逃走

「(……何、あれ)」


 その光景を見た時、紅葉は思いの外冷静だった。或いは頭が真っ白になったと言うべきか。

 人が、人に食べられている。

 字面に直せば極めて単純な光景は、しかし現実として目の当たりにすると大きな衝撃を紅葉の心理に与えた。これが現実だと理解したなら、常人ならば悲鳴を上げ、食べられている人など無視して逃げ出すだろう。或いは映画の撮影か何かと思って、スマホで写真でも撮るかも知れない。

 だが、紅葉には癖があった。気になるものを見ると、つい観察してしまうという悪癖。それ故に彼女は逃げず、写真も撮らずにその光景を注意深く見つめる。


「ご、ぽ。ぽ、ごぼ……」


 まず、食べられているのは若い女性。口から大量の血を吐き、そして痙攣している。口から声が出ているようにも聞こえるが、恐らく吐血の音だろう。目は虚ろで、最早恐怖心感情すら失われているようだ。

 出血量は凄まじく、赤黒い液体が横たわる女性の下に水溜りのように広がっている。紅葉は人体の作りに詳しい訳ではないが、どう楽観的に見積もっても助かるとは思えない。救急車を呼ぼうという気には全くならなかった。尤も、警察を呼ぶべきだという想いは、どんどん強くなってきたが。

 そして特に目を引くのが、女性を貪り食っている人間、らしき者達。


「がふ、ふ、ふじゅぅう」


「はっがふ、ふぅ、ううぅ」


「ぐじぅ、がじゅっ」


 女性に群がる者達の数は五。十代ぐらいの男性から六十代ぐらいの女性まで、性別や年齢に共通点は見られない。

 自分の顔を女性の身体に当てているだけなら、死体に妙な儀式をしている怪しい連中(これだけでも十分危険だろうが)でしかないが……もたげた頭は血の滴る肉片を咥えていた。誰もが女性の肉を喰らっている。

 いや、喰らっている、というのは不正確か。

 よく見れば噛み千切った肉は、飲み込まずに吐き捨てられていた。より正確に言うなら、噛むために口を開いた時ぼとりと落としている。彼等は女性の肉を食っているのではなく、女性を噛んでいると言うべきか。噛んでいる場所は主に腹のようで、内臓などが外に出ている。食べる事が目的というより、噛む事か殺す事が目的のようだ。

 そんな『食事もどき』をしていた連中の一人が、肉を食い千切るため大きく身体を仰け反らせる。

 その動きにより、身体を仰け反らせた三十代ぐらいの男が顔を上げた。紅葉は正面から顔を見る事になり、再び驚愕する。

 見えた男の顔は、血の気が全くない青白いものだった。おまけに首筋から大量の血を流している。更に観察してみれば男の服は前側が破れていて、鎖骨などの骨が露わとなるほどの傷があった。普通ならばそんな大怪我をすれば、痛みで起き上がる事すら出来まい。しかし男は平然としていて、傷を気にも留めていない様子だ。

