第6話 あの人は?

 二人が山門を出てすぐ、富貴恵ふきえはお父さんにきいた。

 「いまのは?」

 別に富貴恵が気にするようなことではないけど、女の人のあの態度にはやっぱりわけがありそうだと思ったからだ。

 「松沢まつざわ染料せんりょうの社長の息子、まあ、わか旦那だんなだな」

 お父さんはたんたんと答えた。

 「いまは蒲沢かんざわまつケミカルズというのかな。ここからうめ大沢おおさわのほうに下りるところに、使わなくなった大きいプラントがあるけど、それがもともとこの会社の持ち物」

 「ああ」

 それはたぶん工場の一部分だったのだろう。ここから海岸沿いの梅大沢に行くには、いちど坂を下りてまた上らなければならないのだけど、その坂を下りたところに「廃工場」らしい建物がいくつかかたまっている。

 ビルならば五階建てかもっと高いぐらいの高さのタワーがあり、その上のほうにベルトコンベアで何かを送り込むようになっていたらしい。それ以外にも、何かを蓄えておくためのタンクのようなものや、事務所か何かだったらしい古い建物も残っている。

 その全部が赤さびに覆われて、いまにも倒れそうになっている。事務所の建物も、木の部分はぼろぼろになり、全体に蔓草に覆われていた。

 そんな倒れそうな会社なのだろうか?

 お父さんが言う。

 「父さんにはよくわからないけど、漂白剤か何かの技術で世界トップレベルの技術を持ってるってことだ」

 だったら。

 そんな会社がどうしていまにも崩れそうな工場の設備をそのままにしているのだろう?

 「で」

と、富貴恵は話を別のほうにもって行く。

 「そこのだれかが死んだの?」

 「ああ」

 お父さんは富貴恵のほうを振り向いた。

 「あの人のお父さんに当たる、その松沢染料、いや、蒲沢松の社長さんが、な」

 言って、唇を結んで、富貴恵から目を離して顔を上げる。

 「ほんとうに化学にしか興味のない人で、この物質はこの色、この物質はこの色が出せるけど、その二つを混ぜ合わせたらぜんぜん別の色が出る、おもしろい、なんて、科学はまったくのしろうとの父さんに熱心に話してくれるような人だった」

 富貴恵は黙ってうなずいた。

 お父さんが続ける。

 「そんなのだから、会社の経営なんかにはぜんぜん関心がなくって、いちど、ほかの会社に会社を乗っ取られたんだけど、奥さんがすごくパワフルな人で、いろんな手練てれん手管てくだを使ってその会社を取り戻したんだ。それだけじゃなくて、漂白剤でトップレベルだった会社を吸収合併して、その業界のトップに押し上げた」

 お父さんはことばを切って、ゆっくりと息を吐いた。

 「その奥さんって人が、町会の花祭りにおカネを出さないって決めた、ってことだよ。まあ、しかたないだろうな」

 ところが、富貴恵にはその「町会の花祭り」がわからない。

 「花祭りだったら、今年もちゃんとやってるじゃない?」

 この「天上てんじょう天下てんげ」の像に甘茶をかけるのが「花祭り」なのなら、現にいまここでやっている。

 「いや」

 お父さんは苦笑いをして、富貴恵を振り向いた。

 「去年まで、お花祭りの日にはこの表の通りに屋台が出て、そこそこにぎわってただろう?」

 「あぁあ……」

 富貴恵はあいまいに返事する。

 お接待をしていない年は学校に行っていたし、お接待を担当した年にはずっとここにいたから、表の通りがどうなっているかなんてあまり気に留めなかった。

 だから、「そういえばそうだったかも」ぐらいしか、富貴恵にはわからない。

 富貴恵の返事が気の抜けたようなものだったからか、お父さんはまた曇り空を見上げて、続けた。

 「あれは、あの松沢染料の社長さんが、この町内ももう少し賑わいがあったほうがいい、って、自分もスポンサーになって、蒲沢とかいずみはらとかの会社や店からも出資をつのってやってくれてたんだが、その社長さんが亡くなったことで、続かなくなって」

 「ふうん」

 自分にはあんまり関係のない話だ、と思った。

 それよりも気になるのは……。

 「それで、その、若社長の人といっしょに来た女の人は?」

 若社長ではなかったかな?

 女の人は、もしかして、そのおカネを出さないと言い出した社長夫人の一族なのだろうか?

 それにしては、態度がおどおどしすぎていたような……。

 お父さんは、男の人が若社長かどうかには触れないで

「あの子は、知らないな」

と答えた。

 そうか。

 お父さんから言うと、あの女の人は若いから「あの子」になるのか。

 「たぶん、ここに来たのは初めてだと思うけど」

 そして、お父さんはいたずらそうに笑って見せる。

 「まあ、きれいな子だったな」

 いたずらそうなのは、お母さんの前では言えないことだけど、ということだろう。

 どちらにしても、あの女の人が何者なのかはわからない、ということだ。

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