一時の安寧

「あぁあ、うぅうあぁああ……」


「ああぁぁぁ……」


 校舎内の階段の下で、ゾンビ達が群れている。

 いや、群れる、というのは正しくない。階段を登ろうとして、段差を踏み外して転んでいるのだ。勿論立ち上がるなり、或いは這いずるなりでそのまま前に進めば良いのだが……群がる他のゾンビに掴まれ、引きずり降ろされている。中には転んだ拍子に足が折れたり、腕が取れたりしていた。

 どうやらゾンビ達に『協調性』はないようだ。この調子なら階段を上るのにまだしばらくは掛かるだろう。


「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……んっ……はぁ……!」


 学校の校舎内に逃げ込んだ紅葉は、ゾンビ達のそんな醜態を階段の上から見下ろす。

 走り方がてんでなっていない事から階段は上れないと考えていたが、その通りの、或いは予想以上の状態になっていた。半ば賭けだったが、これなら逃げられる。

 とはいえ全く上れない訳ではない。今は足の引っ張り合いでずるずると落ちているが、ゾンビ達の群れが散開すれば時間を掛けて進めるだろうし、或いはもっと群れれば押し出すように階段を上るかも知れない。

 それに。


「ぅ、う、ぅ……」


 が、紅葉がいる二階廊下を歩いていた。

 階段の上も安全ではない。紅葉は倒れたくなる身体に鞭を打ち、更に階段を上がっていく。

 三階に辿り着いたら、まずは周囲の確認。ゾンビの姿が見られない事を確かめ、それから一直線にある場所を目指す。

 目的地は図書室だ。扉を開ける前に、まずは意識を集中させる。

 ……室内に、気配は感じられない。

 『悪癖』のお陰で中の様子が覗き込まずとも分かる。しかし念には念を入れ、扉に耳を当てて物音の有無も確かめた。こちらも聞こえてくるものはない。最後に扉を開けて、恐る恐る中を覗き込む。

 ゾンビ、もとい人の姿はない。

 とはいえ図書室はそれなりに広い。本棚の影に寝転んだ人物がいたとしてもおかしくないだろう。故に紅葉は図書室内を念入りに見回りする。それなり程度の広さなので見回りに二分も掛からないが、それでもテーブルの下や棚の裏など、死角になる場所を何度も何度も見直す。四回ほど見直して本当に誰もいない事を確かめたら、扉の内鍵を掛ける。

 そこまでやってから、紅葉はへろへろと床に倒れた。


「も、無理……動けん……」


 このまま眠ってしまおうか。そう思うほどに身体は疲弊し、瞼が段々と重くなるのを感じる。

 しかし紅葉は顔を横に振り、どうにか眠気を払う。荒い呼吸で酸素を取り込み、少しでも早く疲労を回復させようとした。

 努力の甲斐があったかは分からないが、十分ほどで幾ばくか身体は動けるようになった。残るだるさを堪えて立ち上がり、紅葉は歩き出す。

 その足で向かったのは、図書室の窓。

 三階からの景色はとても見晴らしの良いものだ。高校のグラウンドと外の町並みが一望出来る。とはいえ帰る時には夕方だった事もあり、今や外はすっかり暗い。距離の遠さもあって流石に町の様子を事細かに知るのは難しいが……高校の敷地内には何本か外灯が設置されており、夜になった事で自動的に点灯していた。お陰で敷地内であれば観察するのに支障はない。

 それが良いか悪いかは別にして。


「あっ……」


 外を見ていた紅葉は見付けてしまった。グラウンドを走る人、そしてその人を追うゾンビ達の姿を。

 走っている人は若い男、のように見えた。流石に三階から見下ろしているため、正確な顔や年齢は分からない。スーツ姿なので恐らく成人の高校部外者なのだろう。一生懸命走っているが、左右にぐわんぐわんと揺れ動く姿を見るに疲労困憊な様子。追ってくるゾンビとの距離はどんどん狭まっている。

 それでも校舎の中に逃げ込めたなら、階段を利用して振り切れただろうが……恐怖に負けて大きく後ろを振り向いたのが失敗だったのか。段差か石にでも躓いたのか、派手に転んでしまった。

 疲れている身体では受け身も取れず、相当痛かっただろう。そして立ち上がろうにも、披露した腕と足に力が入らない。バタバタと脚を捥がれた蟻のように暴れるばかり。

 五秒もあればまた立ち上がれたかも知れない。だがのろまなゾンビ達であっても五秒の猶予はくれなかった。

 ゾンビ達は倒れている男に覆い被さり、そして男は悲鳴を上げた。走っていた時の疲れを感じさせない、大絶叫だ。三階にいる紅葉の耳にもハッキリと聞こえる。

 やがて悲鳴が途絶えた頃、男の身体の下に黒々とした液体が水溜まりを作る。


「……駄目だったか」


 生存者がどんな人物だったかは分からない。しかし人並に常識的であったなら、この非常時を生き抜くために協力し合えたかも知れない。それを思うと悔しくて、何より一人の人間が命を落とした事実に胸を痛める。

