彼女と彼女の友達

 夏に比べれば過ごしやすくなったとは言え、一人用のベッドで二人が眠れば互いの体温で汗もかく。

 その日の朝、じわじわと体にたまり続けた熱で天道てんどうつかさは目を覚ました。

「ん……」

 もぞりと身をよじって布団の中の空気を入れかえると、昨夜の行為・・の残り香が鼻腔をくすぐる。

 そうして、隣でいまだ安らかな寝息を立てている恋人の顔を眺めた。

 ――志野しの伊織いおり、十九歳、いて座のAB型。

 三人きょうだいの真ん中で、犬派。好きな色は緑、実は猫舌。

 自分の名前が嫌いなわけじゃないそうだけど、からかわれることが多いせいで下の名前で他人に呼ばれるのを少し嫌がる。

 結構な健啖家なのに細身で、体に厚みはないけれど肩幅は広くて背中は大きい。

 なのに腰は憎たらしくなるくらいに細いんだから男の子はずるいと常々思う。

 地元のプロスポーツチームは野球よりもサッカーびいき、クローゼットにあるレプリカユニフォームの背番号は37番。

 だけど今年スタジアムに行ったのは一度か二度で、ほとんどはネット観戦とか。

 趣味はコンピュータゲーム、大学でもサークルに入っている。

 夜に返事が遅いときは大抵ゲーム中で、一番好きなタイトルは確か『ROFL』。

 どういうゲームなのか聞いたらずいぶんと難しい顔をしていた。説明が難しいジャンルらしい。

 実際に一度プレイしているのを見せてもらったけれど、よくわからなかった。

 知っていたこと、知らなかったこと、教えてもらったこと、気づいたこと――寝起きの頭で彼に関するそれらを思い出していく、

 婚約初期の塩対応には苦笑いが浮かんで、徐々に打ち解けていけたのは楽しくって、拒絶されたと感じた日だけは思い出したくないけれど、そのあとの直談判で頑張ってくれたのは素直にうれしい。

 その後に迎えに来てくれればなお良かったけれど、それはまぁ過去のせいでもあるし、今となっては穏やかに振り返れるのだから贅沢は言うべきではないだろう。

 誰かとベッドを共にして、朝、相手が起きるのを待つ時間でさえ愛おしい――初めてそんな気持ちを教えてくれたのだから。

「――ん」

 そんな視線に込められた熱を感じたように小さく唸って伊織の目が開く。

 数度瞬きを繰り返したあとで、彼は跳ね起きるみたいに上体を起こした。

「あ、おはよ、つかささん。起こしちゃった?」

「おはよう。もう起きてたから、平気よ」

「そっか」

 首元を撫でながらのやり取りははっきりしている、目元が少し眠そうなのはこれは普段からのことだし。

 この冗談みたいな寝起きと寝つきの良さは、彼のベッドで眠るようになってから知ったことの一つ。

 まるでスイッチを入れると動き出す玩具みたいなオン・オフの切り替えの早さは何度見ても少し笑ってしまう。

「――僕なにか、寝言でも言ってた?」

「いいえ、静かだったわ。いつも通りに」

「ならなんでこっち見て笑うのさ……」

 解せぬと顔に大書しているのが一層おかしくて、それでも理由なく笑われているのは困惑するだろう、とつかさは表情を改めて腕を引く。

「ね、もう少しゆっくりしない?」

「それで本当にゆっくりした記憶がないんだけど」

 素っ気ない返事に今朝は乗り気じゃなさそうね、とつかさはあたりをつける。

 少し複雑なことに伊織はそこまで性欲が強くない、もしくは理由があれば自制が効くのだろう。

 夜の内はともかく、朝になってからの誘いには芳しくない返事が多い。

 もっともそれを覆す楽しみがないでもないけど。

「二人に会うのに一旦家に戻って準備するんでしょ?」

「それでも時間はまだ十分あるし」

「そう思ってると慌てるパターンじゃない?」

 ぐいぐいと袖を引くと、振り払われこそはしないものの表情は渋かった。

「ね、少しだけ。いいでしょ、何もしないから」

「信じようという気持ちがあんまり湧いてこないなあ……」

 そう言いながらも伊織は体を再びベッドに戻した。

 互いに体を横向きにして向かい合った姿勢で、つかさは彼の腕の中に身をおさめる。少し汗の混じった彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 伊織がくすぐったそうに身をよじるのに構わず、彼の背に手を回して体を密着させる。

