呼び水を生め

「な、んだ……!?」


 突如として現れたゾンビの姿を目にして、紅葉は大きく動揺した。

 十代〜二十代ぐらいの女性、だろうか。噛み千切られたであろう顔は右半分がボロボロになっていて、見るに堪えない姿となっている。だが、それ自体は今更どうこう言うつもりもない。最初は吐き気を覚えた人体の欠損も、不本意ながら今では見慣れたものである。

 紅葉を動揺させたのは、女子高生が裸だった事だ。

 下着一枚身に着けていない格好だった。若い割に豊満な胸も、引き締まった身体付きも、恥部さえも、全てが露出している。傷の多くが頭の近くにあり、身体の傷はそこまで多くないため、裸体で練り歩いている印象がより強くなる。

 ゾンビなのだから裸である事など気にしない? 確かにその通りだろう。実際ゾンビは胸を腕で覆うような真似もしない。恥じらいなんて、脳細胞と共に腐り落ちたのだ。

 だが、何故裸なのか?

 他のゾンビに喰われる過程で脱げた? 肩紐だけで支えるようなデザインなら半裸ぐらいにはなるだろうが、下着含めた全部の服が脱げるなんて考え難い。それにクマやオオカミなら食べられない布を食い千切るぐらいはするかも知れないが、ゾンビに獣達ほどの知性や『グルメさ』があるとも思えなかった。

 ゾンビ化時点で裸だったと考えるのが一番合理的だ。露出徘徊が趣味の痴女だったのか? それとも――――


「(なんて、考えてる場合じゃないな!)」


 思考に没頭しそうになるのを堪え、まずは現状に対処しようと考え直す。

 そのために紅葉は観察を行う。

 裸ゾンビの動きは鈍い。元々ゾンビの動きは鈍いが、このゾンビは特に鈍いように見えた。暗闇の中で活動が鈍る点は他のゾンビと同じようだ。とはいえ歩みは力強く、ほっといたところで倒れそうにない。

 これが備蓄倉庫の中に入ったら、中にいる海未が危険に晒される。


「海未! ゾンビが出た! 外に出るんだ!」


 即座に紅葉は海未に向けて警告を発す。

 まだゾンビは遠い。今すぐ外に出てくれば、脱出は難しくない状況だ。

 そう、簡単なのだ――――何事もなければ。


「えっ! ま、ぶぎゃっ!?」


 だが、トラブルが起きたとなれば話は変わる。


「海未!? 大丈夫か!?」


「う、うぅ、ちょっとヤバい……荷物が崩れて道が……ど、退かさないと戻れない!」


 呼び掛ければ、返ってきたのはそんな答え。

 全身から血の気が引く。その感覚を紅葉はハッキリと感じ取る事となった。


「(や、ヤバいヤバいヤバいヤバい!)」


 考えが纏まらなくなるほどの動揺が、紅葉の頭の中を駆け巡る。瞬きを忘れて目を見開き、興奮で息が乱れてくる。

 何がそこまでヤバいのか? ゾンビの進路だ。見たところ裸ゾンビは紅葉ではなく、備蓄倉庫の方を目指しているように見えた。

 ゾンビは恐らく体臭などの臭いに反応して、人間に迫っている。しかし単に臭いの強弱に反応するのなら、傷だらけな上に腐敗も始めているゾンビが一番強烈な筈。だから生きた人間特有の臭いに反応していると考えるのが自然だ。

 その臭いに個人差があるというのは、なんらおかしな事ではない。むしろごく当然の事であろう。体質的なものもあるし、食習慣や生活習慣なども体臭に影響を与える。実際人間の嗅覚でも、直接嗅げば体臭の嗅ぎ分けはある程度可能だ。そして臭いというのは揮発性物質に対する反応なので、臭いが違うという事は出ている化学物質が違うと言い換えられる。ゾンビ化の原因が細菌のような単純な生物であるなら、化学物質の判別はむしろ得意技だ。特定の臭い物質に反応して、そちらに向かって進むという反応を起こせば良い。それたけで獲物にがぶりと噛み付けられるだろう。

