閉じこもる男
第二校舎には、普段の授業では使わない様々な部屋がある。
例えば調理室。料理研究部という部活はほぼ毎日使っている(料理をしているとは限らない)ようだが、普通の生徒は調理実習の時以外は無縁な場所だ。
例えば視聴覚室。なんらかの教材ビデオを見る時に使われる部屋だ。大抵薬ダメ絶対的なものを見る時に使う。
例えば放送室。昼休み中に流れる音楽や誰かの呼び出しは、この放送室で行われる。放送委員会、的なところが何かやっている……らしい。紅葉はとことん縁がなく、誰がどうやっているのかさっぱり知らない。
そして件の理科実験室。
「ふーむ。確かに、気配はあるな」
実験室の前に立ちながら、紅葉はぽつりと独りごちる。
『悪癖』のお陰で中に誰かがいるのは、扉をノックする前に分かった。数も、恐らくは一人だろう。夜空が言っていた通り、生存者は此処にいると確信した。
「(ゾンビの数がそこまで多くなかったのは幸運だったな)」
除草剤はゾンビ退治に役立つが、即効性がない。追い詰められたら普通になんの役にも立たない代物である。
第二校舎内の中は比較的ゾンビが疎らで、階段を使えば簡単に回避出来る状態だった。もしそうでなかったら紅葉は撤退を選んだだろう。
「(三原の奴はゾンビが多かったとか言っていたが、何かに反応して移動したのだろうか……しかし多いのに中を探索するとは随分無茶をしたな。あれでも男という事か)」
夜空が話していた生存者における男女比率の差の理由。何も実践しなくてもいいのに、と紅葉は呆れる。
等と過去の空想をしている場合ではない。実験室は廊下の奥にあり、袋小路だ。もしもゾンビがやってきたら、かなり危険な状況に追い込まれかねない。
「……さて」
コンコン、と実験室の扉を叩いてみる。
「もしもし。生存者はいるか? 私も生存者だ。今はこの学校で避難生活をしている……出たくないなら無理強いはしないが、十秒待ってアクションがないなら」
帰るぞ、と言おうとする紅葉だったが、その警告は必要なかった。
ガタンッ、という音が鳴ったのだ。そして足音と気配が扉の方に近付いてくる。
カチャリと内鍵を開ける音が聞こえると、扉はほんの少しだけ開かれた。その奥にある、薄気味悪い瞳が外を見るためのスペースを確保するために。
「……健康な人間だと証明してみろ」
実験室の奥にいた人物は、低く掠れた男の声でそう尋ねてくる。
「中々難しいな。噛み跡を探すなら裸になるのが一番だろうが、私とて一応年頃の娘なものでね。流石に勘弁願いたい」
「……………」
「信用出来ないか? なら無理に開けてくれなくて良いよ。顔合わせしただけでも良しとしておこう」
簡単には入れてくれそうにないと思い、今日は帰る旨を伝える。
すると、実験室の扉が開いた。
キョトンとした紅葉の前に、実験室内にいた男が外に出てくる。
身長はざっと百八十センチはあるだろうか。かなりの長身だが、四肢が細い……というよりひょろ長い。この学校の制服の上に白衣を着ており、如何にも理系男子といった様子だ。
髪はボサボサとした長髪だが、カッコ付けているのではなく単に手入れをサボっているのだろう。目許にはくっきりとクマが出来ていた。尤も、そのクマよりも目許にこびり付いた目ヤニの方が人目を引くだろうが。唇もカサカサで白く汚れ、肌も荒れ気味である。
ライフラインが止まっている今、身形が汚いのは仕方ない。紅葉だってもう長い事シャワーも浴びていないのだから、頭を掻けばフケが飛ぶだろう。しかし目ヤニだの口許の汚れだのは、布で拭けば済む話。
どうにも普段から不衛生な生き方をしていそうな男だ。端正な細面や鋭い眼差しなど、一般的にはモテるであろう容姿なのだが……不潔さが全てを台なしにしている。
「(うーん。私的にも好ましくは感じないな)」
『清潔感』はどうでも良いと考える紅葉とて、実際の清潔は多少なりと気にする。フケがあるのは自分も同じだとは思うが、目口ぐらいはどうにかしろとは感じた。
「……中に入れ。奴等は臭いに反応する。室内なら少しはマシだろう」
されど嫌悪は、彼のこの一言で優先順位を下げた。
「では、そうさせてもらおう」
紅葉は扉を潜り、実験室の中に入る。
紅葉が室内に入るや、男はすぐに扉の鍵を閉めた。出入り口を塞がれた形だが、紅葉は特段気にしない。
それよりも実験室内の様子に関心を抱く。
机の上には様々な実験器具が置かれていた。中に液体が入っており、もくもくと煙の出ているものもある。薬品の独特な臭気が鼻に付く。今正に実験の真っ最中だったのだろうか。理系女子である紅葉としてはちょっとばかりワクワクする光景だ。
