共に生きられる者
「ぜー……ぜー……」
「ひゅー……ひゅー……」
トイレからの全力疾走を行った紅葉と女子は、図書室の中で息を切らしていた。とはいえ息切れの原因は疲労ではなく、精神的な緊張感からの解放であるが。
がたんがたんと図書室の扉が叩かれている。
廊下にいた三体のゾンビが中に入ろうとしているようだ。とはいえ所詮はゾンビと言うべきか。扉を開けるほどの知能どころか、蹴破るという発想すらないらしい。叩いているような音は扉に体当たりをお見舞いした結果。いや、体当たりどころか前進して『壁』に激突しているだけ。
そうした自身の行動の意味も、死体には分からないのだろう。ゾンビ達は一〜二分ほど扉にぶつかっていたが、やがて呻きながら自ら離れていく。
臭いが霧散して反応しなくなったのか、それとも別の臭いを感じ取ったのか。観察したいという『悪癖』がむくむく湧き立つのを堪えつつ、紅葉は自分の横に座る女子の方を見遣る。
途中から少し頼りなかった気もするが、彼女がいなければ絶体絶命だったのは間違いない。ならば感謝の一言ぐらいは伝えるべきだ。
「……そういえば、まだ礼を言っていなかったな。感謝する。あそこで助けてくれなければ、死んでいたかも知れない」
「え? あ、いや、そんな気にしないで! つい身体が動いちゃっただけで……そ、そう、身体が……動いて……わ、私、人、殴り……」
お礼を伝えたところ、女子は最初こそ謙遜の態度を見せる。しかしどうした事か、段々とその顔を強張らせていった。顔色も刻々と青くしていき――――
頬が膨らんだ瞬間に、紅葉は女子の口を自らの手で塞いだ。いきなり口を塞がれて女子は驚いたように目を見開くも、驚いたからこそか身体は強張り、身動きも取らない。
冷静に、落ち着いた口調で、紅葉は語り掛ける。
「一つ、私があのゾンビ達を観察して得た知識がある。奴等は人間の臭いに敏感だ。なんの臭いに反応しているかは分からないが、臭いの強いものは出さない方が良い……どうにかしろとは言わないが、なんとか飲み込めないか?」
「……………」
青ざめた顔を女子はこくこくと頷く。次いで苦悶の表情を浮かべながら、ごくりと喉を鳴らした。
落ち着いた返事と行動を見て、紅葉はゆっくりと手を離す。女子の方は、未だ顔は青いが、もう一度吐く素振りは見せなかった。
「良し。大丈夫だ。それに君は何も殺しちゃいない。まぁ、死体損壊罪には問われるかもだが、緊急避難なのだから仕方ないな。罪悪感は必要ないだろう」
「う……うん……ゾンビ、だもんね……そうだよね……うぅ、頭潰したのに、普通に動いていたけど……」
「そりゃ、死体なんだからな。頭なんてあってもなくても変わらないだろうさ」
例えば生きた人間が寄生虫などに頭を狂わされているのなら、脳を破壊すれば動きを止められるだろう。身体の指示はあくまでも人間の脳が出している筈なのだから。昨今のゲームや映画に出てくる活発なゾンビ(というより感染者というべき存在)が、頭や脊椎を破壊されて動きが止まるのはある意味当然である。
しかし紅葉達の前に現れたゾンビは、恐らく本当に死体だ。死体なら脳破壊に大した意味はない。死体を動かしているのはもっと別の存在や理屈であり、それが脳をあれこれしているなら兎も角、そうでないなら脳はただの腐った臓器なのだから。粉々に破壊したところで、ゾンビが身体を動かす事に支障はあるまい。
可能性としては考えていたが、この女子の行動のお陰で確信に至る事が出来た。こうした情報は今後生き抜く上で大いに役立つ。例えば追い詰められた時、頭を破壊して云々という『無駄』な作戦をせずに済むのだ。
それに生きている人との合流も出来たので、やれる事もかなり増えた――――
等と考えていた時にふと紅葉は思う。まだこの女子の名前を聞いていないではないか、と。着ている制服からして紅葉と同じくこの学校の生徒らしいが、見覚えがないので他のクラスか別学年の女子だろう。相手としても紅葉の事は知らない筈だ。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。私の名前は秋川紅葉。よろしく」
「あ、私は
紅葉が自分の名を告げれば、女子生徒こと海未も名前を教えてくれた。
「しかし、よく生き延びていたな。三階の教室に逃げ込んでいたのか?」
「うん……私、昨日ゾンビが出た時は部活でグラウンドにいて……野球部のバットを手に持って、三階の教室まで逃げ込んで……でも喉が乾いて、水を飲みたくなったからトイレまで行こうって考えて……」
「……無理に答えなくても良いが、他の人は?」
紅葉が尋ねたところ、海未は首を横に振った。予想通りの答えだ。複数人で生き延びていたなら、安全圏から出る時は見張り役や実行役など数人で来る筈。そうしなかった以上、海未は一人で生き延びたと考えるのが自然である。
