第87話:別室。

 伯爵邸から帰った時はもう遅い時間だった。早々に夕ご飯を済ませ、お風呂に入り、学院の授業の自習やら予習やらをして就寝。

 そして朝。身支度をして馬車へと乗り込み学院へと着いた。いつもの場所でジークとリンと別れて特進科の教室を目指し、いつものように自身の席へと座り一限目の授業を受ける準備をしていた。


 ふっと陰る何かに気が付いて顔を上げると、そこにはむっとした顔のマルクスさまが。そしてその隣には彼の婚約者であるセレスティアさまが。私から声を掛ける訳にはいかないので、失礼にならない程度に顔を見ていると、ガシガシと頭を掻きながらようやく口を開いた。


 「悪いな、お袋の持病を診て貰って」


 「まあっ! あのマルクスさまがお礼を述べていらっしゃいますわっ! ――と言っても、もう少し言い方はなんとかなりませんこと?」


 「うるせえ!」


 いつもの夫婦漫才が始まったなあと二人を眺めながら、まさかマルクスさまからお礼を言われる日がこようとは。意外な展開に少々驚きつつも、言い合う二人は止まらない。高位貴族なので誰も二人を止められないなあと、遠い目になっていると救世主が現れた。


 「教室の出入り口近くで騒ぐな。邪魔だ」


 薄い紫の目を細めて、丁度登校してきたソフィーアさまが苦言を呈する。


 「あーらソフィーアさん。相も変わらず真面目で堅物だこと。そのような調子では新しい婚約者探しも大変でしょう?」


 セレスティアさまの漫才の矛先がソフィーアさまに移った。なんだかちょっと前の胃薬をくれと願っていた頃に戻ったような気がするけれど、気のせい気のせい。


 「そうだな。だが、碌でもない人間の妻を務めるくらいならば、独立して事業でも立ち上げた方がマシだろう。女は政略として嫁ぐことが宿命だが、別の道もあっても良いのではないか?」

 

 「――本当に貴女は嫌味な方ですわね」


 「そうか。お前に褒められて光栄だよ」


 なんだかこのやり取りが日常になっているよなあと、一限目の授業の用意が出来ないまま予鈴が鳴ると同時に試合終了となるのだった。


 ――そんな毎日を過ごすこと、一週間。


 もう一度夫人へ治癒を施す為に伯爵邸を訪ねると、何故か伯爵さままで家に居て私を出迎えてくれた。いつものようにジークとリンも一緒。今日は学院が休みだったので事前に打ち合わせて、この日が良いと伯爵さまに我が儘を聞いてもらっていた。


 「本日もよろしくお願いいたします、聖女さま」


 「よろしくお願いします。――ではさっそく治癒を行いますので……」


 以前と同じように玄関ホールで伯爵さまに出迎えられ来賓室へと案内されると奥方さまが部屋の中で待っていた。

 一度行っているので、もう慣れているのか手際が随分と良い。ならばさっさと済ませ、宿舎に戻って休日を謳歌しようと前回と同じ魔術を発動させる。どうやら奥方さまの調子は良いようで、日常生活が随分と楽になったと穏やかな顔で伝えてくれた。あと何度か施術が必要だけれど、順調に回復しているようで重畳だ。


 「次の施術で終わりにしましょうか。――また痛みがぶり返すようなことがあれば教会に連絡をしてください。その場合の寄付は望みませんので」


 「はい。――本当にお世話になりました」


 前回の時よりも穏やかな表情で笑う奥方さまに笑みを返す。長居をするのは趣味じゃないので、用が終わればさっさと退散すべきだろうと席を立つ。伯爵さまにまた玄関ホールまで案内され、もう一度別れの挨拶をしようと居住まいを正す。

 

 「聖女さま。――申し訳ないのですが、折り入ってお願いがございます」


 こういう時のこういうパターンって大体碌なことがない。ないのだけれど話を聞かなければ始まらないのが、悲しい運命。


 「どういたしましたか、閣下」


 「ええ、ここでは話し辛いので別室で……」


 そう言って伯爵さまに先程の来賓室とは違う部屋へと案内される。しかたない今日は少々我が儘を言って日程を決めていたのだ。このくらいは我慢するかと小さく息を吐いて、指定された椅子へと座る。


 「すまないが人払いを。――特に聖女さま以外の女性は出て行ってくれ」


 とまあ変わった命を下す伯爵さま。


 「ジークリンデ、君もだよ」


 いそいそと出ていく侍女の人たちを見ながら、リンの方へと顔を向ける伯爵さま。先ほどまでの雰囲気と打って変わって、なにか緊張したものを感じ取る。


 「……でも」


 剣呑な空気が流れ始めたのを敏感に感じ取ったのか、リンが少し嫌がった。彼女が拒むのは理由がある。


 「閣下、申し訳ありませんが聖女から離れることは教会騎士として失格と言われております。どうかご許可を頂けませんか?」


 教会が定めたルールで何があろうとも仕事中は聖女から離れるなと厳命されている。聖女が怪我や命を失い騎士だけが生き残ると、不忠者と後ろ指を指される。


 「しかし……」


 「では、この話はなかったということでよろしいでしょうか?」


 依頼ということであれば聖女には拒否権もあるので失礼ではあるが、断ることも出来る。ジークとリンに関わる話なら、リンを追い出そうとはしないだろうから、おそらくは治癒依頼だろう。教会を経由しない不正規のルートだけれど。


 「む……わかりました、仕方ありませんね」


 後ろに振り向いて、リンを安心させるようにと笑う私に彼女が笑みを返してくれる。


 伯爵さまに何をお願いされるのやら。


 可能性は薄いが愛人にでもなれ――以前、聖女の力を目的に望まれたことがある。もちろん教会にボコられてたけれど――とでも言われるのだろうか。

 それとも他になにか違うことを、伯爵さまの口から聞くことになるのだろうかと、ふうと息を吐き大きく息を吸って、心を落ち着かせる私だった。

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