 恐らく、海未は紅葉よりもその物質を多く出している。ゾンビはより強い臭い、言い換えれば特定の分子が多い方に向かおうとしているため、近くの紅葉を無視して海未の方に進んでいる……のかも知れない。


「(このままじゃ、ゾンビが備蓄倉庫に入ってしまう! そうなったら駄目だ!)」


 海未は金属バットを持っているが、残念ながら人間の頭を粉々に砕くほどの腕力はない。仮にあったところで、このゾンビ達は頭がなくても平気で動く。女子高生の力で倒す事は出来ない。

 逃げ場のない倉庫内に侵入されたら、もう海未にはどうにも出来ない。どうにかしてゾンビの気を引き、倉庫から一時的にでも離さなければ。


「(つっても何をどうすれば良い!?)」


 ゾンビの進行方向を変える方法。紅葉の頭にパッと浮かんだのは、二つの作戦だ。

 一つは自分が至近距離まで近付く事。ゾンビが人間の発する臭いに反応し、より強い臭いに引き寄せられると仮定しよう。近い紅葉ではなく遠くにいる海未の方にゾンビが向かっているのは、海未の方が臭いが強いからだと推測される。

 ならば近付いて直に臭いを嗅がせれば、ゾンビはそちらに引き寄せられるに違いない。紅葉が近付けばその分臭いは強くなり、ゾンビの気を引ける筈だ。

 しかしこの方法は選べない。紅葉には今漂っている臭いの『濃さ』など分からないのだ。どの程度近付いたらゾンビの反応が変わるのかは未知数。下手に近付き過ぎれば、襲い掛かる動きに対処出来ずに逆にこちらが噛まれてしまう。

 選ぶべきはもう一つの策。

 事だ。体臭として漏れ出る臭いよりも、更に強い臭いを出せばきっと反応する筈。

 問題は、どうやって強い臭いを出すのか。そもそもなんの臭いにゾンビは引き寄せられているのか。尿や糞便? 否、もしそうならトイレにゾンビがたむろしている筈だ。しかし避難初日にトイレで水を得られたように、ゾンビがトイレに群がっているところは見た事がない。仮に此処で紅葉が失禁したとしても、恐らくゾンビは見向きもしないだろう。

 ゾンビが感知しているのは体組織などから発している臭いだと思われる。ならばその臭いを強める方法は……


「……やるしか、ないか……!」


 一呼吸置いて覚悟の言葉を呟き、紅葉は懐に手を突っ込む。

 取り出したのは、護身用として持っていたカッターナイフ。図書室の備品として置かれていたものを持ってきたのだ。

 無論これを突き刺したところで、死体であるゾンビに効果はあるまい。流れ出るのは腐った血だけ。

 そう、腐った血。ゾンビの身体を巡る血は間違いなく腐敗している。血というのはとても腐りやすい物質なのだ。何しろその中には生きるために必要な糖やタンパク質、ビタミンが豊富に含まれている。細菌達からすれば理想的な栄養スープであり、免疫による防御がなければあっという間に汚水へと早変わりだ。

 では、人間の血はどうだろうか?

 新鮮な血には、きっと腐敗した血にはない『新鮮な臭い』がある筈だ。そんな血を全体重の七~八パーセントも含んでいる人体からは、微かに匂いが漂っていても不思議ではない。


