏は道具を片付けてソファの上に寝転んだ。


「お、このソファ良いやつだ。寝心地最高」


「でしょ? 私も気に入ってるんだ。…あと奏、一応言っとくけど寝込み襲うなよ」


「はいはい、努力します。…真面目な話、そこまではしないよ」


「ふーん…、ま、おやすみ奏」


「ん、おやすみ理沙」


二人はお互いの名前を呼び合って眠りにつく。それはやはり、"友"なのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


夜も更け、12時などとっくにすぎた頃。音無奏は目を覚ました。奏の眠りは浅い方で、なにか変な音が聞こえれば目が覚めてしまう。…目が覚めたということは、なにか音がしたのだろう。


(──なんだ? この音…というか、呻き声……?)


奏は耳をすます。だがその声は想像以上に大きかった。


暗い呻き声アグァ……ウ……


低く、魔の宿る呻き声だ。奏は堪らず起き上がり、声の出所を探った。


(なんだ、何処からだ…廊下? でも理沙が起きたにしては足取りも声も変だ……ま、まさか…まさか幽──)


身を隠すバッ……!!


奏は慌ててソファの影に隠れた。その感情は恐怖であり、自然と呼吸も乱れていく。


(…やめてよ、そういうの……。ま、まぁ幽霊なんて全部嘘だし? これも空耳に決まって──えっ、こっち来てる!?)


扉が開け放たれるバドァンッ!!


扉が轟音を立てて開け放たれる。


(──ひッ……! こんなん確定じゃん!! 駄目だ見るな…顔を上げるな! 呼び掛けにも答えるな…ッ!!)


暗い足音ズッ…ズッ……


低い呻き声と共に、引き摺るような足音が真っ暗なリビングに響く。奏はソファの影で丸くなりながら微かな祈りを頼りに正気を保っていた。


(どっか行け…来るな、来るなッ!)


息を殺して、長く永く、時が過ぎていく。気付けば音は、止んでいた。


(…消え……た? ──いや…もしかしたらそのふりかもしれない…、まだ開けるな、まだ見るな…!)


ピアノの音ポォーン……


(ッ!? 居るッ!!)


奏は強く耳を塞ぎ、何も聞こえないように何も見えないように努めた。…だがそれでも、微かだが聴こえるものはある。


「ウ…うウ゛ゥ…ぁあ゛ァッ……!!」


それは、痛みを背負った断末魔だった。何者かが、そこで苦しんでいる。それはあまりに悲壮で、奏は思わず耳を傾けた。「弾きたい」と唸る声、「助けて」と泣く声。負の感情に包まれ、どろどろに溶けた暗い言葉。


結局それは、海田理沙の声であった。


「──理沙…?」


奏は立ち上がり、ピアノの方を見る。そこでは左手だけの海田理沙が、目を閉じたまま涙を流してピアノの鍵盤を叩いていた。音がまばらで、それは曲ではない。だが彼女の心は確かに浮かび上がっていた。


(絶望が混ざり過ぎてて理沙の声に聞こえなかった…。重症とは思ってたけど、夢遊病とは中々……。くくっ、ほんと興味深い人だね、理沙)


「──けど、流石に今それをやられると寝れないなぁ…。理沙ー、ちょっと起きてくんない?」


呼び掛けに、理沙は答えない。なおも涙を流しつつピアノを弾き続けている。


「理沙、ねぇ──」


奏は"右手"で理沙の肩を叩く、それが迂闊だった。


「…ぅ、あァ……!」


直後、理沙はぐるりと奏の方へ向き、その右腕を掴んだ。


「みぎ……、──右腕…ッ!」


「え、うそっ──」


押し倒すドサッ…!!


理沙は奏に覆い被さるように倒れた。理沙は眠っているのだ、全身に力が入っていない。だが奏の右腕を掴む左手にだけは、確かな力が巡っている。


「右腕…、右…うで……!」


(ッ…重症の想像をまた越えてきたなぁ……)


理沙は涙を流しながら奏の右腕を握り締める。それを折らんばかりに、強く。


(つッ…! 寝てる人に力加減を要求するのも無理だよね…ッ……)


「うゥ…ううう…ッ!」


「いッ…! ッ、理沙、ちょっ、そろそろ冗談言えないんだけど…ッ! 私は別にどこにも行かないから!」


聞こえているのか、いないのか。しかし奏が声を出したとき、理沙の目からは再び涙が溢れ出す。少しだけ、理沙の力が弱まった気がした。


「──あ? 治まっ…た? 全く焦らせてくれてさ…。ほら理沙、部屋戻りなよ」


奏は立ち上がろうと理沙の手を剥がそうとするが…


強く握るギリィ…ッ!


