腐りゆく世界

彼岸花

始まる終わり

「……ふぅ。良い本だった」


 ぱたん、と読んでいた本をパタンと閉じてから、秋川あきがわ紅葉もみじは満足げなため息を吐いた。

 彼女がいるのは秋の日差しが差し込む、放課後を迎えた高校の教室。最後の授業が終わってから一時間以上経っており、教室内に紅葉以外の人影はない。

 夕暮れで染まる教室は哀愁を漂わせるが、しかし紅葉はこの寂しげな雰囲気が好きだった。彼女は人付き合いが嫌いという訳ではないが、されど賑やかなのはあまり得意ではない。そのため授業中や休み時間は ― 本気で嫌悪している訳でもないのにこう言うのも難だが ― ストレスが溜まる。

 そのストレス発散に一番良いのが、この放課後の教室での読書という訳だ。

 無論読書なら図書室で、というのは正論である。紅葉自身、出来る事ならそうすべきだ、とも思うところだ。しかしそうする事が出来ない理由もある。


「(……誰か来るな。数は、二人か)」


 ちらりと、紅葉は視線を教室の扉……廊下側へと向けた。

 十数秒と経った後、扉の前を誰かが横切る。扉に貼っているのは曇ガラスのため相手の詳細な姿は見えなかったが、背格好と色合いからして男女の生徒だろう。逢い引きか、はたまた口説いているのか。それも少し気になる紅葉であったが、考えても仕方ないと思考を切り替える。

 そして彼等が扉の前を通る前に、その存在に気付いた事。これこそが紅葉が放課後の教室で本を読む理由だ。

 紅葉は気配に敏感なのである。例えるならば飼い主が帰ってきた事に気付く犬のように、人が視界に入らずとも、難なら死角からこっそり忍び寄ろうと、なんとなく違和感を覚える。精度は極めて高く、いないのに気配を感じる事は稀にあっても、いるのに感じない事は滅多にない。

 別段紅葉は幼少期に死線を潜り抜けたり、親から虐待や過酷な訓練を受けたりしていない。ただ昔から、自然と人の気配を感じ取れたのだ。ある意味天賦の才、暗殺者や潜入工作員向きの才覚と言える、かも知れない。

 が、紅葉は平和な現代日本で暮らす女子高生。暗殺なんてする気もないし、したいとも思わない。

 むしろ事ある毎に人の気配を感じて、ストレスを感じてしまうなど不利益がある有り様だ。誰も喋っていなくても、ただそこにいるだけで紅葉にとっては『喧しい』。放課後の図書室はみんなお行儀よく静かにしているが、人の数自体は少なくない。人の気配を感じる紅葉にとって、図書室は落ち着ける環境ではなかった。

 同じ理由で、妹や母親がいる家の中も(安らげないほどではないが)落ち着く事が出来ない。母や妹が喧しいという訳ではなく、単純に紅葉がその気配を強く感じてしまうのが原因である。安らぎを探すべきはあくまでも自分自身。

 かくして色々な場所で心休まるかを試した結果、放課後の教室が一番良かったのである。可能ならば此処で寝泊まりしたいほどに。


「(ま、此処で暮らす訳にもいかないけど)」


 学校はあくまでも勉強するところ。寝泊まりして良いのは夏休みに合宿している運動部員だけである。

 叶わぬ願いで駄々を捏ねたり、何時までもぐずぐずしたりするほど、紅葉も子供ではない。閉じた小説本を通学鞄の中にしまうと自席から立ち上がった。教室から出て、これまた誰もいない廊下を歩く。

 夕暮れの校舎は雰囲気がある。どんな、というと人それぞれだろうが……紅葉的には落ち着きがあって好きな雰囲気だ。夏の昼間のような、ギラギラとした眩しさは正直好きではない。

 玄関まで行っても人の姿はなく、上履きから靴へと履き替える。校舎の外へと出ればまた人の気配を感じ、その方を見れば……グラウンドで部活動に勤しむジャージ姿の生徒の姿が見えた。涼やかな秋の気候は、読書だけでなく運動も促進してくれる。

 紅葉の通うこの高校は野球部やサッカー部などはあまり人気がないが、陸上部はそれなりに人数が多い。グラウンドを使っているのは主に陸上部員達だ。バトミントンやテニスなども人気で、彼等は主にグラウンドとは反対側の敷地にあるテニスコートなどで今も部活をしている筈。

 最終下校時刻である十九時まで、あと二時間半。まだ当分、学校の中は賑やかなままだろう。


「青春だなー。がんばれー」


 賑やかなのが苦手ではあるが、人が努力する様子は好きである。同じ学校の生徒達に一方的なエールを送りつつ、紅葉は校門を通って帰路に着く。

 紅葉の通う高校は住宅地の中に建っている。紅葉の自宅もこの住宅地に建ち並ぶ家の一軒で、学校から家まで徒歩でも三十分しか掛からない。中学に通っていた時よりも近いぐらいだ。