「(ちまちま出す量を調整している暇はない! ここは一気に、やる!)」


 理屈を勇気に変えて、紅葉はその手に握り締めたカッターナイフを――――自分の手に刺す。

 動脈などは傷付けないように、しかし掠り傷なんかではない刺し傷。開いた傷口からどろどろと血が染み出す。


「(どうだ!? これで反応しないか……!?)」


 血を流しながら紅葉はゾンビを睨む。

 ゾンビはまだ止まらない。だがそれは想定内。臭いというのは空気の流れで伝わるものだ。すぐには相手の下まで届かない。

 ゾンビはどんどん備蓄倉庫の入口に近付く。もっと接近しておくべきだったか? 今更自分の行動を後悔するが、もう遅い。

 ゾンビはもうすぐ備蓄倉庫に入ろうとする。こうなったら体当たりを喰らわせて突き飛ばすしか、と考え始めた時だった。

 くるりと、ゾンビが紅葉の方を振り向いたのは。


「良し! こっちに来い!」


 期待していた反応がようやく現れ、紅葉ははしゃぐように声を出す。

 とはいえゾンビは中々紅葉に近付こうとしてこない。まるで考え込むように、動きを止めたままだ。

 突然現れた臭いに警戒心を抱いている? いいや、これまで観察してきた印象ではあるが、そんな知能があるとは思えない。恐らく臭いの強さが拮抗していて、どちらにも進めなくなった状態なのだろう。

 恐らくもっと近付けば、ゾンビの反応も切り替わるだろうが……迂闊に近付けばがぶりとされてしまう。慎重に、ゆっくりと距離を詰めるのが一番だ


「だありゃああああああっ!」


 と思った矢先に、備蓄倉庫の中から雄叫びが。

 次いで入口から、猛烈な勢いで海未が跳び出してきた。その手には槍のように真っ直ぐ構えた金属バットがあり、その先は紅葉の方を向いていたゾンビの脇腹を打つ。

 真正面からであればゾンビも受け止められたかも知れないが、此度の一撃は脇腹だ。ダメージ量に違いはなくとも、倒れやすさはかなり違う。加えてこのゾンビ、歩いているものの動きは鈍い。


「うごぅ」


 ゾンビは転倒し、地面に横たわる事となった。


「もみっちゃん大丈夫!? って、ち、血が……!?」


 ゾンビを倒してすぐ、海未は紅葉の下に駆け寄る。無事で良かった、と言おうとした紅葉であったが、海未は顔を青くしながら震えていた。

 そしてその目が見ているのは、血をダラダラと流している紅葉の手。

 ……バットを握る手に力がこもっているのは、早まった真似をしようとしている予兆か。一介の女子高生にそんな度胸と覚悟はないだろ、と思いたい紅葉であるが、人間思い詰めると何をするか分かったものじゃない。誤解は早急に解消すべきである。


「あー、一応言っておくが、これは噛まれた訳じゃない。自分で切った。アイツが備蓄倉庫の中に入ろうとしたから、どうにか誘導出来ないかと考えてね」


「そ、そうなんだ……良かった……」


 事情を説明すれば、海未は心底安堵したように息を吐く。信じてもらえた事は嬉しいが、しかしこうもあっさり人を信用するのはこのご時世でどうなのかと思わなくもない。


「って、自分で傷付けるのも駄目だよ!?」


 それと、この反応も。


「? 別に動脈は傷付けていないから、致命傷ではないぞ。感染症の危険はあるが、他の手が思い浮かばなかったから仕方ないだろう。まぁ、滅茶苦茶痛いが最悪に比べれば」


「そういう事じゃなくて、女の子なんだからもっと身体は大切にしなさい!」


「いや、人命に比べたらこんなもの大したものじゃないだろうに……」


 合理的でない叱責に、紅葉は眉を顰める。その顔も気に入らないのか海未はその顔を剥れさせた。

 此処にゾンビがいなければ、小一時間ぐらい説教を受けたかも知れない。


「ま、それは兎も角……どうやら立ち上がるだけの体力は残っていなかったようだな」


 海未の手で倒されたゾンビを、紅葉はスマホのライトで照らす。

 裸のゾンビはばたばたと手足を動かし、どうにか立ち上がろうとしている。

 だが上手くいかない。脳なし故に動きが悪いというのもあるが、ぐっと体重を乗せた瞬間、肘も膝もぐにゃりと曲がってしまうのが一番の理由だ。体重を支える事が出来ていない。

