静かな朝
朝六時。
所謂早朝と呼ばれるような時間帯であり、図書室の窓から見える外はようやく少し明るくなったばかりといった様子。街灯の光なしには、あまり出歩きたくない雰囲気だ。
そんな朝早くから、紅葉は起きていた。
窓から外を眺めながら、うろ覚えの準備体操をこなす。これは身体を解すため、という訳ではなく、血を巡らせて頭を働かせるため。動きたくないという寝起き直後の怠惰な感情を、粗雑に振り回した腕の力で投げ飛ばす。
凡そ五分ほど動いて、ようやく調子が出てきた感覚を抱く紅葉。インドア派な彼女は、あまり朝が強くないのだ。
「準備体操終わったー? もうそろそろ行く感じ?」
対して海未は、目覚めてすぐにこの元気さだった。本人曰く「朝練で慣れてる」との事で、実際そうした日々の積み重ねはあるだろうと紅葉も思う。
しかしそれを差し引いても、既に丸一日以上何も食べていない今、スッキリと目覚めるのは中々大変な事の筈。
やはり元々朝に強い方なのではないか、と思いつつ、紅葉は海未からの問いに答える。
「ああ、そうだな。その前に妹にメッセージだけ出しておくつもりだ……まだ基地局が生きているから良いが、果たして何時まで出来るものか」
「え? もしかしてゾンビの被害、増えてるの?」
「ネットの記事を見た限りではあるが、昨日一日でかなり悪化したようだ。にも拘わらず、国の動きは良くない」
海未に説明しながら、紅葉は自分が朝起きてすぐに確認した国内情勢について話す。
現在、ゾンビ被害はこの町や隣町だけでなく、県を超えて広がった。国が確認しているゾンビ発生地域は東京・神奈川・埼玉・千葉の四県。どうやら噛まれた人間が電車に乗って帰宅し、地元でゾンビ化して被害が拡大したらしい。
発生源であるこの町周辺すら未だゾンビ被害を抑えられていないのに、県を跨いで発生したとなればいよいよ危険な状態だ。
たった一日で被害が何倍もの数と面積に広がった事で、マスコミと政府も「これは本当にヤバい」という気持ちになったのか。前日まで反対していたメディアはくるりと掌を返して自衛隊派遣に賛成意見を述べる。国も自衛隊の派遣を決定した。尤も、ゾンビは現時点では未だ生きた国民の扱い。剥き出しにした脳みそに銃弾を撃ち込む訳にはいかない。現在予定している自衛隊の任務は、放水やバリケードの設置でのゾンビ足止め、そして被害地域での救助活動ぐらいだという。ゾンビそのものを減らす作戦を行う予定は、現時点ではない。
一応バリケードを乗り越えてきたゾンビに対しては身柄の拘束を行うようだが、ゾンビは一体二体ではない。そもそもバリケードや放水を乗り越えてくる状況というのは、恐らく何十という数が迫っている時だ。拘束なんてしていたら、自衛官と同じ数のゾンビが増えるだけ。現状の対策ではゾンビの被害は良くて現状維持、恐らく拡大していくばかりだ。
「……なんというか、遊んでるの? 政治家は」
「遊んではいないだろう。しかし現状、この事態に対応する法律や憲法がない。軍や警察、そして政治家が法を無視する訳にはいかないからな」
「いや、でもほら非常時じゃん! そんな言葉遊びしてる場合じゃないでしょ!」
「場合だよ。一度例外を認めてしまえば、法を無視する事へのハードルがどんどん下がる。その果ては無法地帯だ……まぁ、これは建前で、本心では単純に責任を負いたくないだけだとは私も思うが」
自衛隊に「自国民を殺せ」と命じる。文言だけで見れば、きっと百年二百年経とうと(悪)名が残ると容易に想像が付く。死んだら何も残らないと紅葉は思うが、それでも後世に悪人として伝わるのは嫌だと感じる。政治家(この場合は総理大臣だろう)だって同じだろう。
加えてゾンビ退治を命じた場合、下手をせずとも裁判で死刑が言い渡される可能性がある。何しろ法律上は自国民を虐殺しているのだ。死刑にならない理由がない。
「君、国民のために死刑になってくれ」といって誰がやるというのか。自分の身を守るためにも、「ゾンビは死体とする」的な特別措置法を国会で通すしかない。ところがそうした法を通すには野党との協議が必要だ。日本は法治国家であり、民主主義国家なのだから。
一つ一つの行動に時間が掛かるのは、民主主義の弱点であり、どうにもならない点である。これを捨ててしまうと独裁政治を許してしまうので、将来を思えば「緊急事態だから」といって無視する訳にはいかない。
「なんにせよ、当分救助は来ないだろう。私の妹は冷蔵庫のプリンでも食べていれば、当分は生きていけるだろうが……私達の方はそうもいかない」
