作戦会議

「とりあえず、水以外のものを手に入れたお祝い? という訳でカンパーイ」


 甘いジュースの詰まったペットボトルを手に持ちながら、海未は力強く前に突き出してきた。図書室の床の上に座る海未の前で、同じく座っている紅葉に向けて。

 堂々とした素振りで見せた動き。更に口から発した言葉。二つを合わせて考えれば、海未が何を求めているかは紅葉にも分かる。

 乾杯、というのは所謂社交辞令だ。社交辞令というのは、やってもやらなくても得るものがないという意味では『無意味』なものが多い。しかしその無意味さは余計なトラブルを避けるための知恵とも言える。紅葉は海未と揉め事を起こしたくない。

 今から飲もうとしていたペットボトルを口の近くから離した後、紅葉もそれを前に突き出す。ペットボトル同士がぶつかり、こつん、と乾いた音を鳴らした。

 海未は満足げに満面の笑みを浮かべる。紅葉としても、無意味な行いとは思いつつ、悪い気はしなかった。

 そして乾杯を行った二人は、同時に中身のジュースを飲む。


「ん……ふぅ……」


 紅葉は一口飲んだ後、ペットボトルを口から離して一息吐く。

 ただの錯覚だろうとは思う。高々数秒で、摂取した水分が吸収される筈ない。

 しかし不足していた身体中に水分が、胃から全身に広がっていくような感覚を覚える。それが堪らなく心地良くて、何より今まで身体の水分が不足していた事を物語った。更に身体の張りが戻るように感じたのは、糖質からカロリーを得られたからか。

 全てがただの錯覚だとしても、極上の快楽だ。食とは、嗜好品とは、これほどの美味なのだと思い出す。悦楽で飲む手が止まってしまうほどだ。


「んっ、んっ。んっ、ぷはぁ!」


 ちなみに海未はペットボトルの中身を半分ぐらい飲み干し、荒々しい吐息を出していた。彼女も彼女なりの感性で、快楽を貪っているらしい。


「んふふー。いやー、久しぶりの甘いものだなぁ」


「そうだな。まともな食事とは言えないが、ようやくエネルギーが取れる。十分ではないが、これでかなり『長生き』は出来そうだ」


 ジュース一本(五百ミリリットル)辺りのカロリーは、成分表示曰く二百キロカロリー程度。カロリーを生み出しているのはこってり投入された炭水化物砂糖だ。日常生活で常飲するにはあまりにも不健康な値だが、緊急時のエネルギー源としては頼りになる。

 とはいえ所詮二百キロカロリー。一般的な成人女性の基礎代謝は一千二百キロカロリーであり、全く足りていない。しかも実際には多少なりと動いてカロリーを使うので、一千四百〜二千キロカロリー程度の摂取が望ましい。ジュースでこれを賄うには、一日十本は必要だ。

 夏場で汗をだらだら掻いているなら兎も角、涼やかな秋に五リットルの水分摂取は中々に辛い。そもそもジュースで得られる栄養なんて、それこそ成分表示に書かれている砂糖ぐらいなものだ。ジュースの種類にもよるが、タンパク質や脂質などは全く含まれていない。濃縮還元の果物ジュースなら一部のビタミンは取れそうだが……それだって量は多くないだろう。


「後は食べ物があれば、完璧なんだけどなぁ」


 海未がそうぼやく、否、のも無理ない事だ。


「ああ。うちの校舎にパンやお菓子の自販機があれば、もう少しマシだったんだがね。それらも糖質ばかりで健康的ではないが、ジュースよりは脂質とタンパク質を含んでいるだろう」


「校門の目の前にコンビニがあるから、そこで弁当とか持ってこれないかな? って、そこまで行くのが危険か」


 海未が言っている校門前のコンビニは、勿論紅葉も知っている。明らかに帰宅時の学生をターゲットにしたコンビニで、文房具がやたら豊富ではあるものの、菓子類や弁当もそこそこ置かれていた筈だ。

 ゾンビ事変の発生、というより事態の深刻化は二日前の夕方頃に起きている。そのため恐らく商品は補充前の、枯渇気味の状態だろう。しかしパック詰めされたサラダや、教職員向けと思しき酒の肴ぐらいは残っていそうなもの。行ければ食糧事情はきっとかなり改善する。

 しかし海未が言うように、ゾンビだらけの屋外を歩くのは危険だ。紅葉達が学校内の図書室にこもっているのも、そもそも屋外のゾンビから身を守るため。校内ですら安全とは言い難いのに、だだっ広い校外に出るのは自殺行為と言えよう。

