第29話 景子の決意と看板

 長い坂を下りて駅へ向かう。

 その決意の記憶も薄くなると、またあの上部かんべ先生の態度の落差の不可解さが浮き上がってきた。

 辞めさせる、とまで言った相手に、「わからないことがあったら、なんでもきいてちょうだい」って、何?

 「わからないと言えば先生のその態度がいちばんわからないんですけど、それはなんですか?」ときけば、どうなっただろう?

 ただいつもテンションが高いだけの気分屋? それとももっと深い何かがあるのだろうか?

 ここは、深く考えずに、河原崎かわらざき先生に言われた、上部先生に情報を渡すとマーチングバンド部のOGに漏れる、ということをまずきちんと覚えておこう。

 しかし、後輩の個人情報をほしがるOGもしようがないな、と思ったところで、景子けいこは、あっ、と小さく声を立てた。

 気づいた。

 その、瑞城フライングバーズというらしいマーチングバンド部は「瑞城非行少女収容所」と呼ばれていた。それはバブル前だったという。

 バブルというのがいつか、景子はわからないけれど。

 「生まれる前」。それしかわからない。

 でも、そのバブルのさらに前、たぶん、そのとき、明珠女生をいためつけて喜んでいた「非行少女」というのが、上部先生と仲がいいという卒業生、OGなのだ。

 過去に景子の先輩たちをいためつけた卒業生たちが、いまは景子の勤め先の生徒たち、つまり後輩たちをいためつけて楽しもうとしている。

 戦わなければ、と景子は決意する。

 あの明るい生徒たちを守るためにも。

 そう思って、ふと何か頭の上に張り出しているものの下を通った。

 振り返って見る。

 べつに危ないものではなかった。店の看板だ。

 「子持こもけい」というのか、太い線と細い線の二重線で円を囲ったかたちで、まんなかに「秋」という字が書いてある。った字体ではなく、明朝みんちょう体というのだろう、印刷とかに普通に使う字体だ。

 その看板の出ている店は、細い棒を縦に並べた窓がついている。

 間口の狭い店だ。

 木造っぽい木の扉には「5時開店。しばらくお待ちください 秋麺あきめん」と書いた木の札が出ている。

 あ、と気づいた。

 そうだ。

 ここが、あの毛受めんじょ愛沙あいさの言っていた店だ。

 何だったかな?

 ここの生姜しょうが醤油しょうゆラーメンがおいしいと言っていた。

 ここで食べて帰るつもりはなかったけど、べつに箕部みのべに帰っても晩ご飯の食べるところのあてがあるわけではない。家の近くにどんな店があるのかもまだ知らない。

 だったら、この店で食べて帰ってもいいのでは?

 せっかく毛受愛沙が勧めてくれたのだから。

 店はまだ開いていない。

 景子は思いついた。

 ここの線路の反対側に明珠めいしゅ女学館じょがっかんがあるという。

 今日の昼までは、そんな学校に何の思い入れもなかった。

 そこは景子の卒業した専門学校の「本校」だ。でも、だからといって、何か思い入れを持たなければいけない理由があるとは思っていなかった。そんなに大きくないビル一つに生徒を詰め込んだだけの専門学校だ。

 しかも、そこの学生たちにはろくでもない慣習があった。

 ここの線路の向こうの明珠の「本校」を卒業して来て、外国の大学に行くまでの四か月ぐらいだけ在籍していた子が、そんな習慣があることに驚いていたから、本校にはそんなものはないのだろう。

 その慣習とは、学年の最初に「美人投票」をやって、「美人」に選ばれるとその学年の学生たちを思いどおりに動かしてよいというものだ。景子自身は「第三位美人」という地位を手に入れて、第一位と第二位が困ったときや、逆に「美人」以外が第一位や第二位のことで困ったときに相談に乗ってあげていた。二年めも第三位だったから、無難でおいしい役目で二年間を終わったのだけど。

 なにを子どもっぽいことをやってるんだ、と思って、二年間を過ごした。

 反感は感じても、ぜんぜん「自分の学校」という思い入れは持てなかった。

 それがひっくり返った。

 その「非行少女収容所」の卒業生たちとあの上部先生のおかげだ。

 明珠女学館は自分の卒業した学校だ。

 いまの明珠女学館の生徒を同じ目にわせてはいけない。

 瑞城の生徒たちも、おとなしくて成績のいい他の学校の生徒をいじめて喜ぶような子に育ててはいけない。

 その思いを繰り返す。

 そうだ。

 あの、体が小さくて、髪の毛が巻いていて、白いカーディガンの似合う毛受愛沙も含めて。

 そして、いまの秋麺という店を教えてくれた毛受愛沙。

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