不穏な気配
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
紅葉が話し掛けると、床に座り込んだ少女はこくんと頷く。少女は両手で掴んだ甘いジュースのペットボトルを口に運び、一口飲む度にほっと息を吐いた。
教室で少女を保護した紅葉達は今、図書室に戻ってきている。
ゾンビ退治作戦も、結果的には大成功だった。少女がいた教室の前に集まっていたゾンビは、恐らく二階や一階にいた個体。少女を助ける過程でそれらを一掃した事で、校内の安全を確保出来たのは大きな進展と言える。
何より新たな生存者と出会えた事が、紅葉には嬉しい。
「良かった良かった……ほら、ポテチもあるよ」
勿論少女に食べ物を渡そうとしている海未にとっても同じだろう。
「(幸い、怪我もしていないようだしな)」
図書室に戻ってすぐ、海未と一緒に紅葉は少女の身体を調べ、噛み跡などがない事を確かめている。見落としが絶対にないとは言わないが、恐らくゾンビ化する心配はない。
これなら一緒に暮らすのは問題ない。また少し図書室が賑やかになる事を、騒がしいのが好きではない紅葉でも少し嬉しく思った。
心理的な面だけでなく、合理的な面でも少女の仲間入りは大きなメリットがある。
「(留守番要員がいるのは助かるな)」
今まで食料調達などで外に出る時、紅葉と海未は一緒に行動していた。そのため外出時、図書室は何時も誰もいない状態になっている。
図書室の鍵があれば外出時に施錠も出来たが、生憎それは持っていない。内鍵は掛けられても外鍵は掛けられず、扉は自由に開閉出来る状態になっていた。ゾンビの知能では扉を開けられないと思うが、がつんと体当りした拍子に開いてしまう可能性は否定出来ない。安心して帰ったら図書室の隅にゾンビがいて足をガブリ……あり得ない話ではない。また、『強盗』的な生存者が中に入り込む心配もある。
留守番要員がいればそれを防げる。内鍵を掛けてもらい、帰ってきたら開けてもらう事で戸締まりを万全に出来るのだ。仮に(何かに追われて逃げている状況を想定し)鍵を開けっ放しにしておいても、常に室内に誰かがいれば侵入者の有無は確実に確認出来る。
これがメリットの一つ。だがもっと重大で、とても期待するメリットもある。
少女から生存者の話を聞ける可能性が高い事だ。見下す訳ではないが、小学生か中学生かも分からない幼い少女がたった一人で、ゾンビ出現以降生き延びてきたとは考え辛い。彼女を保護していた大人が何処かにいる筈。
その人物(一人か複数かは分からない)が、紅葉が予想していた校内の生存者である可能性は高い。
彼等が何処にいるのか、どんな暮らしをしていたのか。そして何故、少女は一人であの教室内にいたのか。
知りたい事は山ほどある。
ただ、それには一工夫必要だろうが。
「……………!」
少女はぱくぱくと口を動かす。それと共に手も動かしていた。
明らかに、なんらかの意味を伝えようとする動かし方で。
手話だ。
恐らく少女は発声能力に重大な障害があるのだろう。こちらの呼び掛けに反応したので耳は聞こえており、また ― こういう言い方は悪いが ― 知的障害などもなさそうに見える。発生にだけ問題がある、聴唖と呼ばれる類の人のようだ。
尤も、障害の有無について紅葉は然程気にしていない。様々な配慮は必要だろうが、それだけの話である。
そして紅葉も海未も手話が分からないが、これもまた『会話』をする上では大した問題ではない。
「申し訳ないが、私達は手話が分からなくてね。これに書いてくれると助かる」
紅葉が手渡したのはメモ用紙とボールペン。
人間には文字がある。筆談を行えば、例え喋れずともなんとか出来るのだ。