 そして一番特徴的なのが、瞳。

 白濁した瞳だった。まるで川岸に打ち上げられ、悪臭を漂わせている川魚のような色合い。つまるところ死体のような目だった。

 他の連中も同じ目をしている。怪我も、場所や程度は様々だが、どれも常人が痛みを我慢出来るような大きさではないものを負っていた。なのに誰一人その傷を構わない。

 これではまるで死体が動いているかのよう。そう、つまり――――


「ゾンビ……」


 無意識に声に出してしまった紅葉は、慌てて口を塞ぐ。

 死んだ目をした連中……仮に、印象通りゾンビと呼ぼう。ゾンビ達は未だ、押し倒した女性を噛んでいる。今はそちらに夢中なようだ。

 どの道あの女性はもう助かるまい。助けようとしても無駄であるし、五倍の人数差相手に力で挑んでも返り討ちに遭うのが関の山。ならば此処は大人しく退くのが正解だろう。

 ゆっくりと、紅葉は後退を始めようとした。

 瞬間、ゾンビ達が一斉に顔を上げる。


「っ……!?」


 足音に反応したのか? そんな疑問も抱いたが、しかしゾンビ達は紅葉の声には反応を示していない。何か、別のものに反応したと考えるべきだろうか。

 そして、もう一つ疑問がある。


「(コイツら、なんでそっちの死体じゃなくて私に反応するんだ……!?)」


 食べているようには見えなかった。だが、今まで死体をずっと噛んでいたのだから、わざわざ生きた人を殺して回ろうという『意思』もない筈である。

 一体何をきっかけにして狙いを変えたのか。再び思考してしまう。悪癖がかつてないほど働いている紅葉だが、流石にそろそろ考えるのは止めようと理性が思い始める。

 ゾンビ達が立ち上がり、じっと紅葉を見ているからだ。ゾンビの口から出てくるのは吐息と呻きばかり。「救急車を呼びましょうか?」と尋ねても、回答は唸り声だけだろう。紳士的な対応は期待出来ない。

 棒立ちしているのは不味い。


「っ!」


 身を翻し、紅葉は走り出す。

 その後を追うように、ゾンビ達も動き出した。


「おおあぁあぁああ……」


「あこあぁぁ……うぁああ」


 唸り声を上げながら追ってくるゾンビ達。

 とはいえ動きは早くない。身体が左右に激しく揺れていて、手足の振り方も雑そのもの。素早く走るには正しいフォームが欠かせないが、彼等の走り方は幼稚園児よりも間違っている。『一生懸命』なのは分かるが、こんな走り方で速い訳がない。

 しかし紅葉は彼等を振り切れない。

 何故なら本を読むのが好きなインドア派である紅葉は、体力も走力もとんでもなく少ないのだから。


「ひっ、ひぃ、ひっ、はっ、ふひっ」


 走り始めてものの三十秒で、紅葉は息を切らしていた。

 息が切れる前にある程度距離を開けていたら良かったのだが、残念ながらそこまで引き離せなかった。後ろを振り返れば、十メートルほど後方のゾンビ五体がのろのろと追ってきている。

 ゾンビに疲労はあるのか? そもそも連中は本当にゾンビなのか? 疑問は残るが、最悪を想定した方が良い。つまり相手が疲れ知らずで、ゾンビだと思う事にすべきだ。

 いや、少なくとも本当にゾンビであるかどうかについては、それ以外に考えられない。


「(な、中身、見えてるし!)」


 走り出した事で分かる。ゾンビ達の身体には様々な、そして致死的な怪我があると。

 鎖骨が剥き出しになっている男性などまだマシな方。五十代ぐらいの中年女性は左腕が肘の辺りで千切れていて、六十代の老婆に至っては腹から内蔵がだらんと溢れ出していた。


「あ、が、か、ぉ、お」


 特に重症なのは、十代ぐらいの(制服を着た)男子。首に大きな怪我をしていて、走る動きに合わせて頭が左右にぐらぐらと揺れていた。今にも千切れそうなほどに。

 女性に喰らい付いている時にも彼等の怪我は確認出来たが、立ち上がり、正面から追うようになってから隠れていた大怪我も見えるようになった。そしてこんな怪我でも生きていられるほど、人間というのは逞しい生命体ではない。どう考えても彼等は死体なのだが、こうして紅葉を追ってきている。

 一体、どんなメカニズムで動いているのか。実に――――


「(って、そんな事してる場合じゃない! このままじゃ私が噛み殺される!)」


 こんな時でも発現しようとする悪癖に、紅葉は頭の中で悪癖を吐く。

 実際、暢気に観察している余裕はない。紅葉の体力は早くも底を突き、走る速さは段々遅くなっている。対してゾンビ達は非常に遅いが……何時まで経ってもスピードは落ちない。このままでは速さが逆転するのも時間の問題だ。

 無策で走り続ければ、いずれ追い付かれる。ならば取れる作戦は二つだ。

 戦って撃退するか、捕まる前に安全な場所まで逃げるか。


「(戦うとか無理! ゲームや漫画じゃないんだから!)」


 しかし第一の選択肢である『戦う』は、即座に切り捨てた。紅葉はただの、どころか一般よりも貧弱な女子高生だ。大の大人(しかも男までいる)五人に囲まれたら、いくら身体がボロボロのゾンビとはいえ一瞬で負ける。

