明かされる欲望

 図書室に一旦戻った後、紅葉はすぐに第一校舎の屋上へと向かった。

 その時持っていたのは、大量の本。

 本を並べて、SOSの文字を書こうとしたのだ。チョークや体育で使う白線の粉(ラインパウダーという。より正確に言うなら石灰だ)の方が作業は楽だろうが、それらは風や雨で流される恐れがある。空を見る限り、当分は晴れていると思われるが……スマホが使えないためこの後の天気は分からない。期間こそ示されたが、『何時』助けが来るか分からない以上、多少大変でもより安定した方法が好ましいと紅葉は考えた。


「ふぅ……あー、しんどい」


 無論、自分の体力のなさはある程度勘案した上で。まだ三往復ぐらいしかしていないが、既に紅葉はへとへとだ。

 海未や菜之花がいればもう少し楽に作業を進められただろうが……今、屋上には紅葉一人しかいない。紅葉が二人は図書室で待機するよう、指示を出しておいたからだ。精々、持っていきやすいよう廊下に本を積んでおいてくれと頼んだ程度である。

 未だSOSの一文字目も出来ていないが、これ以上動くのは紅葉的に辛い。

 スマホ温存のため時計で時刻の確認は出来ないが、太陽を見れば大凡の時間は分かる。未だ朝と呼べる時刻であり、自衛隊が救援活動を始める正午まで余裕がある筈だ。一休み(をこの後何回か)しても問題はないだろう。


「ふぅ……」


 屋上の床に腰を下ろし、深く息を吐く紅葉。

 ……今日は快晴。朝という時間帯に加え、秋という季節柄空気は少しばかり冷たいが、差し込む日差しが程よく身体を温めてくれる。

 ポカポカという擬音がこれ以上ないほど似合う気候は、紅葉の心身を優しく包み込んだ。緊張が解れていき、頭の中が暖色に染まっていく。

 最近は色々あった。

 いや、まだ一月も経っていないであろうゾンビ発生も最近の事であるが……特にこの二〜三日は忙しい。ゾンビの倒し方を見付け、海未以外の生存者と遭遇し、生存者グループとも交流を持った。

 ストレス、というと不快なものを想像しがちだが、正確には心身に刺激を与える外部刺激の事である。事の善悪や、当事者の感じ方はあまり関係ない。だから結婚や就職、出産もストレスを与えるものだ。そういう意味では、紅葉がこの数日間で経験したストレスは相当なものだろう。

 自分が一番しんどい、なんて驕った事を言うつもりはない。されどしんどいものはしんどい。秋の陽気は紅葉を落ち着かせ、意識を微睡ませる……


「おーい、誰かいるかー?」


 その意識が夢に落ちる前に戻れたのは、扉を勢いよく開く音と、呼び掛けの声のお陰だった。

 驚いた紅葉は身体が前につんのめり、両腕をバタバタ振り回しても立て直せず……転倒。無様な姿勢から起き上がりつつ、校内へと続く扉の方を見遣る。

 そこにいたのは、夜空だった。


「あ、紅葉さん。手伝いに来たよ」


「……それはどうも。手伝ってくれるという事は、考えが変わったのかい?」


「そうだね。待っていても、状況は悪化するばかり。なら賭けをすべきと思ったんだ」


 爽やかに笑いながら、理由を語る。そうか、と一言返した後、紅葉は夜空に背を向けた。


「なら早速手伝ってもらおう。そこに積んである本があるだろう? これを使ってSOSの文字を書く。君は本を並べてくれ」


「並べる側? いや、一応これでも男だし、力仕事の方をするよ。本だから、図書室に向かえば良いかな?」


「ああ。そうだが……それは私がやる。正直なところ、体力のなさよりも芸術性のなさの方が致命的でね。SOSを書こうとして、ミミズがのたうった様子を描くだけになりそうなんだ。読めない文字では自衛隊に無視されかねないだろう?」


