第26話 一日の仕事が終わる

 午後四時半になったところで、河原崎かわらざき先生が景子けいこの机に来た。

 また何か注意だろうか、と思っていると、

「四時半になったから帰っていいから」

ととても簡潔に言う。

 景子が

「五時じゃないんですか?」

ときくと、

「始まりが八時半で三十分早いからね。九時‐五時くじごじの会社とおんなじ条件にしようとすると、終わりは四時半になるの」

と先生は言った。

 「でも、先生も生徒もまだいますよね?」

 「先生は労働契約が事務職員とは別だし、職員でもそのうち順繰じゅんぐりで下校時間後まで居残りするローテーションに組み込まれると思うから、帰れる日には帰りなさい」

と言われ、帰るときのやり方も教えてもらった。

 鉄道やバスに乗るときにタッチするような機械に職員証をタッチすると仕事を終わったことになる。もし、タッチだけしてそのあと残っていると「サービス残業」とみなされてややこしいことになるから、さっさと帰ったほうがいい、と教えられた。

 なんか、それもこわいな。

 社会人というのはほんとうにこわい世界だ。

 そう思っていると、先生は耳もとでひそひそ声で

「ね? ここまでがちがちにシステムができてるんだから、理事一人が騒いだぐらいじゃ労働者の解雇なんかできないから」

と言う。さっき、上部かんべ先生が、自分の夫は理事だと自慢して「こんな事務職員はイッパツで失職でしょうね!」と言ったことについての解説らしい。

 いや、そういう影響力の誇示こそハラスメントじゃないのか、と思うけど。

 「はい」

と景子はあいまいに返事する。それにはかまわず、河原崎先生は

「声出してあいさつとかしなくていいから、出るときに黙ってちょっとだけお辞儀して出て行けばいいから」

と、ここの仕事終わりの流儀も教えてくれた。

 それで、言われたとおりにしようとすると、職員室の出口を通ろうとするところで

「ちょっと、あなた」

と景子は小声で声をかけられた。

 景子が第二小会議室から戻ってきたときに泣いていた先生だ。

 泣いていたのではなく、花粉のせいかもしれないけれど、涙は流していた。

 名まえは昌子しょうじ先生と言ったかな。いまは泣いていない。

 「はい」

と、仕事終わりの記録をつけるのを中断して、景子は答えた。

 呼びかけはしたものの、昌子先生は何も言わない。

 それで、軽く頭を下げて職員証をタッチしようとすると、またその昌子先生が

「ちょっと」

と言う。さっきより声が小さい。

 目が合うと、昌子先生はうなずいて見せた。

 もっと近寄りなさい、ということらしい。

 あまりいい感じはしなかったけど、景子はその合図どおりに昌子先生に近づく。

 自分が座っているすぐ横まで来た景子を見上げて、ようやく昌子先生は言った。

 さっきよりもさらに小声で。

 「あの、上部先生には逆らわないほうがいいわよ。そうじゃないと目をつけられて、ずっとおんなじように攻撃されるから」

 この先生も震えている。

 顔は楕円形で平べったい。まるで生気のない顔立ちだ。でも、上部先生とは逆で、見た印象よりも若いんじゃないかと景子は感じた。

 「はい……」

 答えることは答えたけれど。

 あそこまで派手にやったのだから、もう目はつけられているのではないだろうか?

 昌子先生はその景子の答えに不満だったらしい。まだ何か言いたそうに景子を見ている。

 「金沢かなざわさん」

 不意に声をかけられて、景子は体を起こした。

 昌子先生の小さい声を聴き取るために猫背になっていたんだな、と気づく。

 声をかけたのは若い志藤しとう先生だった。

 志藤先生は、アイコンタクトをして軽く首を振り、わざとらしく言う。

 「金沢さん、お仕事お疲れ様でした」

 つまり、昌子先生の相手はするな、ということだろう。

 「ありがとうございます。お先に失礼します」

と景子は志藤先生に言い、その体の動きのまま仕事終わりのタッチをした。

 河原崎先生に言われたとおり、軽く職員室内にお辞儀をして見せ、外に出る。

 昌子先生がどんな顔で景子を見送っていたか、景子は見ていない。

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