 選べる選択肢は、逃げの一択だけだ。何処か安全な場所に隠れるしかない。

 次の問題は、何処に逃げ込むべきか。


「(適当な家に逃げ込めたら良いんだけど……!)」


 適当な家に駆け込もうとして、留守だったり、施錠されていたりしたら不味い。ゾンビ達は然程引き離せていないのだ。開かない扉をドンドンと叩いているうちに、背後に迫られたらどうにもならない。

 ならば自宅に逃げるべきか? 自宅であれば今の時間帯は母か妹がいる筈なので、扉に鍵は掛かっていないだろう。だから跳び込むように自宅内へと逃げ込める。

 しかしそれは出来そうにない。

 何故なら『違和感』を覚えるから。あちこちから……無数の人の気配を感じる。夕方の住宅地ではあり得ない、まるで祭りが起きているかのような賑やかさだ。けれども覇気を全く感じさせない奇妙な気配でもある。

 例えるなら、まるで背後から迫るゾンビ達のような。


「(っ! 右から、誰か来る!)」


 紅葉は気配が間近まで迫ってきた事を感じ取り、目の前に見えるT字路の左側へと寄る。

 直後、T字路の右側の道から三人の人間……否、ゾンビ達が現れた。


「うおぉあぁ、ああぁぁあ……」


「っ!?」


 ゾンビ達は姿を現して少し経ってから、紅葉に掴み掛かろうとしてくる。反応は遅かったが、疲れ果てている紅葉にとっては十分な脅威だ。危うく捕まるところで、思わず息を呑んでしまう。

 もしも道路の左端に寄っていなければ、恐らく逃げるのが間に合わなかった。尤も、一回避けてそれで終わりとはならない。ゾンビ達に諦めるという言葉はないようで、また紅葉に掴み掛ろうとしてきた。


「あっ、ああ、クソッ!」


 悪態を吐きつつ紅葉はまた走り出す。

 ――――全てが見えている、という訳ではない。

 だがなんとなく、誰かがいる気配を紅葉は感じ取れた。だから十字路や脇道があるような場所で気配を感じたら、死力を振り絞って全力疾走したり、別の道に曲がったりする。それをしなければ、『唐突』に現れたゾンビに掴まれ、そして噛まれていただろう。

 気配を感じ取れたから、現れたゾンビの襲撃を回避出来た。それは走りながら避けている、紅葉自身が一番分かっている。

 しかし紅葉は自分の『悪癖』に感謝を抱く事はしていない。する暇もないし、余裕もなかった。


「(ど、どれだけ、出てくるんだコイツら!? さっきからわらわらと、なんで急に……!)」


 後ろを振り返る余裕など今の紅葉にはないが、感じ取れる気配は最早十人二十人という規模ではない。そして未だ、町のあちこちから『人の気配』を感じる。

 このゾンビ達が何時現れたのか、紅葉には知りようもない。少なくとも今朝、家を出た時はこんな凄惨な状況になっていなかった筈だ。今朝のニュースでも、そんな奇妙な報道はなかったと紅葉は思う。

 しかしこうして続々と現れるからには、町中がゾンビだらけと考えるのが自然だ。

 仮に、此処から家に最短距離で向かったとしても、数十体のゾンビを引き連れてしまうかも知れない。最悪百体以上のゾンビが自宅に押し寄せるのだ。家の扉や窓ガラスは簡単に突破されてしまうだろう。それは勿論自分の身を危険に晒すし、何より家にいる筈の家族の命を脅かす。

 この状況で家に帰る訳にはいかない。なら、何処に逃げるべきか?


「(あそこしか、ない……!)」


 閃いた場所目指して、紅葉は走る。

 後ろに集まったゾンビは、今や何十いるのだろうか。唸り声が迫る津波のように聞こえてきて、何度も振り返りたくなる衝動に襲われた。

 しかしここで振り返れば、疲れ切った身体は間違いなく転ぶと紅葉は思った。

 だから後ろを振り向かず、紅葉はひたすら前を見据える。ひしひしと感じる人の気配で危険を回避しながら、ゾンビ達との競争を十分ほど続け……

 やがて、目的地が見えてくる。

 その目的地の名は、学校。

 『災害』が起きた際の避難所へと、紅葉は全速力で向かった。

 ただ、一つ懸念があるとすれば。


「(こ、れ……間に合う、か……!?)」


 へろへろになった今の自分の足は、ゾンビのものより明らかに遅いであろう事だ――――

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