実際には筆談というのも結構もたつくもので、スムーズな会話は難しい。相手が目の前にいるのにショートメールで会話するようなものだ。それに人間というのは存外『ニュアンス』でも話している。例えば同じ「馬鹿じゃないの?」という発言でも、その言い方次第で意味は大きく変わるものだ。文字に起こす時はそこを考慮して書かねばならず、一層慎重な言葉選びを求められる。
それにペンはいずれ書けなくなる。コンビニに行けばいくらでも補充可能なものの、いざという時に書けなくなって、大事な情報が伝えられなくなるかも知れない。
だからこその『障害』である訳だが、しかし全くコミュニケーションが成り立たない訳ではない。工夫一つで乗り越えられる。
「……!」
こくんと頷き、少女はメモ用紙とペンを受け取る。すらすらと書き、パッと紅葉達に見せる。
そこには『ありがとうございます』と書かれていた。
「どういたしまして。さぁて、コミュニケーション方法も確立した。少し、質問しても良いだろうか?」
紅葉が尋ねると、少女はこくこくと頷き、それからメモ用紙にペンを走らせた。
やがて書いた言葉は『どんとこい』。意外とノリの良い性格をしているらしい。
それに咄嗟にこの言葉が出てくるぐらいには、リラックスしているとも考えられる。余計な気遣いは無用だろう。お言葉に甘えて、質問してみる事にする。
最初は、自己紹介だ。
「まず、私達の名前を教えよう。私は秋川紅葉だ」
「花守海未よ。どちらもこの学校の高校生。よろしくね……あなたのお名前は?」
海未が尋ねると、少女はまたメモ用紙にペンを走らせる。
『月神 菜之花』。
名前を見せてから、少女こと菜之花は『なのは』と漢字の上に書く。
続いて書かれたのは年齢で、十一歳との事。学校名も書かれており、この地域のとある小学校のものだ。学校の名前は知っているが紅葉の家からは遠く、あまり縁はなかったので制服など知らなかった。
「ふむ、成程。では菜之花、今まで何処にいたのか、どんな暮らしをしていたか教えてくれるか?」
次に紅葉が尋ねると、菜之花はもう一度メモ用紙に文字を書こうとする。
ところが、その体勢のままぴたりと止まってしまった。
何か考え込んでいるのだろうか? しばらく様子を見ていた紅葉だったが、『観察』していて菜之花の異変に気付く。
身体が小刻みに震えていたのだ。
おかしい。そう思い紅葉が顔を覗き込むと、菜之花の顔色は真っ青になっていた。冷や汗も出ていて、目も大きく見開かれている。呼吸も荒く、平静を失っているのが一目で分かった。
詳細は分からない。だがこのままにしておくのは、明らかに好ましくない。
「分かった。もう何も書かなくて良い。落ち着いて」
菜之花の頭を紅葉は優しく抱き締める。菜之花はしばらく震えていたが、やがて紅葉を抱き返し、しばしぎゅっと抱き返してくる。
紅葉は顔を上げ、海未と顔を合わせる。海未はおろおろしていたが、菜之花に先の話が『禁句』なのは理解しただろう。こくんこくんと無言で頷いていた。
「(これは、余程酷い光景を目にしたのか)」
他の生存者がゾンビに喰われるところを目の当たりにしたのかも知れない……可能性が脳裏に浮かんだが、紅葉は菜之花から具体的な事を聞き出そうとは思わない。下手に暴こうとすれば、菜之花の心に取り返しの付かない傷を負わせてしまうだろう。生存者に関する詳細が聞けない事は残念だが、菜之花の心には代えられない。
「今日はもう疲れただろう? 休もう。大丈夫だ、私達が傍にいる」
紅葉は淡々と言葉を掛け続ける。
果たしてその言葉にどれだけ効果があったかは分からない。しかし菜之花は少しずつ身体から力を抜き……やがて本当に寝てしまったようで、紅葉に身体を預けてきた。
割と虚弱な紅葉であるが、小学生一人ぐらいはなんとか支えられる。長時間は無理だったが、海未がすぐにフォローしてくれたのでなんとかなった。
菜之花を一旦図書室の床に寝かせる。何もない床に小学生を寝かせるのは心苦しいので、紅葉は適当な本を積み上げて枕だけでも与えておく。
