変わらない朝
【うん、じゃあねお姉。また後で連絡するから】
「ああ。またな」
スマホ越しに聞こえる、妹からの声。その声に別れを告げた紅葉は、通話を切るのと同時に息を吐く。
時刻は朝八時を過ぎたばかり。
約束通り午前七時ちょっと過ぎにメッセージを送ったところ、妹からの返事は電話だった。安全な図書室の中だったので通話に出て、他愛ない話を交わし……気付けば一時間。
「(母さんか父さんがいたら、小言の一つぐらいはありそうなものだがね)」
本来なら毎日する予定の長電話を、親に報告すべきだろう。長電話自体は怒られても仕方ないとも思う。だが、その親とは今も連絡が取れていない。
メッセージを送ってすぐに返信が来ないのは、逃げている最中や誰かと話している最中、バリケードを立てている最中など、取り急ぎ何かをしているかも知れないのだから仕方ない。だが一晩経っても連絡が来ないのは……
最悪を考えそうになって、紅葉は首を横に振る。連絡がないから親はもう駄目だ、なんて決め付けるのはあまりにも想像力が足りない。スマホを落とした、電池切れした、電波が届かない場所にいる、局所的なEMP攻撃を受けた……最後は早々ないだろうが、他三つは普通にあり得る。希望的観測に拘るのは良くないにしても、絶望するのはまだ早い。
親についてはひとまず思考の隅に置いておく。それとは別に、考えを巡らせたい事があった。
『世界』の情勢だ。正確には日本国内の情勢、つまりゾンビ被害がどれほど広がっているのか、という点である。
「(通話が出来たからには、携帯会社の基地局は無事なようだ。それに電力も問題なく来ている。図書室のコンセントでスマホの充電が出来たから間違いない)」
こうした異常事態では、電気も通信もすぐ止まりそうなイメージがある。
されど考えてみれば、地震や洪水などの自然災害では地形レベルでの『破壊』が伴うが、ゾンビ災害でそのようなものは恐らくない。ゾンビ達の目的が人類滅亡なら色々攻撃的な行動も取るかも知れないが、昨日の追い駆けっこを思い返すに、目的を持てるほど立派な脳みそは備わっていないように思える。ゾンビ達がインフラを破壊せず、一晩経った今でも家電が使えるのは不思議な話ではない。
しかし、では今後も問題なく使えるのかといえば、それはまた別の話。
「……被害は拡大しているようだな」
ネットは実に便利だ。知りたい事も、知りたくない事も、調べれば教えてくれる。
スマホでネットに繋いでみれば、『ゾンビ騒動』について多くの記事が見られた。ゾンビ、と断言したニュースはなかったが……記載されている『存在』の特徴からして、紅葉が遭遇したゾンビと同じものだと思われる。
ゾンビの発生源は不明だが、紅葉達の暮らす町が最初に被害の報告があった場所らしい。決して不自然な話ではない。何しろ紅葉は実際に出会うまでその存在を知らなかったのだから。ゾンビ発生なんて面白い話題、何処かで先に発生していればとっくに報道されている。今、目の前にあるニュースのように。
さて。そのニュース曰く、ゾンビは勢力をゆっくりと、しかし止まる事なく拡大。今(深夜十二時頃)や被害は隣町まで広がっていて、現在もゾンビは増え続けているという。警察が対応しているものの、ゾンビの進行は止まったり衰えたりするどころか、数の増加に伴い加速しているそうだ。何しろゾンビ達は人の話を聞かず、問答無用で襲い掛かる。かといって警察官は建前上警告をしない訳にはいかず、凶器を持っていない市民に対して銃も撃てない。警棒などで『近接戦』を挑み、噛まれ、ゾンビ化した者も少なくないようだ。
現状、政府はゾンビとは呼んでおらず、暴徒と呼称している。流石に普通の暴動ではない認識のようだが、現在対応を協議中との事で、具体的な方針は……近隣住民の避難を除けば……出ていない。
このかつてない『暴動』を抑えるため自衛隊の出動が必要ではないかという専門家もいるが、政府はその点については及び腰だ。「首謀者との対話を最優先に行う」との発言は最早ギャグである。メディアも政府発言を危機感が足りないと非難しつつ、一部を除き、自衛隊出動という意見には否定的なようだ。
何を悠長な、と『被害者』である紅葉は言いたい。しかし冷静に考えれば、政府やメディアの反応は至極真っ当だ。何しろゾンビは元を辿れば国民であり、人を食い殺す前までは(きっと大半は)善良な市民である。それを如何にもゾンビっぽい行動をしているから撃ち殺す、というのは流石に強権が過ぎるだろう。加えて映画よろしくウイルスや寄生虫の仕業だとすれば、治療出来る可能性は捨てきれない。紅葉はゾンビ達を死体と判断したが、所詮は素人判断であるし、怪我の程度次第では治療可能という考えは否定出来ないのだ。それを容赦なく撃ち殺すのはいくらなんでも不味い。
勿論、兎に角ゾンビなんて撃ち殺せ、という意見もあるだろう。だがゾンビの親族の身となって考えれば? 自分の子供や親が、ゾンビになったからという理由で国民の味方である自衛隊に機関銃で撃ち殺され、戦車でぐちゃぐちゃに踏み潰されても、まぁ仕方ないと納得出来るのか? 噛まれた家族を、お前はゾンビになるといって治療もせず、結果ゾンビになって「ほれ見た事か」と言われて頷けるのか?
