観察による対策
「ひぃ、ひぃ、ひぁ、あっ」
息が乱れている、というよりも最早喘いでいる。そんな息継ぎをしながら、紅葉は必死に駆けていた。
間違いなく全力疾走だ。全力全開で、死力を尽くした走りだ。
されど努力が必ず報われるのは、フィクションの中の話である。現実はそんなに甘くない。何しろ相手だって努力するし、才能の差だってある。大体努力というが、紅葉はこの十五年間ろくに走る努力をしていないインドア派。一体どうして報われると言えるのか。
紅葉の後を一生懸命に追う、疲れ知らずのゾンビの群れとの距離が詰まるのも当然と言えよう。
「(ああクソッ! 振り向く余裕がないけど分かる! めっちゃ足音が近い! もう間近まで来てる!)」
確実に迫る脅威。捕まれば、襲われていた女性のような目に遭うのは間違いない。
このままでは、ようやく見えてきた高校に逃げ込む前に捕まってしまうだろう。
学校内に逃げ込めれば勝算はある、と紅葉は考えている。ゾンビ達は自力で歩いているが、その動きはかなり不安定だ。早歩きぐらいのスピードで進んでいるが、傷だらけの身体はふらふらと左右に揺れ動いている。
平坦な道を進むだけなら問題なくとも、こんな歩き方では階段などの段差を上る事は困難な筈。対して紅葉は、疲れ果てているとはいえ階段ぐらい上れる。階段を経由すれば、疲れ果てた足でもゾンビから逃げきれる……かも知れない。
実際にゾンビが階段で転ぶところを見ていない以上、あくまでも希望的観測だ。しかし分の悪い賭けではないと紅葉は考えている。尤もどれだけ勝ち目のある賭けも、階段まで辿り着けなければ机上の空論で終わりだが。
まずはゾンビ達との距離を少しでも開けなければ。
「(考えろ考えろ考えろ! 頭を働かせろ! 今までいっぱい見てきただろ! なんか役立つ情報の一つぐらい捻り出せ!)」
幸か不幸か、紅葉はゾンビの姿を観察している。女が食べられたところも見た。十分とは言えないにしても、簡単な考察が出来るぐらいの情報はあるに違いない。
逃げながら、紅葉は思考を巡らせる。
まず考えるのは、あのゾンビ達の『生死』について。
死んでいるか、実は死んでいないか。ゾンビなんだから死んでいるに決まっている、と考えるのは早計だ。例えばハリガネムシという寄生虫は宿主(カマキリやバッタなど)の脳をコントロールし、川に飛び込ませるという。そのような寄生虫に脳が支配され、ゾンビのように振る舞っているだけかも知れない。また有名なカタツムリの寄生虫のレウコクロリディウムは脳を操り、鳥に見付かりやすい葉の上へとカタツムリを『誘導』する。寄生虫により行動を操作されるというのは、決してあり得ない話ではないのだ。そもそもゾンビという呼び名は紅葉が勝手に与えたものである。必ずしも本質を言い当てているとは限らず、あのゾンビ(らしき人間)達も実は生きている可能性がある
と、言いたいところだが……今紅葉を追っている連中については、死体と考えて良いだろう。何しろ首が取れかかっているわ、腹から内臓が飛び出しているわ、腕が千切れているわ――――普通ならば失血多量などで死んでいる怪我を奴等は負っている。あの身体の生命活動が続いているとは思えない。
死体が動いている。その前提の上で考えると、新たな謎が湧いてくる。
「(アイツら、どうやって私を認識してるんだ……?)」
寄生虫などに脳を操られているなら、ゾンビ自身の目で獲物を見て、襲い掛かる事も出来るかも知れない。しかし死体となれば、脳も目玉も死んでいる筈だ。身体はゾンビ化を引き起こしたなんらかの、ウイルスやら寄生虫やらが(理屈はどうあれ)動かしているとしても……それらが『視覚』で獲物を確認しているとは思えない。仮に目で見ているのなら、観測しているモノの姿がこちらからも見えねばおかしい。
視覚がないという考えを裏付ける情報は他にもある。女性を貪り食っていた時、ゾンビ達は正面にいる紅葉を見てもすぐには襲い掛からなかった。食事中だったから……と言いたいところだが、ゾンビ達はその後まだ女性が原型を留めているうちに離れ、紅葉に襲い掛かってきている。紅葉を何らかの方法で認識し、狙いを変えた筈だ。
それに目で人間を識別しているとすれば、ゾンビと普通の人間をどうやって区別しているのか。見れば分かる? それは知性ある人間の、知性がある故の思い込みだ。人間とゾンビの『外観』なんて、ちょっと内臓がはみ出している程度のものでしかない。こんなものは『誤差』だ。あまり怪我をしていないゾンビだっている。