「つかささん、何もしないんじゃなかったの」

「あら、これくらいはスキンシップの範疇でしょ」

「せめて背中撫でるのはやめてくんないかな……」

 触れ合っているからだけではない理由で伊織の体が熱くなっているのを感じ、それを測るように胸に額を押し当てた。

「あ」

 そこへぐいと頭を抱え込む様に伊織の手が回される。

 髪に差し込まれた長い指が頭の形を確かめるように動き、耳裏へとたどり着く。

「ん……」

 少しくすぐったいような恋人の愛撫に、つかさの唇から熱い息が漏れる。

 しばらく耳たぶを指で挟んで弄んだあとで、伊織は手を顎へと移してつかさの顔を上向かせた。

「つかささん、そろそろ離れない? あついでしょ」

「平気。それとも、そうしないとまずい理由でもある?」

「えー、と、やんごとない理由がある、かな……」

「そう? でも安心して、伊織くんがその気でもないのに、朝からえっちしてなんて言わないから」

「それその気になるまで離れてくれないやつじゃない?」

 僕に勝ち目ないじゃん、となんとも微妙な表情で白旗を上げる伊織につかさは笑みをこぼす。

 そうしてもちろん、そう言うことになった。


 §


 結局友人たちとの待ち合わせのカフェにつかさがたどり着いたのは、約束の時間ちょうどになってからだった。

「――それで、時間ギリギリになったわけ?」

「ええ、ごめんね」

「まぁ、連絡もくれたからいいけど」

 高校からの付き合いである水瀬みなせ英梨えりの呆れた、と言わんばかりの視線に悪びれることも無くつかさは頷いてちらりともう一人の友人に目をやった。

「なーん? 別にうらやましくなかよ?」

 語るに落ちる反応を見せた葛葉くずのは真紘まひろが、普段は愛嬌のある顔をぷりぷりと膨らませる。

「ならどうしてむくれてるのよ」

「別にー、つかさちゃんはそうやってウチらとの友情より男の子をとるったいねって思っただけ」

「先にヒビを入れようとしてるのは真紘だと思うんだけど」

「その彼氏を狙ってるアンタが言うんだ……」

「もー、英梨ちゃんは一々茶化さんで。せからしかー」

「アタシが悪いの、これ?」

「だって元々はつかさちゃんの約束破りが悪かもん」

「だから、そこだけは謝ったでしょ」

「そう言うのは謝ったって言わんと」

 はぁ、と聞えよがしにため息をついた英梨がにらみあうつかさたちを交互にみやり、頭痛をこらえるように額に手をやる。

「ってか二人とも本気で志野を取り合って喧嘩する気なんだ」

「ウチは別に譲ってくれたら喧嘩する気はなかよー?」

「本気じゃないのに付き合ったりしないわよ。あとね、英梨もそろそろそういう態度は変えてくれない?」

「……別に、本人の前じゃ何も言ってないでしょ」

「えー伊織クンって、英梨ちゃん見ると散歩から帰りたがらん犬みたいにしぶか顔しとるよ?」

「どんな顔よソレ……」

 自覚があるのか少々ばつの悪そうな顔をする英梨に、つかさは静かな声で諭すように続けた。

「今だって伊織くん『なんか』って言いたそうだったわよ。無理に仲良くしてとは言わないけど、それなら私も二人を会わせないようにするから」

「……だってアイツさ、つかさとの婚約を嫌がってるの見え見えだったじゃん」

「そこを気にしてたのは知ってるけど、今はもうそうじゃないし、伊織くんは他の男の子と違うの。わかるでしょ?」

 大学に入っても離れずにいてくれた友人が、自分を心配していたがゆえとわかっていても、だからこそつかさもそんな彼女が恋人と険悪でいて欲しくはない。

「まぁ、つかさが夏から前みたいに楽しそうにしてるのは知ってるけど……」

 そんな気持ちを込めてつかさが視線をあわせると、やがて観念したように英梨は視線をそらした。

「――わかった、ちゃんと気をつける。いきなり仲良くなんてあっちも期待してないだろうし、それでいい?」

「ええ、ありがとう。彼に会わせられない友達なんて真紘一人で十分だから」

「えー、ウチは怖がらせたりせんし、全然会わせてくれてよかよ?」

「アンタは別の意味で今まさにビビらせてるでしょ……」

「英梨ちゃんは黙っとるだけで、人ににらんどると思われるもんね」