自分に出来ない事を、他人に求めるワガママというものだ。仮に、自分は出来ると平然という者がいたなら……紅葉はそんな輩と友達にはなりたくない。そいつはゾンビ云々の前に人間として明らかに危険である。
つまるところ、これは異常事態なのだ。対策マニュアルも何もなく、民主主義国家故に政府は国の安定のみならず国民の『支持』も考えなければならない。分断した民意を武力で抑え込む事は出来ず、国際社会の世論も完全には無視出来ない。非常時の対応が遅く、手緩くなるのは、民主主義の弱点である。
「(ま、政府を責めなきゃ早く助けが来る訳じゃないがね)」
ゾンビ達の数はどんどん増えている。警察で止められるとは思えないので、恐らくこのまま増加は続くだろう。仮に今日中に自衛隊が出動したとして、ゾンビの襲撃を撃退しながら国民を救助するのは中々難しい筈だ。或いはそもそも被害地域は後回しにして、ゾンビの侵出が予想される地域の救助を優先するかも知れない。
いずれにせよ紅葉達、被害地域のど真ん中にいる住民が救助されるのは、甘く見積もっても数日は後の話だろう。
数日間、果たして電気は絶え間なく届くのだろうか? 車で逃げようとした人が何処かの電柱に激突して、電柱が倒れる事で停電を起こすかも知れない。或いは火事が起きて、けれども消防車なんて来ないために拡大し、広範囲の電線が焼き切れる可能性もある。基地局だって何時まで無事なのか。壊れたからといって、事態が収まるまでは復旧出来まい。
数日後、果たして自分は妹と話が出来るだろうか。
「……普通、一番に心配するところがそれかね」
救助よりも妹との会話を心配するとは。我ながら度し難いと、ため息を吐く紅葉。
紅葉はシスコンという訳ではないのだが、現状唯一会話が出来ている『生存者』に精神的にかなり縋っているらしい。客観的に考えるとあまり良くない精神状態だと紅葉自身思う。妹が万が一にも死んだなら、衝動のまま学校を飛び出し、ゾンビだらけの町を全力疾走で駆け抜けるかも知れない。そして恐らく妹も同じ精神状態である。妹のためにも、何がなんでも生き延びねばなるまい。
では、生き残るためには何が必要か?
勿論未来の展望は大事だ。後の事を考えず、分かっていた死を避けきれないのは間抜けというもの。しかしながら人間の身体というのは、割と刹那的な作りをしている。未来のために今迫る死を回避出来るほど、融通は利かない。
具体的には、ぐきゅるるるる、と鳴り響く腹の音。
「……まぁ、夕飯食べてないからな」
三大欲求を主張する腹を擦りながら、紅葉は天井を仰いだ。
人間の身体には飢餓に対する備えがある。具体的には肝臓や筋肉に蓄えられたグリコーゲン、そして現代社会では悪魔のように扱われる腹の脂肪だ。飢餓時はこれらを分解し、基礎代謝量などにもよるが、二〜四週間程度生きられるという。
が、実際にはそこまで生存するのは困難だ。何故なら食べ物よりも大事なものが存在する。
水だ。水なしでは長くとも五日程度で死に至ると言われている。夏場のように大量の汗を掻く環境なら一日と持つまい。今の季節は涼やかな秋なので、そこまで大量の水分喪失はないだろうが……しかし紅葉は昨日、全力疾走をして軽く汗を掻いた。あまり『余裕』はないだろう。
サバイバルの方法として、水がない時は尿を飲むと良いとされている。出したばかりの尿は基本的に無菌であり、精神的な問題を抜きにすれば(雑菌や重金属汚染されているかも知れない川の水よりは)飲水に使える。とはいえ尿は基本いらない物質を出すための生理作用であり、それを緊急回避以上に飲む事はやはり不健康だ。度を過ぎれば腎不全などを引き起こす。
明日には救助が来るという状況なら、無理に水を得ようとする必要はない。どうしても 喉が乾いたら尿で我慢すれば良い。しかし先行きが見通せない中、長期間使えない手段に今から頼るのは失策だろう。
勿論、ギリギリまで粘るというのも一つの手だが……状況が変わらない、或いは好転するなら兎も角、悪化した場合ジリ貧という事も考えられる。例えば食べ物なら数日経てば腐敗して食べられないし、水も水道が止まれば出なくなってしまう。何より身体が弱っていては、いざという時に何も出来ない。
だが今なら、図書室に電気が通っているなら、蛇口を捻れば水も出る筈。食べ物も、ゾンビ騒動の混乱で投げ捨てられた鞄の中にある、お弁当の残り物ぐらいは見付けられるかも知れない。探索中にゾンビに追われても、走って逃げるだけの体力もある。
動くならば早い方が良い。
「……とりあえず、水だな」
生き抜くために、今はリスクを犯す。
覚悟を決めたところで、立ち上がった紅葉は図書室の扉の方へと向うのだった。
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