なのにゾンビ達は互いに襲い合う事もなく、真っ直ぐ紅葉だけを狙っていた。少なくとも紅葉が見た限り仲間割れは起こしておらず、今も揉めるような物音は聞こえてこない。連中は真っ直ぐ、紅葉だけを狙っているらしい。
だから何かある筈なのだ。人間の存在を認識し、尚且つゾンビと人間を見分ける方法が。そしてそれは視覚ではない。
生物が持つ感覚は五つ。視覚を除いたその中から、相手の追跡と識別が可能な感覚は――――
「(一か八か、失敗してもリスクは、ない!)」
閃いた作戦を実行に移すべく、紅葉は通学鞄の中に手を突っ込む。
邪魔な教科書を投げ捨てつつ、引っ張り出したのは一枚のハンカチ。
握り締めたハンカチを額に当て、紅葉は全力疾走も熱さで流れ出していた汗を拭う。無論、これだけのために取り出した訳ではない。
汗を染み込ませたハンカチを、ゾンビ達の方に投げ捨てるためだ。
投げ捨てる際、紅葉は僅かに後ろを振り向く。予想通り、何十もの数のゾンビが紅葉の後ろで群れていた。横目で見ただけの光景にギョッとして足がもつれそうになるが、どうにか持ち直し転ぶのは避ける。
紅葉が一人勝手にわたふたしている間にハンカチは風に乗り、ふわりと漂う。体勢を立て直した紅葉はそのハンカチを視線で追い、やがてハンカチはゾンビの顔に覆い被さった。
「あ、ぅうあぁ、あぁ」
するとそのゾンビは立ち止まり、両腕を振り回し始めたではないか。
「ああぅおおぉぉお」
「あぁ、ぉお」
更に周りのゾンビも群がり、ハンカチが被さったゾンビを押し倒す。押し倒されたゾンビの腕が取れ、地面に転がる。
全体としてはごく一部。しかし最前列の個体が足を止め、大きな『塊』を作っていた。前進するばかりのゾンビ達は塊にぶつかり、転んで、更に大きな塊を作り出す。
あっという間に、ゾンビの群れはその歩みを止める事となった。
その結果は紅葉にとって、思惑通りのものだった。しかし紅葉は得られた結果を喜ばない。それよりも彼女の意識が向いたのは、ゾンビ達が見せた新たな行動。悪癖である『観察』をしてしまい、故に彼女はゾンビの性質の一つを理解する。
「(やっぱりコイツら、臭いに反応しているのか!)」
野生動物の世界では、臭いを頼りに餌を探すというのは珍しくない。例えばある種のハエは数キロ離れた腐臭を捉え、正確にその場所に辿り着くという。
また嗅覚というのは、単細胞生物も持ち合わせている。正確には物質を感知して引き寄せられるという方が正しいが。植物も臭い……揮発性物質に反応して殺虫成分を合成し始めるものがいる。つまるところ臭いであれば目を持たないような、バクテリアや寄生虫でも何かしらの反応可能だという事だ。
更にゾンビ同士の見分けにも使える。ゾンビ化を起こす存在がなんらかの物質を出しているのか、はたまた死んだ人間からは出ない生存者特有の物質を感知しているのかは分からないが、臭いの違いから獲物か否かは判別可能だ。これによりゾンビ達は共食いをしない事の説明が付く。
思惑通りに事が進み、新たな知識も得られた。そこに紅葉は喜びを覚える、が、感動に浸っている暇はない。
「(足を止めるな私! 止めたら、もう二度と走れなくなる!)」
疲労は既に限界に達していた。一休みしようとすれば、そのまま足は動かなくなり、三十分は立ち上がれまい。
足止めに成功したのはあくまでも追ってきたゾンビ群団だけ。それだけでも何十という数ではあるが、しかしこの世に存在する全てのゾンビではない。
「あ、ぅうあぉ……」
「あぁぁああ、あ、うぅうぅぅ」
「ぅ、う、ぅう、ぅ」
右や左から続々と現れた、新たなゾンビ達の足は止まっていないのだ。
ハンカチがもう一枚あればそいつらの足止めも出来ただろうが、生憎今日の紅葉が持ってきたものはアレ一枚だけ。のんびりしていては、折角の機転も無意味になってしまう。
「は、はっ、ぐっ……根、性ぉぉ……出せぇ……!」
紅葉は再び前を向き、今にも止まりそうな足を気合いで動かし、学校を目指して駆ける。
後を追う数体のゾンビと共に、校門を潜ったのはそれから間もなくの事だった――――
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