しかしそれをバッドニュースと呼ぶつもりは紅葉にはない。少なくとも紅葉からしたら、一人仲間が増えたのだ。どうしてそれを悲しむ必要があるのか。
仲間が増えればやれる事が増える。危険も避けられるし、自分だけでは思い付かなかった事も考えられる。
人間は協力し合える生き物だ。協力する事で過酷な自然界を生き抜き、今日の繁栄を手に入れた。ゾンビ相手でもそれは変わらない。協力すれば ― 必ず、などと願望混じりの希望は抱かないが ― このゾンビ事変の中を生き抜く力となるだろう。
「分かった、これ以上は聞かない。あなたが良ければ、これからは一緒に行動しないか? 一緒に行動した方が、生き残る可能性が上がる筈だ」
「う、うん。私も、そう出来たら……嬉しい……」
提案をすると明るい笑みを浮かべ、しかしすぐに顔を俯かせる海未。
ゾンビを倒した時の勇ましさは何処に、とも思うが、あんなのが平時の姿である訳もない。助けたいという気持ちに突き動かされて、無我夢中で暴力的な行動に出たのだろう。
恐らく、根は優しくて大人しいタイプなのだ。
よく見れば、海未の目許は真っ赤に腫れていた。きっと昨日からずっと泣いていたのだと思われる。部活動をしていたとの事だから、友達が喰われたところを見た可能性も否定出来ない。勿論その友達が起き上がり、襲い掛かってきた可能性も。精神的に参っていても仕方ないというものだ。
彼女と共にやりたい事はある。
しかし今は、あまり無茶はさせたくない。だから紅葉は何も言わず、そっと海未の傍に寄り添った。海未は最初キョトンとしていたが、紅葉の意図に気付いたらしい。
「う、ぅ、うわああああああ! 怖かった! 怖かったよおぉぉぉ!」
海未は大きな声で泣きながら、紅葉に抱き着いてきた。
存分に泣けば良い。泣くのはストレス解消に役立つという研究報告もあるぐらいだ。それで気持ちが落ち着くのなら、自分にとっても『得』なのだから。
そう、合理的に考える紅葉だったが……一つ、困った事が起きてしまう。
「(……不味いな。私の涙腺も、かなり緩んでいるぞ)」
泣けばストレス発散になる。精神的にはその方が良いのは分かっているが、紅葉はそれをする訳にはいかない。
だって、知らない人に涙を見せるなんて、想像するだけで凄く恥ずかしいのだから。
……………
………
…
図書室の窓から見える景色は、今やすっかり茜色になっていた。
紅葉と海未が出会ったのは朝早く。ざっと十時間近く経っているだろうか。しかしその間海未がずっと泣いていた訳ではない。彼女がわんわん騒いでいたのは、精々一時間ぐらいだ。
では残りの九時間は何をしていたかと言えば――――膝枕。
泣き疲れた海未は、紅葉の膝の上で寝てしまったのである。疲れているのは理解しているが、まさか眠ってしまうとは。割と困った事になったと紅葉は思ったが、しかし寝てしまうからには余程疲れていた筈であり、それを起こすのも良くない気がして手が出せず。
結果、紅葉は身動きが取れず、九時間膝を貸し続けてしまったのだ。今思うと別にお昼ぐらいに起こせば良かったような気もするが、その時間も過ぎてしまい、伸ばし伸ばしで今に至る。
とはいえ流石に寝過ぎだ。もうすぐ夜になってしまう。夜の見回りを頼むなら兎も角、そうでないならあまり夜ふかしはさせたくない。
「おーい。そろそろ起きないかー」
身体を揺すりながら、海未に声を掛けてみる。
九時間も寝ていたからか。軽い揺さぶりで海未はすぐに目覚めた。片手で目を擦り、ゆっくりと身体を起こす。
しばらくぼぅっとしていたが、紅葉としばし見つめ合っていたところ、一気にその顔を赤くした。次いで跳び退くように紅葉から離れていく。
そこまで急いで離れなくても、と思った紅葉は自然と笑みを浮かべた。尤も、その笑みはますます海未を萎縮させてしまったようだが。
「ご、ごめんなさい。あの、つい……」
「気にしなくて良い。疲れていたなら、こういう事もあるだろう……むしろ話をしたい側としては、あなたの心身が回復している方が望ましいからな」
「話?」
海未は首を傾げながら、紅葉の言葉に耳を傾けてくる。その身体はやや強張り気味だ。真面目な話だと思ったのかも知れない。
実際真面目な話ではあるが、しかし緊張してもらうほどの事ではない。
「そこまで緊張しなくて良い。明日、やりたい事があってね。その予定を話し合いたいんだ」
「明日? ……えっと、助けを探しに行く、とか?」
「それをするための下準備、の更に下準備といったところかな」
紅葉の語る言葉に、海未は困惑した様子を見せる。
そんな彼女に紅葉は自分の『要求』を、ハッキリと伝える事にした。
「明日は食糧と水を入れる容器を探しに行きたい。一人では遠出なんて無理だったが、二人ならやれると思うからね」
トイレまでの小移動どころではない、この状況下ではちょっとした冒険に値する行いがしたいと――――
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