 つまるところこの住宅地は、紅葉にとっては庭のようなもの。まだ高校生になって六ヶ月ちょっとしか経っていないが、紅葉は高校周辺を知り尽くしていた。歩いている老人や中年の顔も、大半が見知ったものである。


「おや、紅葉ちゃん。こんにちは」


 そして紅葉が覚えているように、住民達も紅葉の顔を覚えていた。

 中年の女性から声を掛けられ、紅葉は足を止める。繰り返すが、紅葉は人付き合いそのものが嫌いという訳ではない。だから呼び掛けられれば女性とも普通に話す。

 勿論話題を振る事だって可能だ。例えば、この女性が普段している犬の散歩について。


「こんにちは。これから散歩ですか?」


「ええ。まぁ、ゴンはあまり行きたくないみたいだけど」


 そう言いながら女性が振り向いた先には、玄関の前で居座る若い柴犬がいた。

 柴犬の名前はゴン。まだまだ若く元気で、人懐っこさのある子だ。柴犬というと飼い主以外には懐かないイメージだが、実際には小さな頃なら割と人懐っこいし、大きくなっても他の犬と仲良しな子も案外少なくない。ゴンもそうした、あまり警戒心の強くないタイプの柴犬だ。

 さて。そのゴンは普段散歩が大好きだ。若い犬というのはそういうもので、人間が疲れようとお構いなしに遠方まで歩く。

 ところが今日のゴンは玄関の前に座り込んで動かない。気まぐれ、と言ってしまうのは簡単だが、どうにも奇妙だと紅葉は思う。

 気になったら、つい調べたくなるのが紅葉の性分だ。


「……ゴンって、怪我とかしていませんよね?」


「ええ、多分。足とかは見たけど」


 念のために確認し、可能性の一つを潰しておく。それから紅葉は女性に許可を得て、玄関前のゴンの下に歩み寄る。

 ゴンは紅葉を見ると、一瞬嬉しそうに尻尾を振った。しかしすぐに下ろしてしまう。起きようとする気配はない。

 そこで紅葉は、ゴンの姿をじっと見つめた。

 じぃと見続ける紅葉をゴンは不思議そうに見ていたが、されど彼は犬である。人間ほど賢くない故に対して気にもせず、その場に伏せたまま動かない。

 その方が紅葉にとっては好都合だ。紅葉は今、ゴンを観察しているのだから。


「……成程。そういう事か」


「あら、何か分かったの?」


 紅葉がぽつりと呟くと、女性がそう尋ねてくる。

 その通りだったので、紅葉はこくりと頷いた。ただし、現時点では『疑惑』であり、確信に至るには一つの前提が必要だ。


「確認したいのですけど、ゴンは雷が苦手なんじゃないですか?」


「え? ええ、そうだけど……前に話したかしら?」


「いいえ。でも、ゴンを見ていたら分かりました」


 紅葉はゴンの頭を撫でながら、自分の考えを明かす。


「ゴンの耳が向いている方がありました。それで私も耳を澄ましてみたところ、微かに雷の音が聞こえたのです。鳴る度にゴンも震えていましたから、きっとそうかと思いまして」


「あら、雷が鳴っていたの? もう歳だから耳が遠くなって嫌ねぇー」


「いえ、私が人よりそういうのに敏感なだけですので……」


「ふふ、お世辞なんて良いのよ。人間、みんな何時かはそうなるんだし。ま、そういう事なら仕方ないわね。雷が去った後、夜にまた出る事にするわ。ありがとう」


 女性はそう言うと、玄関の戸を開けて家の中へと戻る。雷が怖かったゴンは、喜んで女性の後を追った。


「……ま、犬が怖い想いをせずに済んだって事で」


 良い事をしたなと思いながら、紅葉は再び帰路に付く。

 どんな時でも、対象を注意深く観察する。

 それは紅葉の『癖』だ。興味を持った対象は事細かに眺め、情報を集めようとしてしまう。そして普通の人なら気の所為だとか、或いは「どうでも良い」と切り捨てるような事も、頭の中に深く刻み込まれる。そこから『事実』を推理するのだ。

 ――――とはいえ、これが何かの役に立つかというと、先のゴンのようなちょっとした困り事の解決が限度なのだが。


「(探偵とかが仕事なら役立つか? いや、別にこれは才能というより、単に気にしいなだけだしなぁ)」


 あくまでも物事を集中して観察するというだけの事。気になったらつい足を止めてしまう悪癖だ。小さい頃は道端で突然立ち止まって棒立ちするものだから、何度も車に轢かれそうになり、親を心配させたものである。

