探検初日

「……さて、周りには……誰もいないな」


 図書室の扉を開け、ゆっくりと外に頭を出してから、ぽつりと紅葉は独りごちた。

 図書室の左右に伸びる廊下。極めて見晴らしの良いその場所に、ゾンビの姿は一体も見られない。

 耳を澄ましてみたが、うーだのあーだの、呻き声も聞こえてこなかった。廊下を歩く音、何かを引きずる音も聞こえてこない。そして何より気配がない。

 どうやら廊下は安全なようだ。


「(音にはあまり反応していなかったと思うが、念のため静かに行動するとしよう)」


 何事も悪い方に考えておき、最悪に備える。そっと扉を閉じた後、紅葉は改めて左右を見渡す。

 やはりゾンビはいない。安全を確保したところで、紅葉は早速動き出す――――という事はせず深く深呼吸。気持ちを落ち着かせ、次いで自分が『すべき事』を思い返す。

 まず、自分は「何を求めている」のか。

 目的を曖昧にしてはならない。それは行動に迷いを生じさせるし、何より人間をにしてしまう。つまるところ退き際を見誤る一因となる訳だ。命の危険があるのだから、目的を遂げたらすぐに室内へと戻った方が良い。欲張りは身を滅ぼす。

 さて。では今回の目標は何か?

 水だ。兎にも角にも水の補給が必要である。昨日の夕方から水を一口も飲んでいないため、かなり水分が不足している筈。このままではあと二〜三日で命に関わる状態になってしまうかも知れない。その状態を解消するのが最優先目標だ。

 とはいえ自分の『身体』に水を溜め込んだところで、翌朝全部尿として出てくるのがオチだ。これでは例えば今日水道が止まった場合、三日後にはこの場所からの移動を強いられる。そうならないよう水の備蓄が必要であり、そのためには容器が必要である。だからペットボトルや空き缶などの確保が次点の目標と言えよう。

 そして食べ物……欲求的には一番欲しい気もするが、人間の身体は飢餓に対してそこそこ丈夫だ。三週間食べなくても生きていけるのだから、優先順位は高くない。よって食べ物探しは三番目。

 最優先目標が成し遂げられれば、その時点で今日の探索は終わりにする。二番目三番目は道中で達成出来たら良し程度。これを忘れず、そして欲張ってはならない。


「……行くか」


 方針を復習してから、紅葉は歩き出す。

 足音を立てないよう慎重に廊下を進みながら、目指す場所はトイレ。

 水道があれば何処でも良くて、図書室のある三階では水場がそこしかなかった。勿論飲み水に活用するのはトイレではなく、洗面台から出てくる水だ。塩素が身体に悪いだの発ガン性物質だの色々言われているものの、日本の水道水であれば基本飲用に使える。

 兎にも角にも水道に行けば、一先ず脱水による死は数日遠ざけられる筈だ。


「……………」


 廊下にゾンビの姿もないので、慎重な足取りでも三分と掛からずトイレには辿り着いた。しかし安心したり、焦ったりしてはならない。中にゾンビがひしめいている可能性もあるのだ。恐る恐る、紅葉は中を覗き込む。

 とはいえ気配は全く感じられない。

 『悪癖』で感じた通り、中にゾンビの姿はなかった。扉が開いている個室の中は、覗き込むには少しばかり深入りせねばならない。そこまでリスクを犯したところで、奥に潜むゾンビを刺激するだけ。なんの得にもならないのだから、そちらに意識を向けて奇襲を避けるだけで良いだろう。