 だが、紅葉の悪癖はそんな理性の衝動を上回った。

 紅葉は見つめた。これから何が起きるのか、ゾンビ達がどのように行動するのか、それを知るために。

 ゾンビ達は押し倒した男を激しく喰らって(厳密には噛んでいるだけなのだろうが)いたが、その行動はほんの数分で終わった。遠目で見る限り男の身体はまだちゃんと残っているにも拘らず、次々に離れていく。

 やがて男の、赤く染まってはいるが原型を留めた身体だけが残された。

 そしてその身からゾンビ達が離れて一分もした頃、男は跳ねるように身体を動かし始める。それを五回ほど繰り返すと男はまた動かなくなり……次いでゆっくりと、自力で立ち上がった。

 立ち上がった後の男の動きは、ゆらゆらとした、まるでゾンビのようなものだった。


「……成程。そういう事か」


 『観察』した結果を噛み締めながら、紅葉は窓に背を向けた。そのまま壁に寄り掛かるように腰を落とし、座り込む。

 何故、朝まで存在していた筈の平穏が失われたのか。

 ひとまずその答えは得られた。ゾンビに噛まれた人間はゾンビになる、というのは映画やゲームにおけるお約束に一つだが、此度現れた現実のゾンビも同じらしい。死んでしまったら五分ほどでゾンビと化し、腹部や首など肉体の損傷に関係なく動き出す。またウイルスのような生物的要素がゾンビ化の原因だとすれば、死体とはいえ五分で宿主の身体を征服する脅威の増殖力の持ち主と言える。例え死なずとも、噛まれるだけでゾンビ化するかも知れない。

 仮に、次の獲物を探すのに一分掛かるとして、六分で個体数が増えると仮定すれば……理論上は二時間で約百五万体まで増える。勿論これはあくまでも理想の話。定期的に次の獲物がのこのこ現れて大人しく噛まれるという無茶な想定であり、実際にはそこまで急速に増える事は出来ないだろう。だが増殖速度が倍の十二分だとしても四時間、更にその倍の二十四分だとしても八時間で同じ結果だ。町の住人の大半がゾンビ化するのに、大した時間は必要ないという事は分かる。

 現状この町にどの程度ゾンビがいるかは不明だが、最悪を想定すれば町の人口の大半がゾンビ化していてもおかしくない訳だ。流石はゾンビと言うべきか――――


「(いや、そもそもアレは本当にゾンビなのか? というよりなんなんだアレは)」


 考えていた時に、ふと、根本的な疑問が過る。

 動く死体という事でゾンビと呼んだ。しかしゾンビというのは架空の存在である。現実の存在ではない。

 だがこうして現れたからには、現実世界のルール……様々な物理法則に従った存在の筈だ。少なくともブードゥー教の技術から生まれた、科学の欠片もないような神秘的存在ではあるまい。

 生存のためにも、相手の正体を理解する事から始めるべきだろう。相手を知らなければ、正しい対処を行うなど出来やしない。

 そして理解しなければ、きっと先程グラウンドで襲われた男のようになってしまう。


「(まぁ、正直私が考えたところで解けない謎ばかりだが)」


 どうして突然ゾンビが出現したのか、どうして死体が動くのか。そうした根本的な謎は、専門的な研究者がチームで挑まねば解明出来まい。

 今の自分に出来るのは、兎に角生き延びる事だけだ。生きていればいずれ救助が来るかも知れない。

 しかしこれだけゾンビだらけで、果たして消防や警察がすぐに助けてくれるだろうか。それよりも自力で家まで帰る方法を考えるべきか――――


「っ! そうだ、母さん達は……!」


 今まで自分の事で手いっぱいで失念していた。家族の無事を確認せねばと思い、スマホを手に取る。

 最初にしようとしたのは電話。だが実際に掛ける前にその手を止めた。

 ゾンビは臭いに反応して人間を襲っている。紅葉が逃げながら導き出したゾンビの習性だが、されど聴覚や視覚が完全にないとは限らない。人間が『五感』で世界を認識しているように、ゾンビも複合的な感覚で人間を捕捉している可能性はまだ残っている。

 もしも家族が何処かに身を潜めている時、電話を掛けるのは正解だろうか? 五月蝿く鳴り響くコール音は、ゾンビを引き寄せないのか? マナーモードならぶるりと震わせるだけで済むが、しかしそれで家族を驚かせてしまい、物音を立てさせてしまう可能性もある。

 万が一を考えれば、電話をするという選択はない。思い留まった後、無意識に強張らせた身体を解すようにため息を吐く。

 慌てても良い事はない。急いで連絡しても仕方ないのだ。


「(そうだ、安否が確認出来れば良いんだから、声を聞く必要はない。後で確認して、後で連絡を返してくれれば良い)」


 ならばメッセージを出せば良い。

 勿論そのまま相手にショートメッセージを送っては、通話と同じく音を鳴らしてしまう。そこで紅葉はスマホでネットに接続。『災害用伝言板』を使う事にした。

 災害用伝言版は緊急時に作られる、特殊な掲示板だ。本来の用途は地震や水害時の連絡用なのだが……思った通り、ゾンビでも掲示板は作られていた。ここにメッセージを書き込む。こうすればスマホの電話番号から紅葉のメッセージを検索可能だ。あまり長いメッセージは書けないので詳細は伝えられないが、無事である旨を書ければひとまず十分だろう。