 そのまま数分ほど藻掻いていたが、動きは良くなるどころか鈍くなるばかり。やがて腕や足を立たせる事も出来なくなり、うつ伏せで弱った魚のように微かに跳ねるだけと化す。最後は動きが止まり、呻き声すら聞こえなくなった。

 安心する事は出来ない。このゾンビが今、どんな状態なのか紅葉達には分からないのだから。

 しかし安全にはなった。一息入れても問題はないだろう。


「ふぅ。やっと活動が止まったか」


「……まさか動いているゾンビがいるなんて」


 海未は心底安堵したのか、大きなため息を吐く。まだ危険地帯の中なのだから安心するには早いだろうと思いつつ、紅葉も胸を撫で下ろした。

 海未がぼやいているように、紅葉としてもこの時間帯でまだ動いているゾンビがいた事には驚いた。想定はしていたものの、自覚しないうちに確信していたようだと自らの楽観的思考を猛省する。

 それはそれとして、ゾンビが動いていた事への疑問が頭を占めていく。

 この裸ゾンビには、他にはない特徴があるのだろうか? そう考えて、一番に思い付いたのは『裸』である事だった。当たり前だが服はゾンビ達の一部ではない。それはゾンビの身体を覆うものであり、ゾンビに対し何かしらの影響を与えている可能性がある。

 では、裸だとすると何が違うのだろうか?

 まず保温性や保湿性が違うだろう。人間が服を着始めた一番の理由が、外気温などから身を守るためだ。

 しかし何よりも、直射日光から身を守れる。

 ゾンビ達にとって光は何かしら重要なものであるのは確かだ。だが服を着ていたら、その光を浴びていられるのは頭や手足の先だけでしかない。裸ゾンビは服を着ていなかったため、昼間は全身で光を浴びる事が出来た。その差が、活動時間の長さに影響を与えたのかも知れない。長く活動出来たという事は、服を着たゾンビよりも何かしら多くのエネルギーを持った状態で夜を迎えた、と考えるのが自然か。

 つまり奴等は、――――


「……だとすると、これは……」


 辿り着いたのはあくまでも憶測。確かめるにはゾンビを解剖し、優れた顕微鏡で観察する必要があるだろう。

 しかしもしも予想通りなら、これは極めて不味いと紅葉は思った。何故ならこのゾンビ災害が終わりを迎える可能性の一つが、綺麗サッパリ潰えたのだから。

 自力での脱出は恐らく不可能。自衛隊の救助を待つしかないが、それも時間が掛かるだろう。ならば生き残るためには……


「もみっちゃん、また止まってるぞー……どしたの? なんかあった?」


 またしても考え込んでいた紅葉を現実に引き戻したのは、海未の言葉。頻繁に止まってしまう紅葉に異変を感じたようで、考えていた事について尋ねてくる。

 自分の考えについて話す事には、なんの躊躇いもない。むしろ話しておくべきだろう。下手な希望を抱かないように、そして無闇に絶望しないように。何より、今後の方針について話し合わねばならない。

 しかし今、此処で説明するにはちょっとばかり長い話だ。安全を確保し、腹と心を満たしてからの方が絶対に良い。


「ああ、ちょっとな……図書室に戻ったら話そう。この裸ゾンビのお陰で色々分かった事がある」


「ほへー。私にはゾンビが裸だと何が分かるかさっぱりなんだけど……」


「まぁ、こういうのは得手不得手というものだからな。そして私は自分で言うのも難だが、極めて非力だ。更に片手を怪我している。持てる荷物は精々一袋だぞ」


 そう言って紅葉は安全になった備蓄倉庫を指差す。

 ぽかんと呆けたように固まった後、海未は暗闇の中でも眩く見える笑顔を浮かべ、「任せとけっ!」と答えるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る