 ちらちらとトイレの奥を横目に見つつ、紅葉はトイレ内へと足を踏み入れた。真っ先に向かうのは、言うまでもなく手洗い場。蛇口を捻り、出てきた水を両手で受け止める。


「ん……………ぷは」


 それを口に含み、飲んで、一息吐く。

 そのまま紅葉はしばし棒立ち。

 数秒後――――自分が『放心』していた事に、紅葉はようやく気付いた。


「はっ!? いかんいかん、こんなところで呆けるなんて……」


 誰かが周りを警戒しているなら兎も角、今は自分一人だけ。この状況下で放心するなど自殺行為も良いところだ。一体自分は何をしていたのかと、ほとほと呆れてしまう。

 しかし考えてみれば、それは自分が予想していた以上に疲弊した証なのだと気付く。

 正直、紅葉はゾッとした。

 確かに精神的に万全だとは微塵も思っていない。それでもある程度は自分を客観視出来ていたと、体調を問題なく管理出来ていると考えていた。

 実際はどうだ? 水を飲んだだけで呆けてしまうぐらい、心身は限界だった。


「(落ち着け、あまり深く考えるな……こんな状況初めてなんだから、何もかも上手くいく訳がない……)」


 反省はする。しかし後悔はしない。失敗は失敗だが、取り返しの付かないものではないのだ。

 それよりも今は水を飲もう。出しっぱなしの水道に再び手を出し、掬い上げて飲む。一口目とは違い多少は渇きが癒えた後、加えて意識も強く持っていたので放心まではいかなかった。それでも吐息は口から漏れ出たが。

 このままもう一口、といきたかったが、紅葉はその手を止める。

 トイレの外から『気配』がしたために。


「(クソっ。もう嗅ぎ付けたか……!)」


 来たのがゾンビか人かは分からない。だが想定すべきは最悪だ。

 一瞬脳裏を過ぎったのは、トイレの奥にある掃除道具置き場から、モップを取るべきではないかという考え。しかし即座にそれは切り捨てた。確かに武器があれば心強いが、生憎紅葉の身体能力では気持ちマシになる程度。そもそもゾンビは恐らく死体だ。戦ったところで

 むしろモップを取りに行く時間が惜しい。そう判断した紅葉は、すぐにトイレから出る。

 トイレから出てみれば、感じた通りゾンビが廊下にいた。

 階段を上がってきたらしく、二体が床を這いずっていた。歩いて階段は進めなくとも、腹ばいでなら上るのも大して難しくはあるまい。とはいえ階段が終わったからか立ち上がろうとしているが、腕を上手く動かせないようで中々出来ないでいるようだったが。

 やはり身体能力は高くないようだ。昨日のようにだだっ広い住宅地で延々と追い駆けっこをするなら兎も角、トイレから図書室までの短い道のりなら捕まる理由はない。

 このまま余裕を持って逃げさせてもらおう。そう考えていたのだが――――


「あ、これは不味い……」


 逃げようとした方向を見て、紅葉は思わず呟く。

 図書室の方から、ゾンビが来ていたのだ。


「あぁう、うぅうあぁああぁ」


 数は一体。女子生徒のゾンビらしく、この高校の制服を着ていた。可愛らしい顔立ちをしているが、血色を失い、目を白濁にし、だらだらと涎を垂れ流す様に魅力を感じる者はまずいないだろう。呻く声にも、年頃の女子高生らしさは微塵もなし。

 等と見た目については、この際どうでも良い事だ。問題なのは、ゾンビが図書室への行く手を塞いでいる事実。そして背後には階段を上ってきたゾンビがいる。

 ものの見事に挟まれていた。


「(ああクソっ! いきなりこれか! 逃げ場なんて教室しかないが……!)」


 教室に逃げ込もうと思えば、簡単に逃げ込めるだろう。しかしそこは自ら袋小路に飛び込むようなもの。後から脱出出来るのか?