子供が寝たところで、残るは女子高生のみ。紅葉は海未と今後について話す事にした。
「……さて、これからについて話そうか。私は生存者探しをしたいと思う」
「え。探すの?」
「? なんだ? 不服か?」
海未の口調がどことなく不快そうに聞こえ、紅葉はそう尋ねる。
海未の答えは、肯定の頷き。どうやら生存者を探す事に嫌悪を抱いているらしい。
「だ、だって生存者って、この子にその……酷い事したんじゃないの?」
「……………ああ、そうか。その可能性は失念していた。そうか、君はそっちを想像したか。やはり人は多いに越した事はないな」
理由を聞けば、即座に納得がいく。そして確かにそれは嫌悪し、追究を中断すべき理由だと紅葉も思う。
人間というのは助け合いが必要な生き物だ。
しかしながら一部の例外を除いて、アリのように社会のため命を投げ捨てられるような生き物ではない。基本的には自分の利益を追求する生物だ。法や倫理観がそれを抑え込む事で、人間は人間らしく振る舞っている。
されど今はゾンビアポカリプスの真っ只中。法も秩序も、少なくとも自分の生活圏では崩壊した。
警察がいない社会で盗みを我慢するのは合理的か? いいや、非合理的だろう。持ち主に気付かれなければ何を言われる事もないし、気付かれても黙らせれば良い。法による統治がなければ、残虐性と合理性は安易に結び付く。
「(外傷がない点から、暴力は振るわれてないと思いたいが……)」
当人から話が聞けない以上、ただの可能性だ。しかしあり得る可能性であり、考慮すべき点でもある。
そんな行為をしたかも知れない
だが、その上で紅葉は『探索』を推奨するが。
「まぁ、それはそれとして生存者探しはした方が良いと思うがな」
「な、なんでよ…」
「単純に、生きてる人間が全員加害者という訳じゃないだろう? 生存者が私達以外に一組しかいないとは限らないからな。そいつらについて何も知らないと、いざという時動けないだろう?」
果たして校内には何人生存者がいるのか。そのうちの何人が『危険』なのか。
今の紅葉達は何も知らない。知らないままの時に何かが起きて、こちらにどんな手が取れるというのか。
歴史に名を残すような名軍師ならばいざ知らず、自身など良くて凡人と思う紅葉にはそんな状況で上手く立ち回れる自信などない。混乱に見舞われた挙句、その危険人物の傍に落ち着くなんて事もあり得る。
知れば完璧に振る舞える、等と驕るつもりはない。しかし知らねば最低を選びかねない。近付くのも嫌な相手だからこそ、情報を得ておくべきだと紅葉は考えるのだ。
「……まぁ、確かにそれは、そうかもだけど」
「それに楽観論を言うのは性に合わないが、菜之花を危険な目に遭わせたのが校内の生存者とは限らないだろう。筆談も出来ないぐらいだ。もしかするとストレスで記憶が飛んでるかも知れない」
「あー、ドラマでよくある。あれって本当にあるの?」
「解離性健忘という病気があるな。トラウマやストレスが原因と言われている。尤も、医者でない私に診察出来るものじゃないが」
「そりゃそうだ」
海未は少し肩を落としつつ、へらっとした笑みを浮かべる。
不安はある。しかしあまり気にしても仕方ないと、割り切ったのだろう。
それで良いと紅葉は心の中で同意した。結局自分達は何も知らないのだ。知らないままがむしゃらに動き回る事をパニックと呼ぶ。爆発的行動が事態を打開する可能性はなきにしもあらずだが、それに頼るよりは真っ当な方法の方が成功率は高い。
紅葉も真っ当なやり方を好む。
「(とりあえず校内の安全をある程度確保したし、次は本命の体育館に行ってみるとするかな……)」
明日の予定を頭の中で組み立てながら、紅葉もまた寝支度を始めるのだった。
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