 今でこそそんな間の抜けた事はしないが、しかし何かの拍子に一瞬足が止まる事は珍しくない。もしも暴走トラックが目の前に現れたら、間違いなくそれが何かを注意深く観察し、そして考えが纏まる前に轢かれてあの世行きだろう。

 かように、紅葉は人と違う『才覚』がある。

 しかし現代日本を生きていく上でいまいち役に立たないものだ。日本で暗殺者になっても優秀な警察官達の手により逮捕されるだけであるし、探偵になっても大抵は一人で食べていけるかも怪しいだろう。強いて言うなら自分が警察官になれたら良いかも知れないが、紅葉は身体が強くない。病弱という訳でなく、インドア派で出不精故に筋肉がないだけだが。ともあれこんな身では犯人逮捕どころか返り討ちが関の山というものだ。

 その事を恨めしく思う事は、紅葉にはない。自分はそういうものだと割り切っている。むしろ役立たずで良いのだ。暗殺者やらなんやらに向いていそうな特技が役立つ時なんて、そんなのは――――


「(世界の秩序が破綻した時、なんてね)」


 暗殺者が憧れの職業となった時には、紅葉は誰よりも成功する事が出来るだろう。

 だからといって混沌を求めたりなんてしない。紅葉は今の生活に満足しているし、何より賑やかなのは苦手なのである。面白い本をのんびり読む事も出来なくなるだろう。こんな悪癖が活きるような時代は真っ平ごめんだ。


「(あー、くだらない。さっさと家に帰ろ)」


 つまらない考えを頭から投げ捨て、紅葉は真っ直ぐ家に帰ろうとする。

 そう、今度こそ帰ろうとした時だった。


「(……なんだこれ。妙に騒がしいな)」


 紅葉は普段らしからぬ、住宅地の異変を感じ始めた。

 異変と言っても、言葉として言い表せるものではない。漫然とした違和感が頭の中に渦巻くような、一言で言うなら気持ち悪さ。

 普段は、この町でそんな気持ち悪さを感じた事などない。ならばこれは一体なんなのか。

 無視する事は簡単だ。だが、気になったまま家に帰ると、気になるあまり今夜は睡眠不足になるかも知れない。自分がそういう性分なのは、紅葉自身が一番よく分かっていた。

 ましてや。


「キャアアアアアアーッ!」


 悲鳴が聞こえてきたとなれば、流石にもう無視は出来ない。


「(悲鳴!? 聞こえてきたのは、あっちか……!)」


 紅葉は聞こえてきた声に対し、無意識に悪癖である『観察』を始める。

 聞こえてきた悲鳴の声色からして、所謂黄色い悲鳴の(即ち喜びなどから発せられた)類ではないだろう。また聞こえてきた声が一つである事から一人の、そして女性が上げたものだというのも分かった。

 女性が襲われている状況とはなんだ? 通り魔やひったくり、それと暴漢が候補として挙がる。しかしだとしても、今の悲鳴は何かがおかしいのではないか。ひったくりなどであればアイツを捕まえて、等の叫びも後に続くのではないか。

 だとすると起きたのは通り魔と暴漢の可能性が高い。とはいえこれは状況証拠からの推論であり、本当にそうとは限らない訳で――――


「(と、兎に角、行ってみよう。スマホで、通報の用意だけはしておいて……)」


 考え込んでいた時間は、数秒程度。その数秒間止まっていた足を意識して動かし、紅葉は声が聞こえてきた方へと走る。

 大きな悲鳴だったので、声のした方角はすぐに分かった。しかし走っている間ずっと耳を澄ましていたが、二度目の悲鳴や声は聞こえてこない。

 いよいよ通り魔説が濃厚になった。犯人とすれ違ったり、或いは口封じに襲われたりしているのではないかと、様々な可能性が脳裏を過り始める。何が起きても思考停止だけはしないよう、意識を強く持つ。

 しかし、妙な点が一つ。


「(なんだこれ……なんか、凄く……?)」


 声の方に近付けば近付くほど、気配を強く感じる。

 一人二人の気配ではない。無数の気配をひしひしと伝わってくる。

 野次馬でも集まっているのだろうか。だとしても何かがおかしい気がする。気配の『密度』が、野次馬にしては濃過ぎるような……

 違和感が疑問に変わり、悲鳴の主を助ける事よりも好奇心が湧いてくる。人としてどうかと思う衝動を払うように首を左右に振りながら、紅葉は十字路を右に、気配の感じる方へと向かい――――

 ついに目の当たりにした。

 姿

 全く望んでいなかった世界の終わりが、既に始まっている光景だった。

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