 尤も、悩んでいる余裕はない。このままではどの道挟み撃ちで捕まるだけだ。首を横に振り、紅葉は教室内に逃げ込もうとした

 寸前、気配がのを感じた。

 新しいゾンビが現れたのか? 一瞬そんな考えも過ぎったが、すぐに違うと気付く。気配の近付き方が、ゾンビのそれとは全く違う……猛烈な速さだったからだ。


「たああああああああっ!」


 ましてやこんな、気合いの入った少女の声を上げる筈もない。

 声がしたのは図書室へと通じる方の道。紅葉は目を細めながら、ゾンビの向こう側を見遣る。

 するとそこには、一人の女子生徒がいた。

 身長百七十センチ近くあるだろう、大柄な体躯。女子としてはかなりガッチリとした身体付きで、それなりに激しい運動で鍛えてきた事が窺い知れた。こう言うのも難だが、普段の紅葉であればあまり話し掛けないタイプである。

 そしてその顔は、生気に満ち溢れている。

 笑顔という訳ではない。むしろかなり強張っていて、恐怖心が露わになっているようだ。笑えば可愛いように見える整った顔も、こうも強張っては愛らしさなど感じる余裕はない。

 だからこそ、それは生きた人間の顔だと言えよう。

 尤も仮に顔が見えずとも、ゾンビの頭目掛けて力いっぱい金属バットを振るう動きを見れば、生きた人間だと一瞬で確信出来ただろうが。


「あぁあ」


「う、うああああああっ! わああぁぁああああッ!」


 殴られても呻くだけのゾンビの頭に、女子は何度も何度も金属バットを叩き付ける。

 本当に、手加減なしの打撃だ。何しろゾンビの頭が歪み、割れた額から『中身』が出てきたのだから。


「うぐ……あ、これは、うぶ」


 内臓のはみ出したゾンビを紅葉は何体も見てきたが、流石に頭の中身が飛び出す光景には我慢が利かず。吐き気から胃液が逆流してくる。

 昨日の夕方から水しか飲んでいないのが幸いした。もしも胃に固形物が入っていたら、間違いなく吐いていただろう。人間として恥ずかしいだけでなく、後ろのゾンビが臭いで活性化したかも知れない。

 グロテスクな光景を作り上げた女子は、未だ執拗にゾンビの頭を叩き潰す。そうしているとゾンビの方もついに動かなくなり、女子は息を荒らげながらしばしゾンビを見下ろした。

 それからようやく紅葉の方を見た。目は血走っていて、一見正気を失っているようにも見えるが……


「大丈夫!? 怪我はない!?」


 そんな心配は、こちらを気遣う言葉一つであっさりと吹き飛んだが。

 彼女は正気だ。少なくとも会話が出来る程度には。ならば伸ばした手を拒む理由などない。


「ああ、私は大丈夫だ。それよりも早く逃げよう」


「ええ勿論! 流石にもう二体相手は無理よ!」


「いや、三体だ」


 紅葉は今し方この女子がバットで倒したゾンビを指差す。

 頭が割れて、中身が出ているゾンビ。

 ゲームや映画ならばとうに死んでいるであろうそれは、しかしぐちゃぐちゃに潰れた目玉がぎょろりと動く。更には四肢を動かし、再び立ち上がろうとしていた。

 頭を潰しても、このゾンビは動きを止めないようだ。


「え、ええええええっ!? なん、なんで!? なんで動いてるのぉ!?」


 その事実を女子は初めて知ったらしい。先の狂気的な勇ましさは何処へやら、すっかり怯えきってしまった。

 恐らく足も竦んで、ろくに動けない事だろう。


「ほら、動揺していないでこっちに逃げるぞ」


 紅葉が力強く引っ張れば、女子は覚束ない足取りで大人しく付いてくる。幸い頭を叩き潰したゾンビも足は遅く、女子の覚束ない足でも中々距離は縮まらない。図書室に逃げ込む事は可能だ。

 助けられたのは自分の筈なのに、何やら印象が逆転しているような……紅葉はそんな気持ちになっていたが、しかしそれを口に出すつもりはない。

 むしろ、隠すのに必死になっていた。

 ようやく出会えた生きた人間。その事実が嬉しくて、思わず口許が弛んでしまいそうになっていたのだから……

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