「……ははっ。うん、成程ね。まぁ、そういう事なら任せようかな。悪いね、力仕事させちゃって」


「お構いなく。手伝いがいるだけで有り難い事だからね……ま、今は少し休憩中だ。まだ救助が来るまで時間はあるし、君もすぐにやらずとも、一休みしてからでいいよ」


 紅葉はそう言うと、夜空に背を向ける。足を伸ばし、背筋を伸ばし、身体を解してからリラックス。

 ――――夜空はそんな紅葉の背中を、じっと見ていた。


「……そうだね。じゃあ、俺も少し休もうかな」


 そう言いながら、夜空が向かったのは

 足音を消すように、静かに歩く。ゆっくりと、慎重に手を伸ばす。その先にあるのは……紅葉の細首。

 紅葉の首は決して太いものではない。高校男児の手なら、簡単に掴む事が出来るだろう。そんな手が極めて遅い、物音を立てない速さで近付いてきている。

 音も、前兆もない。ただの少女では気付く事も出来ない、不気味な歩みと迫り。

 だが、紅葉は違う。


「何をしている?」


 自分に迫る『気配』。それを察知してしまう悪癖を持つ紅葉には、夜空の動きは全て出来ていた。

 跳ねるような動きで、夜空は伸ばしていた手を引っ込めた。紅葉は振り返り、じっと夜空を見つめる。当の夜空は目線を紅葉から逸しながら、詰めていた距離を離すように後退りしていく。

 それから愛想笑いを浮かべてくる。

 生憎、それでほだされるほど紅葉は単純ではない。じっと睨むような眼差しを送り続けた。しかし夜空は笑みを浮かべようとし続ける。尤も、段々と困惑の色を強めていったが。


「あ、いや、えーっと……ご、ごめん。髪が綺麗だなーって思って。気持ち悪かったね」


「ああ、気持ち悪いし、見る目もないな。長い間シャワーも浴びていないんだ。油と埃でギトギトの髪だぞ。そーいう空気を読まない事を女にそれを言ったら、割と本気で嫌われる」


「あははは……手厳しい」


 苦笑いを続ける夜空。だが、紅葉の視線は外れない。そのまま夜空の目を見続ける。

 あまりにも長く見続けるものだから、今度は夜空の方から尋ねてきた。


「? えっと、紅葉さん? さっきから、なんで俺の事を見ているの? ああ、いや、髪を触ろうとしたのは悪かったよ。ほんと、もうしない。気持ち悪いと思ったなら近付かないし。ね?」


 戸惑いながら釈明する夜空。そんな彼に向かって、紅葉はきっぱりと告げた。


「そっちの本性は大体分かってる――――うちで保護した子に、乱暴したのはアンタだろう?」


 ハッキリと、『暴漢』呼ばわりするための言葉を。

 最初夜空は、目を逸らした。口をまごつかせ、何かを話そうとしてくる。


「い、いや、その……なんの話かな?」


「誤魔化さなくて良い。いや、誤魔化せると思っているのか? こっちは菜之花から直に聞いたんだ……昨夜、彼女が少しばかり調子を取り戻してね。答え合わせは済んでいる」


 恍ける夜空に対し、紅葉は自信満々に告げた。

 途端、夜空の表情が

 今まで本当に戸惑った様子だったのに、その気配が一瞬で消え去る。次いで深々と項垂れながら、あからさまに大きなため息を吐く。

 顔を上げた時、先程までのおどおどした雰囲気はもう何処にも残っていなかった。


「……全く、そういう種明かしは、もう少し早くしてほしいな」


「都合を合わせてもらえる立場だと思っているのか?」


「当然」


 紅葉からの反論を、ふてぶてしいまでの態度で肯定する。

 こうも堂々としていると、逆に感心してしまう。紅葉が言葉を失っていると、夜空は笑いながら話し掛けてきた。


「ま、バレちまったもんは仕方ない。お前にこれ以上好き勝手されると俺としては困るからな……ただ、俺は寛大なんだ。余計な事をしないで大人しく引きこもるって言うなら、見逃してやる」


「つまり、助けを呼んだら見逃さない、と。自衛隊が来ると困る訳か? 何を企んでいるのか、教えてもらえるか? 本当に寛大なら、それぐらい教えてくれても良いだろう?」


 紅葉が尋ねてみれば、夜空は髪を掻き上げながら不敵に笑う。

 そして彼は堂々と、臆面もなく答えた。


「この破滅した世界で、俺が新しい支配者になるんだ」


 紅葉の顔が歪むほどに身勝手で、突拍子もない目的を……

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