何より興味深いのは。
「……ゾンビの腕とは、何処から持ってきたんだ?」
机の上に置かれた一本の腕だ。それも腕だけになりながら、指をゆっくり動かしているような。
腕は手の甲部分に打ち込まれた五寸釘で机に固定されており、動きの鈍さもあって『脱走』の心配はないだろう。その釘が外れた時の備えか、腕の断面部分には大きな石が乗せられていた。
紅葉の問いに、男は振り向きもせずに答える。
「友人が持ってきた。尤も、その時にそいつは噛まれてしまったが」
「……それはご愁傷様だな。今は何処に?」
「さてな。何も言わずに出ていった……自己紹介をしよう。
「秋川紅葉だ。よろしく」
紅葉が握手を求めて手を伸ばす。しかし雪男はそれを気にも留めず、話を始めた。
「要件はなんだ? どうして此処に俺がいると分かった。俺が聞きたいのはこの二つだけだ」
「要件は特にない。生存者の位置を知りたかった程度だよ。君の事は体育館にいる生存者から聞いた。一週間前に君と出会ったらしいが」
「……アイツか。無駄に五月蝿そうだから追い返したが」
「君の事を協調性がないと言っていたよ。まぁ、その通りだと思うが」
紅葉が正直な意見を述べてみれば、雪男は微かに唇を揺れ動かす。
しかし見せた反応はそれだけ。自覚はあるようで、特段反論などはしてこない。表情も変わらない。他人にどう思われても、あまり気にしない性格なのだろう。
「話はそれだけか。なら帰れ。お前が何時ゾンビ化するか分からないならな」
「私としてはもう少しある。今まで食べ物はどうやって確保していたんだ?」
「……実験室は科学部の部室だ。担任も殆ど来ないから、私物が準備室に大量に置かれている。飴や菓子類は特に多い」
「成程。水は何処かに汲んで保管して、生き延びてきた訳か」
「とはいえそろそろ備蓄が底を突く。それまでに自衛隊や警察が救助に来れば良いが……」
雪男はそう言うと紅葉の方をちらりと見る。
ただしほんの一瞬だけだ。小さなため息を吐くと、背筋を伸ばし、顔を左右に振った。今の言葉は戯言だと言わんばかりに。
「そういう訳だから、分けられる食糧も水もない。期待していたなら無駄足だったな」
「そっちは期待してないから大丈夫。最後に一つ聞かせてほしいのだが」
「なんだ?」
「君は外には出ないのかね?」
紅葉の問いに、雪男は眉を顰めた。どう答えようか考えるように、しばし黙りこくり……やがて答える。
「出る必要性を感じない。備蓄が底を突きそうだと言ったが、俺一人が生きていく分にはまだ余裕はある。見た目通り、基礎代謝は低いしな」
「つまり必要に迫られたら出る、と。分かった」
「要件は済んだか。ならさっさと帰れ。言っておくが、俺はお前が噛まれていないとは信じていない」
悪態を吐き、じっと観察するように雪男は紅葉を見つめてくる。
どうやら紅葉が出ていくまで、監視するつもりらしい。この状況で少しでも何かに触れば、彼はきっと二度とこの部屋に紅葉を入れないだろう。
随分な警戒ぶりだと、思わず紅葉は独り言を発しようと口許がぴくりと動きそうになる。それを誤魔化すために口を擦ってから、大人しく部屋から出ていく。
部屋から出る瞬間まで、雪男の視線はずっと紅葉を向いていた。紅葉は顔だけを廊下に出し、見渡して安全を確かめてから出た――――直後、扉が勢いよく閉まる。次いでガチャンと鍵を閉める音が聞こえた。
素早い施錠だ。可能な限り紅葉を部屋に留めておきたくなかったという意思を、ひしひしと感じる。
「……成程。想定通りではあるが」
ぽつりと、紅葉は独りごちた。
そのまま思考に没頭、したくなるものの堪える。傍に海未がいる、或いはゾンビを粗方退治した第一校舎ならばまだしも、ここはゾンビが歩き回る第二校舎だ。棒立ちすれば何時喰われてもおかしくない。
それに日も高くなってきた。光合成でエネルギーを作り出していると思われる、ゾンビ達の活動も本格化してくる。動きが素早くなれば、その分危険は増すと言えよう。
何より、そろそろ図書室を出てから一時間以上経つ筈だ。二時間経つ前に帰らなければ……
「ただでさえ五月蝿い海未だけでなく、今度から菜之花にもどやされるな」
筆談でガミガミと、説教される絵面が脳裏に浮かぶ。
ゾンビの次ぐらいに恐ろしい光景を想像し、笑みを浮かべながら紅葉は帰路に着くのだった。
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