「……助けが来るまで、自力で生きていないといけない感じなのね」
「その通り。という訳で水だけでは、ちょっとばかり助かる可能性は低くなった。二〜三週間あれば情勢はかなり変わりそうではあるが、それにしたって良くなるとも限らないからな」
何かするなら、体力がある状態が好ましい。状況が近々改善する見込みがない以上、体力を温存するための行動が必要だ。例えそれが多少リスクのあるものだとしても。
幸いにして紅葉は今、一緒に行動出来る仲間がいる。一人で行動するのに比べればずっとリスクは低くなり、また取れる行動の種類が増える。人間は、やはり数がいてこそ真価を発揮する生物だ。
作戦に変更はない。
「だから予定通りにやるとしよう。外に、食べ物と容器を探しに出発だ」
紅葉がそう言えば、海未は力強く、こくりと頷く。
その手に持った金属バットを、力強く握り締めながら……
……………
………
…
図書室で長期間の避難生活を行うには、食べ物と水を入れる容器が必要だ。
問題はそれを何処で手に入れるのか。図書室にないのなら、外に出て探しに行くしかない。
勿論闇雲に探し回るのは無謀というもの。紅葉はある程度目星は付けている。校舎の一階には自販機が設置されており、そこであればジュース類が多数ある筈だ。ジュースにはそれこそ不健康なほど大量の糖質が含まれており、水分だけでなく十分なカロリーも得られるだろう。
一階には購買部もあるが、そこで食べ物が得られる事は期待出来ない。学校によって品揃えは様々であるが、この高校の購買では学食のパンぐらいしか置かれていないからだ。大半は売り切れているし、残りも昼休みが終われば回収されて何処かに運ばれているだろう。探せば積まれているものが見付かるかも知れないが、あまり期待出来ないものに労力に費やすのはハイリスクローリターンだ。
一階の自販機からジュースを持ってくる。食べ物がなくとも、カロリーさえ摂取出来ればかなり生存期間は伸びる筈だ。そのリターンは、ゾンビの徘徊する校内を歩き回るリスクに見合うものと紅葉は考えていた。
だが、実際には違った。
――――紅葉にとって、好都合な方に。
「なーんか、拍子抜けしちゃうなー」
そう感じていたのは紅葉だけでなく、海未も同じようだ。
賛同者がいたのは嬉しいが、しかし今、紅葉達は一階へと続く階段を下りている最中。死角が多く、非常に危険だ。気を弛めるべきではない。
「あまり油断しない。まだゾンビについて、私達は殆ど知らないんだ。想定外が何時起きてもおかしくないと自覚した方が良い」
「そうは言うけどさー」
尤も紅葉が忠告しても、海未の反応は芳しくない。やれやれと肩を竦める紅葉であったが、しかし危機感がないのも仕方ないだろう。
「ゾンビ達、全然動かないんだもん」
海未が言うように、廊下にいるゾンビ達に動きがないのだから。
一階に辿り着いた紅葉は辺りを見渡す。廊下には見える範囲だけで三体のゾンビがいたが……いずれも動きはない。というより、廊下のど真ん中に倒れていた。
そうしたゾンビはゲームなどでは這いずって移動してくるものだが、そうした行動すら見られない。ぴくりとも動かず、一見して本当に死んでいるようだ。
「(頭を潰して死なない奴が、一体何が原因で死ぬんだ?)」
疑問は湧いてくるが、ここで考えるのも良くない。海未に言ったように『油断』している場合ではないのだから。
まずは目的遂行を優先しよう。気持ちを引き締め、紅葉は海未と共に一階にある玄関へと向かった。
ゾンビが動いていなければ、玄関まで行くのに苦労もない。玄関部分、そこにある自販機もすぐに見付かる。
自販機は今も駆動音を鳴らし、ボタンが点灯していた。どうやら稼働に問題はないらしい。
動いている事を確認した紅葉は、ポケットから財布を取り出す。千円札を出し、自販機に入れれば……問題なく全ての飲料のボタンが押せるようになった。
紅葉がそのボタンの一つを押せば、がこん、という音と共にペットボトルが一つ自販機の取り出し口部分に出る。
それを掴んで取り出せば、目的達成だ。
「……ふぅ。ミッションコンプリート、だな」
「なんか変な感じもするけどね。ゾンビだらけの世界になったのに、ふつーにお金を払ってジュースを買うってのも」
「まぁ、払う必要はないだろうが……自販機を叩き壊す方が大変だろう? お金があるなら普通に買う方が楽だよ。それに物音でゾンビが集まるかも知れないからな」