 メッセージを送信し、紅葉は一息吐く。これで家族の中の誰かが災害用伝言版の存在を思い出せば、紅葉の書き込んだ内容を見付けてくれる筈だ。

 自分の状況を把握したら、今度は自分が家族の安否を確かめる。家族のスマホの電話番号を入力し、メッセージの登録がないか確認

 しようとした時に、スマホがぶるぶると震え出した。

 驚きながら画面を見れば、電話だと表示されていた。掛けてきたのは、妹のスマホ。


「もしも」


【お姉! お姉ぇ!】


 すぐさま電話に出ると、嗚咽混じりの声で叫ばれた。

 妹の声だ。それに自分を「お姉」と呼ぶのは、妹以外にあり得ない。間違いなく、電話に出たのは妹だった。

 ……自分が思っていた『非常時』を妹は想定していなかったようだが、しかしそんなのは紅葉にとって些末な問題だ。家族の無事を知る事が出来たのだから。


「良かった、無事だったか……母さんと父さんは?」


【ま、まだ、家に、帰ってない……電話、したけど、ふ、二人共、出なくて……お、お姉も出なかったらって、思ったら、怖くて……!】


「すまない。連絡が遅くなったのは謝る。だから落ち着け。大切な話をするから、よく聞くんだ」


 余程心細かったのだろう。泣きっぱなしの妹を宥めながら、紅葉は大事な話を伝える。

 つまり、ゾンビがどんな存在であるのか。これまでの観察で分かった事を。

 臭いに反応して集まってくる事、死体となった人間がゾンビとして蘇った事、恐らく死ななくても噛まれたら不味い事……自分がこれまでに知った情報を余さず伝えた。

 次いで、大事な話をする。


「良いか? もし扉を叩く音がしても、声がなかったら開けたら駄目だ。見ず知らずの他人も入れない事。そして父さんと母さんだとしても、噛まれていたら……何処かの部屋に閉じ込める事。そうしないと、みんな助からないかも知れない」


【……分かった】


「ま、完璧に出来るとは思わないけどな」


 妹は自分と違って少々優し過ぎる。困っている人がいれば、きっと見捨てられないだろう。紅葉にとっては同じ血から生まれたとは思えないぐらい、出来た妹だ。

 だからそれはそれとして、他にも生き残るために必要な術を伝える。何時でも連絡が取れるようスマホは常に充電しておく、万一に備えてカップラーメンなど非常食をリュックに詰めておく、寝る時は部屋のドアを必ず閉める……


「連絡は定期的に取ろう。朝……七時から八時までの間にメッセージを送る。勿論、何か異常があれば返信は後回しで良い。それとトラブルが起きたら私に相談するんだ。良いな?」


【……お姉、それ割と過保護だと思う】


「何を言う。お前は何時も他人に優し過ぎて面倒に巻き込まれるんだ。こういう状況なのだからもっと警戒心を持たねば」


【はいはーい。じゃ、また明日ねー】


 説教をしようとしたところ、ぶつりと通話を切られてしまった。すぐに掛け直そうとして、過保護、という言葉が脳裏を過る。

 何を馬鹿な事を、と思いつつ、もう一度掛ける気力は失せていく。必要な情報は伝えたのだから、掛け直す必要性は、合理的に考えればもうない。


「全く。本当に手間の掛かる妹だ」


 精々悪態を吐くだけだ。

 するとどうした事か、紅葉の身体から力が抜け始めた。驚いたのも束の間、やがて強烈な睡魔が襲い掛かる。

 意図せぬ自分の身体の反応に紅葉は困惑した。一体何が起きたのかと自分の身体を『観察』しようとするが、答えはすぐに思い付く。なんて事はない。


「……そうか。安心、したのか」


 母と父とは連絡が付いていない。未だ家に帰っていないからには、最悪も想定すべきだろう。

 だけど、まだ妹は生きている。

 それだけは間違いない。最悪の中の『最悪』だけは、とりあえず今のところ考慮しなくて良い。未来がどうなるか分からないが、少なくとも今この瞬間だけは違う。

 心配事が一つ消えれば、安堵するのは普通の事だ。そして気を緩めた身体は、これまでに蓄積した疲れを癒やすべく眠りに入ろうとしている。

 それを止めようと考える気力と理由は、今のところない。


「(明日になったら、何もかも元通りに、なっていると良いのだが……)」


 あり得ない願望を鼻で笑いながら、紅葉は意識を手放す。

 明日もまた過酷な日々を生き延びるためにも、少しでも体力を回復させなければならないのだから――――

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