その瞬間、再び理沙は力を入れた。


「ぅあぐッ!? …まじかよ振り出し? どーすんのこれぇ……」


・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・


朝告げる小さき声チュン…チュン……


鳥の声を聴き、理沙は目を覚ました。この日の理沙は、何処か気持ちの良い朝を感じていた。ずっと見ていた筈の悪夢が、いつの間にか温かな夢に変わっていた故か。


理沙は身を起こして、気持ちよく体を伸ばす。今日は良い一日になりそうだ!


(──ん?)


ふと、左手に重みを感じた。どうやら何かを持っている。理沙はゆっくりとそこへ視線を写す。


持っていたのは、音無奏の右腕だった。


「──んぁ…、おはよ、理沙。…ふあ…ぁふ……」


「ぎゃああアァッ!!?」


「ぅあぁッ!? なにさ朝から大声出して!?」


「何で! てめえが!! ここに居んだよゲロカスァッ!!!」


「相変わらず口が最悪だな…、言っとくけどあんたのせいだからね理沙」


「は? 何言って──」


奏が自身の右腕を差し出す。それをよく見れば、べったりと、手形の痣が付いていた。理沙はそれが自分の物であると分かったし、何故その痣が付いたのかも理解できた。


「──あ゛ー……、…まじ?」


「まじ。大変だったよここまで運ぶの、理沙って私より大きいし? …ま、対価は頂いたんで別に責める気ないけどさー」


「対…価……?」


「対価」


「…何した?」


「言わなくても分かるでしょ。…良かったよ、手触り」


「──…ッ!!」


声なき悲鳴が、理沙から上がる。だが自分の"悪夢"に巻き込んでしまった負い目もあるのだろう、強い拒絶が出る事は無かった。


「──…そういう感想は、言わなくても、いい……。最悪だ…最後の砦がこんな形で……」


「では今後自由に触ってもいいということで…?」


「な訳ねえだろ。…まぁ、気が向いたらね」


「あれ、思ったより前向きな回答じゃん」


「一応巻き込んじゃった負い目があるんだよこっちも。…はぁ、これで隠すものとか無くなっちゃったなぁ。よりによってこんな変態に」


「家に誘ったのはそっちなんだけど…」


「そこをまず後悔してる、迂闊だった」


「あと…そろそろ遅刻するよ」


「迂闊だったッ!! もうちょっと早く言ってよ!」


「ごめんごめん、ここ学校じゃないって思い出してさ」


「…責めるに責められない!」


理沙と奏は急いで準備を済ませると、肩を並べて学校へ向かう。


理沙は、あの悪夢と一生付き合っていくのだと思っていた。それが今日は、消えていた。きっと、奏が傍に居てくれたからだ。いつからか──いや、きっと始めからだったろう、奏と過ごす時間はどこか心地良かったのだ。


(…それもそうだ。奏は、ピアノを失って何もなかった私を生かしてくれた。……私が今も生きているのは、奏が居るからだよ)


ーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーーーーーーー


「──あれが…、もう二か月前?」


「そうだね。隠し事がなくなった日」


「その後の理沙はもう早かったねー、今じゃこうして自由に断面触らせてくれるわけだし?」


奏は理沙の断面を愛おしそうにさすり、その後手帳に何かを記す。


「…まぁ、一回許したら二回も三回も変わんないし」


「どうかと思うよその感覚。…享受してる私が言うのかって感じあるけど」


「ほんとだよ。…でも、奏にそういう良識がなかったら、私はここまで付き合ってないんだろうなぁ……」


「良識あるのにこんなことしてんだから普通に最低ちゃんですけど。あんた結構危機感無いよね? エスカレートしてったらどうすんのさ」


「えぇ…? エスカレートって言われても想像つかないんだけど…」


「──…ここまで来ると世間知らずというか…さてはピアノ以外に興味ないな? あれだよ、例えば…「この際左腕も切り落とそっかー!」みたいなこと言われたらどうすんのって話」


