第4話 フランソワーズ・ヒラミヤコ男爵令嬢
湯船を出たナルミアーナ。普段ならここでウニミがバスローブを持って現れるのだが、今夜はなぜか不在なようだ。もっともナルミアーナは身の回りのことぐらいは一人で問題なく行える。
濡れたままの体でバスローブを羽織り、自らの体を衣越しに撫でる。頃合いを見てバスローブを脱ぐ。脱いだバスローブで乱雑に髪を包み水滴を拭う。
そしてまた新しいバスローブを纏い、湯殿を出ていった。
「あっ、お嬢様! 申し訳ございません!」
「ええ。ワシぁもう寝るけぇの……いや、待て。酒じゃあ、酒ぇ持ってこいや。本当ならパーティーでトシと飲むはずじゃったんじゃがのぉ……ウニミぃ、おめぇと飲みてぇ……」
「かしこまりました。」
ウニミの知る限りナルミアーナは酒を飲んだことはない。ことさら禁止されていたわけではなく、単に興味が向かなかっただけのこととは思う。それだけに今夜のパーティーで初めての酒を、トシスイ王子と酌み交わすはずだったことを思うと……ウニミの心に一つ、ささくれが生まれた。
「お待たせいたしました。『ラウート・フェスタイバル』の特級生原酒、名人との誉れ高いセンクウ親方の作です。なんでも『カワウソたちの祭り』を意味するそうで。」
「そねぇな難しいことぉ言われてもワシにぁ分からん。ええけぇ飲むでぇ。乾杯じゃあ。」
「ええ、ご相伴にあずかります。乾杯。」
何も気にせず一息で飲み込むナルミアーナに対して、ゆっくりと味わうように飲むイーガル。どうみても令嬢なのはイーガルだった。
「うめぇじゃねぇか。やっぱええ酒なんじゃのぉ。オヤジが絶賛するだけあるでぇ。」
「ええ、とても美味しいですね。まだ飲まれますか?」
「おお、今夜ぁ飲むでぇ。ワシぁ知っちょるけぇの。女にフラれた男ぁとことん飲むんじゃろう? そんだらワシが今夜どんだけ飲んでもおかしゅうねぇわのぉ?」
「お嬢様……ええ、飲みましょう……お注ぎいたします。」
「おっとっとぉ、おめぇも飲めや。ワシが注いじゃる。」
「お嬢様手ずから……ありがとうございます。」
「ウニミぃ……知っちょるかぁ……トシの奴ぁのぉ……洞窟でよぉ……コウモリやら虫なんざぁ見かけるたんびによぉ……ピーピー泣きわめいてのぉ……護衛の騎士どもも苦笑いしよったもんじゃいや……」
「王子を連れてそんなとこ行かないでくださいよ……」
「あの弱っちくて可愛いらしかったトシがのぉ……」
「というかお嬢様のお気持ちも大事なんですが今回の件、結構なコトですよ? 王国の燃料事情は今、転換期に来つつあるんです。我が辺境伯領の『聖白石』から『黒い水』へと。このままヒラミヤコ領の黒い水が幅を利かせてきますと……あるいは聖白石が過去の遺物となりかねません……」
「ワシに難しいこたぁ分からん……」
「またそれですか! そんなことだから王子に婚約破棄なんてされるんです! いいですか! お嬢様はこの国で最も美しいお方なんですよ! 幼い頃に百年ぶりの聖女認定を受けられましたし! 国中の憧れの存在なんですよ! もう少し自覚してくださいよ!」
「知るかいや……ワシぁワシじゃあ……」
そう言ってグラスをあおるナルミアーナ。
「うおおおおーーーん! ウニミぃいいいーー! トシぁなっし! なっし婚約破棄なんぞしたんじゃあ! ひぐっ、ぐすっ、うえっ、うえええぇぇぇーーーーん! えぐっ、えぐぅ!」
「嗚呼、お嬢様……泣き顔もお美しい……夜露に濡れて煌めく瞳……さながら眩い
「うう……トシぃ……トシのバカたれぇ……」
「嗚呼、お嬢様……ヒコティッシュ大聖堂の聖なる鐘よりも澄んだお声……王子は愚かな選択をされたものですわ……あのような金しかない腹黒女狐に籠絡されるとは……必ずや、目にもの見せてくれますから……」
「トシぃ……」
「お嬢様、おやすみなさいませ……」
そしてウニミはナルミアーナを優しく抱き上げて、寝室に運ぶのだった。
一方その頃。
「トシスイ様。先ほどの見事な宣言、感服いたしました。そして、嬉しかったです。ようやく……私ようやくトシスイ様のものになることができるんですのね……」
王宮の奥、第二王子トシスイの私室にて。ソファーに腰かけた王子の腕に寄りかかりながらフランソワーズ・ヒラミヤコ男爵令嬢は呟いた。
「と、当然だ。ようやくあいつと縁を切ることができた。それもこれも、そなたが私に勇気を与えてくれたからだ。真実の愛とはこんなにも素晴らしいものなのだな。」
「いえ、全てはトシスイ様の魅力のなせる業ですわ。この国に住む者でトシスイ様に憧れない女などいません。それなのに私なんかを見初めていただけたなんて……天にも昇る心持ちです……あっ……」
不意にドレスがはだけて肩が露出する。それを恥ずかしそうに隠すフランソワーズ。
「フラン!」
もう我慢できないといった顔でフランソワーズに向きなおり、両肩を荒々しく掴むトシスイ。
「い、いけませんわ……婚約の、その時までは……」
「そなたが悪いのだ。私を狂わせるそなたの香りが……」
「どうかお許しを……私とてこの身をトシスイ様に捧げたい気持ちは誰にも負けません。ですが、この先トシスイ様と未来永劫を添い遂げるためには……今夜は失礼します!」
「ま、待てフラン!」
トシスイの静止を振り切り、少し乱れた着衣のまま室外へと飛び出したフランソワーズ。その顔は策謀が成功した戦略家のように暗い優越で満ちていた。
フランソワーズが母親から教わった事の一つに『野良犬と男はおあずけをくらわせるほど追ってくる』ことがある。
これでトシスイ王子はどこまでも自分の言いなりになるであろうことを確信した夜だった。
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