「うるっさいなあ、そっちこそ違う意味で勘違いさせて回ってるくせに」

「そでウチは困っとらんもーん」

「あら、じゃあサークル勧誘の時も困ってなかったのね」

「ああ、あれって助けなくてよかったんだ? なんだ余計なお世話だったかぁ」

「ちょ、そいは入学したばっかりの話やろー!」

 長崎ながさきの、しかも女子高出身の彼女が、サークルの勧誘攻勢にわかりやすく難儀していた一件を引き合いに出すと、真紘は赤くなった頬を膨らませた。

「もー、二人してすぐそれ言ってくるとほんと意地悪かー。ウチちゃんとありがとねって言ったとに!」

「アンタがアタシをネタにするからじゃん」

「そうよ、真紘が先でしょ」

「だけん二人がかりで言わんでって、もう」

 こすか《ずるい》と繰り返しつつ、タンブラーに口をつける真紘もそれほど本気で怒っている様子はなかった。

「――まぁでも良かった、あの調子だと二人とももっとギスってるかと思った」

 今日ちょっと憂鬱だったんだよね、と続けて英梨はコーヒーに口をつける。

「えー、なんでー?」

「いや、なんでって普通こんなの修羅場でしょ。真紘アンタはそりゃ気にしないかもしれないけど」

「そいはそいたい!」

「英梨が気をもまなくったって大丈夫よ」

「そう?」

「だって『初めての相手』にも期限があるけんね」

「だって、伊織くんは私に夢中だし」

「え?」「は?」

「迂闊なこと言うんじゃなかった……」

 さすがに人目のあるところで本格的に言い争いはしないものの、にわかに殺気立つ二人を前に英梨は再度頭を抱えた。


 §


「あのさあ……」

 そうして移動した女子会の会場となるホテルで、水瀬英梨は本日一番の大きなため息を吐いた。

 部屋に入るなり、ウェルカムケーキにもドリンクにも目をくれず、つかさが真紘と二人してキャリーケースの中身をベッドに広げはじめたときにはまだ眉をひそめただけだった。

 しかしそこから二人が服に手をかけて下着姿のままで対峙するのを見れば、リゾート風の部屋を見て回る逃避を止めて現実と向き合うしかなかった。

「……女子会って言ってたよね、今日。先にケーキとか食べない?」

 ぐったりとソファーに腰かけて、一応という感じで英梨が尋ねる。

「ん-、そん前にちょっと撮ってもらえん?」

 つかさとしても撮影するなら、食べ物を入れる前にと考えてはいたが、服を決める前に真紘にいわれては張り合わざるをえない。

「そうね。英梨、お願いできる?」

「だったらせめて服着てくんない……? なんで脱いでんのよ」

「なーん、英梨ちゃん前はもっと凄かと撮ったとに、どうしたと?」

「下着くらいで今更恥ずかしがることないでしょ、着替えだって見慣れたものじゃない」

 真紘もつかさも、芸術家気質の英梨のために文字通り一肌脱いだことがある。

 その時には彼女の指示で際どい所まで晒したのに、と視線を向けると英梨はうろんな表情で半目になった。

「ヌードはそういう表現だけどさ。アンタらのそれ、ガチの勝負下着でしょ? そんなの見せられるアタシの気持ちにもなってくれる?」

 つかさが身に着けているのは明るい緑を黒のレースが飾る上下、対して真紘は黒をメインにポイントでピンクが入るレースの揃いだ。

 デザインと言い生地と言い、どちらも単に気分をアゲるためだけでない、一目で用途が知れるものではある。

「えー、でもこれ可愛かろ? 高かったとよ」

「そんなに露出は多くないじゃない、伊織くんのお気に入りだし」

「そう言うのが聞きたくないんだって、志野を知ってるだけに生々しいし……!」

 その雰囲気とは裏腹に、異性との接点が少ない友人の言葉につかさは真紘と顔を見合わせる。

 二人からすれば過激とも言えないような姿だが、それでも初心な相手・・・・・は心得ていることもあって頷く。

「大丈夫よ英梨、別にいやらしい写真を撮れって言ってるんじゃないから」

「そうそう、伊織クンに送っても大丈夫なくらいのでよかと」

「ねえ、その優しい顔ムカつくんだけど?」

「あ、真紘の分は送らなくていいから」

「えー、ウチの方が目を引くけんって逃げると?」