「全員倒れてるじゃん」
「そのうち起き上がるかも知れないだろう? 何事も、警戒するに越した事はない」
言葉では窘めつつ、紅葉もふと考え込む。
このゾンビ達が頭を攻撃しても死なない事は、昨日海未が実践してみせた。死体が動いているのだから、物理的ダメージが原因で動かなくなる事は……手足が取れたなら話は別だが……考え難い。
外傷以外の理由で動かなくなる、或いは動けなくなる理由とはなんだろうか? 考えてみて思い浮かぶのは、一つだけだ。
「(エネルギー切れ……餓死か)」
漫画や映画では、ゾンビが何年も、何十年も活動しているものもある。しかし継続的に人間を食べているなら兎も角、飲まず食わずで何年も生きていられる筈がない。
物理学的に考えれば、ものを動かすにはエネルギーが必要だ。
具体的には一キロの物体を一メートル動かすのに十ジュール程度消費する。一般的な女子高生の体重を五十キロと計算すれば、若い女ゾンビが一メートル歩くと約五百ジュールのエネルギーを消費している筈だ。
そして一カロリーは四・一八四ジュール。食品で使われるのはキロカロリーなので、これの一千倍。つまり一メートル歩く度に、女ゾンビは〇・一一キロカロリー消費している計算となる。
ゾンビが一日でどれだけ動くかは分からない。しかし一秒で一メートル(ちなみにこれは人間の平均的な徒歩速度だ)の速さで動けば、十二時間で四百七十キロカロリー以上消費していて――――
「(って、たった四百七十キロカロリーか。この程度で餓死するとは思えないが……)」
歩き疲れて死んだ、という可能性はなさそうだ。
ならば基礎代謝が高いのか? そう考えるも、しっくりこない。人間の場合、基礎代謝が高い人物というのは筋肉質なもの……身体能力が高いものだ。瞬間的に大きな力を生み出すための筋肉は、例え使っていない時でも多くのエネルギーを使う。他の動物でも同じである。
ゾンビは非常に動きが遅い。ゾンビ菌なりウイルスなりが死体を『無理やり』動かしているかも知れないが、いずれにせよお世辞にも身体能力が高いとは言えない。エネルギー消費が大きいとは思えなかった。
エネルギーが枯渇したとは考え辛い。ならば一体ゾンビ達に何が起きたのか……
「っ……」
考え込んでいたところ、ふと目に光が当たる。
なんだ、と思い見てみれば、玄関の方から眩い光が差し込んでいた。朝日が直に入り込んでいるらしい。
思考が妨げられた事もあり、ゾンビについて考えるのは止めた。それよりも今はジュースの購入を優先しようと、考えを切り替える。もう一度ボタンを押して二本目のペットボトルを出し、では次は何を出そうかと少し悩んだ
「うぅうぅうう」
直後、その唸り声が聞こえてきた。
紅葉と海未は同時に声がした方、玄関の外側に目を向ける。
そこにいたのは一体のゾンビ。若い男のゾンビで、内臓が腹から飛び出している。日に照らされている事もあってとてもよく見えた。血が黒く固まっている事から、死後それなりの時間が経っていると考えて良いだろう。
「ぅうあぁああああぁうぅ」
しかし両腕を前に突き出し、歩くぐらいの速さで紅葉達の方に迫ってくる。
「……校舎の中の連中が動いてないからって、外の連中まで動かなくなったとは限らないか」
「だねー。あ、それと校舎内の奴等も動き出したみたい」
海未はそう言いながら、視線を校舎内へと向ける。言われて紅葉も耳を傾げてみれば、確かにゾンビの唸り声が聞こえてきた。
どうやら道中で見付けたゾンビ達も、ただ眠っていただけらしい。ゾンビって寝るものなのか? という疑問は新たに湧いてくるが、状況が変わった今、それをのんびり考えている余裕はない。
「やれやれ……退却するか」
「うん。収穫はジュース二本かぁ」
「朝方行動なら比較的安全だと分かっただろう? 十分な収穫だ」
自販機から離れ、図書室へと戻る紅葉達。立ち上がったばかりのゾンビは動きが鈍く、今の紅葉であれば回避も難しくない。
ジュースも二本得られた。十分な栄養価とは言えないが、カロリー的にはそこそこ補給出来る。それに甘いものは心身を落ち着かせ、避難生活に『彩り』を与えてくれるだろう。
何より、此処までの道のりで得られた『情報』。
もしも自分の予想が正しければ……
「ふむ……」
にやりと笑みを浮かべながら、紅葉は図書室まで小走りで戻るのだった。
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