 ただし、あくまでも無策では、という前置きをした上での話だが。


「実は一つ、安全に行動出来そうな方法がある」


「え? 何々どゆこと? なんかゾンビの弱点が分かったの!?」


「弱点と言えるかは微妙だし、あくまでも仮説ではあるがね」


 紅葉はそう言ってから、ジュースを一口含む。口の中を湿らせ、話をするのに支障ない状態にしてから語り出す。

 慎重に、あくまでも仮説だと伝わるように意識しながら。


「恐らく、ゾンビ達は暗闇の中では活動を止める。動きが鈍いとかではなく、動く事を止めているんだ」


「? え、暗闇? なんで?」


「理由までは分からん。だが校舎内のゾンビが最初倒れていて、途中から起き上がったのは、朝日が差し込んで校舎内が明るくなったから……と私は考えている」


「……校舎の外からやってきたゾンビが、元気に動いていたのは?」


「単純に日当たりの差か、或いは街灯に照らされていたからか。照明が付いていない校内とは条件が違うからな」


 つまり、と前置きして一度話を区切る紅葉。

 しかし海未も紅葉の言いたい事は大凡察したのだろう。目がキラキラと、希望に満ち溢れていた。


「夜なら、ゾンビは動いていない!?」


 どれだけ期待していたかは、紅葉の台詞を掻っ攫っていった事からも窺い知れた。


「あくまでも推論であるがね。それにこの推論が正しいとしても、街灯程度でも明かりがあれば活動を維持出来るようだがな」


「え。なんで分かるの? というか暗い中では動かない事も、見ればすぐに分かりそうだからネットの情報に出てくるんじゃ……」


「一つずつ答えよう。何故分かるのかは、ニュースで夜の街を練り歩くゾンビの姿が撮影されているからだ。後で動画を見直すが、恐らくどの映像も明るい筈だ……まぁ、暗くて見えないゾンビを撮影しても仕方ないから、暗闇で佇むゾンビの動画はないだろうがね」


「あー……そっか。そうだよね、撮影するなら明かりつけるよね。それが刺激するって分からないんだし」


「二つ目の疑問、すぐに分かりそうだという話だが……ゾンビ発生からまだ二日目、夜が訪れたのはこれで二回目だぞ。ゾンビの支配域にいる生存者は、暗闇の中スマホ片手に歩く勇気なんてないだろう。まぁ、自衛隊や政府は把握していそうだが……」


「だが?」


「……馬鹿が話をろくに理解せず、夜の街灯下で佇むゾンビに突撃する姿が簡単に想像出来る。推論という概念を理解しない奴に、半端な事は言えない」


「あー……」


 言われて、海未もなんとなく想像出来たのだろう。世の中は広いもので、『個性的』な面々がいるもの。ネット社会はその存在を浮き彫りにしているだけで、そうした人間はネットの有無や年齢性別問わず一定数いるのだ。迂闊な事を話してパニックが広がれば目も当てられない。そういう人間ほど、噛まれた後に『安全地帯』へと逃げ込みそうなのも相まって。

 とはいえやはり海未は期待しているようで目がキラキラしている。人間なのだからこの程度は仕方ないと諦めつつ、紅葉は別の考えを巡らせる。

 全てが推論通りだとしよう。つまりゾンビが暗闇で休んでいるとする。

 だがなのだろうか? 少なくとも紅葉が調べた限りでは、ゾンビ達は視覚ではなく嗅覚で人間を識別し、追跡している。つまり暗くて人間が見えない状態でも、ゾンビ達はなんの問題もなく追跡を行える筈だ。明かりの有無で行動を切り替える必要性を感じられない。

 仮にゾンビ化の原因が新種のウイルスや漏洩した生物兵器だとして、夜間に動きが止まる事になんらかの意味があるのだろうか? その方が生存上得なのか、それとも活動を止めなければならない理由があるのか。どちらにせよ今後ゾンビの勢力がどのように拡大するか、どうすれば拡大を止められるのか、そしてどうすれば危険を避けられるのか。そのヒントになる筈だ。

 一体何故なのだろうか。倒れている姿からして、ゾンビとしても好ましい状態ではないと紅葉には思えるが、或いはうっかり踏み付ける事を期待した野性的な罠なのか――――


「(まぁ、今ここで考えても仕方ないか)」


 巡る思考を、紅葉は一度打ち切る。

 ゾンビがどうやって勢力を拡大するか、どうすれば拡大を止められるのか。それを知るのはゾンビ騒動真っ只中にいる紅葉にとっても大事な情報だ。

 そもそも、繰り返すが自分の考えが正しいかどうか紅葉にはまだ分からない。校内のゾンビが倒れていたのには別の理由があって、校外では普通にゾンビが歩き回る光景が見られるかも知れないのだ。不確実な情報に命を賭けるのは無謀というものである。

 必要なのは情報の真偽だ。偽の情報ならば切り捨て、本物ならば信用する。理屈は後から考えれば良い。

 そして検証のやり方は、実際に目で見るのが一番。リスクはあるが、今後を思えばやはり多少は危険も承知せねばなるまい。

 勿論相方が拒めば、無理を通そうとは思っていないのだが。


「そこで一つ相談なんだが、今日中にもう一度図書室の外に出たい」


「え? あ、うん。良いけど……えーっと、それってやっぱり……」


 紅葉からの『楽観的』な話に今まで笑顔を浮かべていた海未だったが、その顔が段々と強張りだした。彼女は察したのだろう。暗闇がゾンビの動きを止めるという仮説を証明する、唯一の方法は姿なのだと。

 夜は動いていないと知るためには、何時、外に出るべきか?


「うん。夜に外出するぞ。危険はあるが、まぁ、恐らく大丈夫だろうさ。推測通りであればな」


「やっぱりぃ〜!」


 紅葉が淡々と告げた提案に、海未は悲鳴染みた声を出す。

 しかしその提案を拒むような言葉は、海未の口からは出てこないのだった。

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