「あと志野を煽るのにアタシの写真ダシにすんのはホントやめて」

「だってその胸じゃどうやったってえっちになるでしょ?」

「つかさちゃんこそ無意識でやらしかポーズとっとるよ?」

 顔とスタイルの良い友人たちが、完全に話を聞かないゾーンに突入してしまったのを付き合いから知る英梨は観念してソファーを絶った。

「――わかった、ちゃっちゃと撮るから、ちゃんとアタシの指示に従ってよね。いうこと聞かなかったらアンタらにケーキは無し」

「別によかけどー、英梨ちゃん一人で食べると? 太らん?」

「大丈夫でしょ、英梨が青い顔するのは決まって冬だもの」

「ハっ倒すわよ」


 §


「――つかさ、もうちょい肩の力抜いて。真紘はだらけすぎ、表情ちょっと締めて、そう、行くよ。何枚かとるから、そのまま――」

 いざ撮影が始まってしまえば英梨には困惑もためらいもなく、硬質な印象の顔に相応しい真剣な表情で二人に指示を出す。

 ソファに腰かけたつかさと、そのそばで座り込む真紘といういささか彼女の趣味が入ってそうなポーズにも口を挟まず、ただシャッター音を響かせるカメラを目で追う。

「――おっけ、じゃあ次は……」

 カメラの画面を確認したあと、次のポイントを吟味するように部屋に視線を巡らす英梨から視線を外し、同じタイミングで息を吐いた真紘につかさは視線を向ける。

「ねえ、真紘」

「なーん?」

「悪いことは言わないから、伊織くんは諦めた方がいいわよ」

「やーよ、ウチまだちゃんと話も聞いてもらっとらんもん」

 真紘の偏った嗜好と、その理由をつかさは知っている。

 初カレと初カノ同士で結婚した両親に憧れる彼女は、女子校生活のあとでその希望を持って福岡ふくおかの、この大学で人生初めての彼氏を作った。

 真紘は慎重に決断したし、熱意を知っていたからこそつかさと英梨も評判を聞いて回ったその相手は、決して軽薄な男子ではなかった。

 真紘と同じ県外からの進学で、ちょっと硬いくらいに真面目で――それでも付き合ってひと月足らずで彼は変わっていった。

 けれどそれは当事者以外にとっては珍しくもない、男女関係にはよくある破局の一つに過ぎなかったと思う。

 どちらかに大きな問題があるわけではない、いくつかのすれ違いと価値観の差から来る自然な別れ。

 それでも真紘が涙するのは当然だったし、つかさも英梨も不運だったと慰めたのも、間違いではなかったと思う。

 ただ、それだけ・・・・ではなかったのではと気づいたときには、真紘の恋人は片手では足りなくなっていた。

 そうして今、いよいよ彼女に言葉は届かなくなりつつある。

「別にね、マウントとりたくて言ってるんじゃないの」

「……そいでもよ。今回はつかさちゃんの言うことでも知らんもん」

 真紘が求める恋人の条件を、伊織はきっと満たすだろう。

 それでも、彼が友人に応えることはないだろうとつかさは確信していた。

「伊織くんが急に私を嫌いにでもならない限り、誰かに乗り換えたりなんてしないわよ、これは真紘だけじゃなくてね」

「……だけん、そういう人に好きになってもらいたいと。知っとる? つかさちゃん、ウチ、告白の成功率は百パーセントとよ?」

「――そう、なら結果で諦めてもらうしかないわね」

「ふーん、ウチ負けんもん」

 真紘が見ているのは、おそらくつかさと付き合い始めてからの伊織だろう。

 だから知らないのだ。

 血も涙もない婚約破棄マシーンみたいだった彼のことを。

 今はまだ引かれるだけで済んでいるけれど、もしこのままアプローチを続けたら彼は彼の信条に従って真紘を拒絶するだろう、それも容赦のない正論で。

 そうして、正しい・・・人に拒まれるのは苦しいのだ。

 好きになった、それさえも間違っているのだと言われている気がして。

 自分が恋をすること、その全てを否定されるようで。

 風呂場で声が枯れるほどに泣いた日を、つかさは決して忘れられない。

 だから恋人を譲れないのは当然のこととして、友人にあんな思いをして欲しくないという気持ちもまた決して嘘ではなかった。

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