「──切り落としたいの?」


理沙は、平坦な声で聞き返した。


「そういう話をしてるんじゃ──…って、今…乗り気だった!? "例え"だよ、"例え"!」


「いや、だって…どうせ右腕ないし、一本も二本も変わらないよ。…結局ピアノは弾けないんだ」


「またそれか……全く。とにかく、冗談だから。もうちょっと自分の身体大切にしなよ、…本当なら私とも付き合わない方が良いんだし」


「ッ、それは違う!」


目を逸らした奏に、理沙はずいと詰め寄った。


「私は…奏に救われたんだ。奏だから、一緒に居るんだよ」


「……人の気も知らないで。…後悔するよ」


「しないよ、後悔なんて」


「言ったね」


「うん? ──んぐっ!?」


奏は理沙を抱き寄せて、唇を重ねた。


それは一瞬で、けれど、その所為で二人の"何か"が確かに変わった。


「──"一回目"。……えと…答えは明日聞く。……それじゃ」


奏は顔を背けて、逃げるように去っていった。


美術準備室に一人残された理沙は、まだ状況を飲み込めずにいた。全くの不意打ちであり、心の準備などしている筈も無い。


「──エスカレートって…こういうことか……」


だが、それでも、嫌ではなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーーーーーーー


ソファに倒れ込むぼすっ!


帰宅した理沙は、未だ上の空であった。呪いをかけられたかのように奏の姿が頭から離れない、ピアノ以外に心を奪われるなど初めてだった。


(こんな時、どうすれば良いのか分からない……。どうしよう…どうする?)


頭が空っぽだった。人はそんな時、無意識に染み付いた行動をするものだろうか。理沙はピアノに向かう、何一つ躊躇いもなく。


手に馴染んだ曲♪~♪~♪~


左手で、音を鳴らした。


(奏の気持ちは…あの一瞬で全部伝わってきた。迷った末の、覚悟だった。じゃあ…私は? 私は…その覚悟に向き合えるのかな? 確かに、ピアノ以外でこんなに心揺さぶられた事は無い。けど…私の感情は奏の気持ちに釣り合うとは限らない──)


曲が途切れるッ……!


そこまで考えたとき、理沙の手が止まった。


(──待って、私、今……"何してた"?)


理沙はゆっくりと、視線を落とす。そこに在るのは、ピアノに触れる左手だ。


(そんな…だって、今まで…!)


震える左手で、静かに鍵盤を押す。


それは、澄んで響いたポォーン……。─


「──痛く、ない……。弾け……る?」


理沙は、そのまま左手を滑らせる。滑らかな、慣れ親しんだ音が耳に囁いた。その瞬間、涙が、溢れ出した。弾ける、弾けるのだ。右腕の痛みが、消えている!


理沙の"右腕"は、いつもピアノが弾きたいと訴えていた。即ち、片腕を失った事への否定に他ならない。「自分には右腕がある」と、己自身を騙し続けていた故の痛みだったのだ。だが、それが消えた。意味することは、腕を失った自分の肯定である。原因ならば、ただ一つ。


(──考えるまでもない、答えは決まった)


理沙は、暗い月夜の下に、駆け出した。


ーーーーーーーーーーーーーーー


強く開けるバンッ!!


「うわあァッ!? な、なにこんな時間に──って、理沙!?」


夜の学校、理沙は奏の前に姿を現した。そしてゆっくりと地を踏みしめ、近付いていく。


「あのー、理沙さん? せめて何か言って──わっ!?」


そして覆いかぶさるように、奏を抱きしめた。


「──明日なんて、待ってられなかった」


理沙は、奏と出会い、そして今に至るまでを思い出しながら、言葉を紡ぐ。



「私、奏の事が好き」



それは、心からの言葉だった。


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ーーーーーーーーーーーーーーー


ーーーーーーーーーー


ーーーーー


・・・・・


「──…ようやく見つけましたよ、音無奏。いえ、お姉さま?」


少女が、立ち塞がった。奏によく似ているが、ずっと幼い。


「一年間、よく逃げ続けられたものです。ですが、お姉さまも音無の人間…、名の重みはよく分かっている筈。そのような逃避、無意味と知りなさい」


…返事は無かった。


「…? 聞いているのですか、音無奏! …今ならお母さまも許してくださるでしょう、だからまた、私と──」


「──あのさ、


「……は? …た、戯れが過ぎますわ、お姉さま。だって貴女は、私の──」


「私の名前は"海田 奏かいだ かなで"だよ。そんな家、関係ない」


奏の左手には、誓いの指輪が輝いていた。



(救われたのは、理沙だけじゃないんだよ)


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義手のピアノ弾きと、変態絵描き 九頭虫さん @kuzu_musisan

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