第5話 松沢さんと女の人
生まれたときから一番でなくてもいいから、柔道もまあまあ強いほう、ソフトボールのチームでもそこそこ活躍できる、というあたりで生きて行きたい。
マーチングバンド部では、と思うと、富貴恵はため息が出そうになる。
でも、そのとき、山門を入って来た男女二人連れがいた。
その二人のほうに顔を上げたので、ため息はそこで止まり、考えが「生まれたときから一番」のことから離れる。
ここは大きなお寺ではないから、山門から、いまお父さんと富貴恵が座っている本堂の縁側まではすぐ近くだ。
男の人は黒に近いグレーのスーツを着ていた。丸顔で、髪はつやつやしていて、男の人にしては背が低い。人がよさそうに笑っていた。歳はよくわからないけど、そろそろ「若い」とは言えなくなってくる年ごろかな、と富貴恵は思う。
女の人のほうは、背の高さは男の人と同じくらい、もしかするとちょっと高いぐらいだ。髪の色がちょっと薄くて茶色っぽい。鼻は小さいし、鼻が高くもないけど、鼻筋が通って見える。色は白くて、まちがいなく美人だ。
薄いグレーの、幅の広い襟の春物コートを着ている。でも、胸のところは開いているので、その胸元に金のネックレスをつけているのが見えた。
男の人から半歩ぐらい遅れて、男の人の陰に隠れるように山門を入ってくる。
どういう関係だろう?
親子ならば歳が近すぎる。夫婦ならば歳が離れすぎ。だからとって、兄と妹というほど打ち解けている感じでもない。
それに……?
その女の人の姿が、富貴恵の記憶のなかの何かに触れた気がしたが。
その前に、
「あ、
と声をかけた。
「はい」
その松沢さんという男の人はお父さんの前できちっと足を揃えて止まり、お父さんに頭を下げた。
姿勢がいい。
「今年は街のお花祭りには、その、
「ああ、いえ」
と、お父さんは優しくことばを返す。
「お父様、まだお若かったのに、残念なことでした。松沢さんもたいへんだったのでは」
「ああ。お気づかいありがとうございます」
「若かったのに残念」ということは、この松沢さんという男の人のお父さんは、亡くなったのだろう。
それが、と思ったときに、はっ、と息をのむ小さい声が富貴恵の耳に届いた。
それは男の人の声ではなく、ついて来た若い女の人の声らしい。
富貴恵が顔を上げるのに合わせるように、女の人は、一歩、後ろに下がった。
男の人の後ろに隠れて、どんな表情をしているのか、富貴恵のところからは見えない。
富貴恵から姿を隠した?
でも、松沢さんという人は富貴恵とは初対面だ。だから、この女の人に、富貴恵から隠れる理由なんかないはずだ。
「それより」
と、その松沢さんが言う。
「今年も街のお花祭りにおカネを出すように母には言ったのですが、そんなことに使うおカネは一銭もない、の一点張りでして」
「いいえ」
お父さんは穏やかな表情と言いかたを変えない。
「むしろ、お父様が、長年、街を盛り上げるためにいろいろ動いてくださったことには、感謝しても感謝しきれない思いです。もちろん、会社の方針については、それぞれの
「ああ、いえ」
と男の人はかしこまって、もういちど、お父さんに頭を下げた。
お父さんも軽く頭を下げて、二人のあいさつは終わったらしい。
男の人は
「さあ、
と声をかけた。
いっしょにいる、グレーの春物コートの女の人のことだろう。
男の人がまずその「誕生仏」に甘茶をかけて拝む。
女の人が、それに続いて同じようにする。
女の人の動きは硬い。
最後までびくびくしているみたいだった。
「誕生仏」を拝んでから山門を出るまで、その女の人は一度もお父さんと富貴恵のほうを振り返らなかった。
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