僕のことが大大大好きらしい経験人数ほぼ百人の彼女

 天道てんどう家に乗り込んで両家の婚約話に決着をつけてから二日、僕こと志野しの伊織いおり十九歳の夏の事件はまだ終わっていなかった。

 天道からはその後連絡もないまま、なんとなく気力もわかずうだうだと無為に過ごすぜいたくを楽しむ僕の部屋のインターホンが鳴らされたのは午前の早い時間のことだった。

「――うぇ?」

 ドアスコープ越しに見えた来訪者は、大きなバッグを提げた怒り顔の天道てんどうつかさその人だ。

 どうしよう、と悩んでいると、ピンポンピンポンとちょっとお嬢様としてどうなのかという容赦のない連打が始まる。これで不在だったらどうする気なのか。

「はいはい」

「伊織くん!」

 そうして覚悟を決めてドアを開けた僕を待っていたのは、いきなりのそして強烈な平手打ちだった。

「ええ……?」

 ひどくない?

「どうゆ、どいう、どういう! つもりよ!」

 首が吹っ飛ぶんじゃないかという痛みと衝撃で呆然自失のこちらに構わず、二度嚙んで照れ隠しで余分に怒りをチャージした天道が僕を睨む。

 もう完全にマジギレで般若もかくやっていうド迫力だったけども、それでもやっぱり彼女は眩しいくらいに美人だった。

「おばあさまには頭を下げられた上に、これからは好きになさいって言われて、家族みんな良かったねって復縁すると思ってるのに二日間一切連絡もくれないで! 今日も伊織くんのおじいさまとデートに出かけるおばあさまに申し訳なさそうな顔されたんだから!」

「それ僕のせいなの?」

 ものすごく哀れな話だとは思うけど。

 いやよくそんな針の筵に耐えられるな、メンタル強すぎない?

 そしてじいさんは展開が早すぎる、マジかあの人。

「伊織くん以外の、誰のせいだっていうのよ!」

「ごめん僕のせいでいいからちょっと声落としてよ」

 そうして迂闊なことを口にしたせいで天道の怒りは更にボルテージをあげる。

 玄関先でこんな喧嘩してたらほかの住人から苦情待ったなしだ。

「世間体と私と、どっちが大事なの!」

「だいぶ面倒くさいこと言い出したぞ……」

 そりゃ失うものがもう何もない人からしたら、大したことないように思えるのかもしれないけどさあ。大事だと思うよ、世間体って。

 仕方ないので腕を引っ張って部屋の中へ入ってもらう、微妙に抵抗されたのでこれはこれで通報案件だな?

 そうしてなんとかかんとか落ち着かせ、どすんとかやたらめったら重い音を立てるバッグを脇に置き、彼女に椅子をすすめて僕はベッドに腰かけて向かい合う。

 今日の彼女は白いサマーニットにスキニージーンズのややラフな感じで、いつもより強めに巻かれた髪をサイドで一つにまとめている。

 つくづくどんな格好でも似合うな、と感心していると麦茶のグラスをテーブルに戻して天道は口を開いた。

「――伊織くん、どうして私が怒ってるか分かる?」

 性質の悪いモラハラ上司か面倒くさい彼女みたいなこと言い始めたぞ。

 これ謝ったり理由をあげると一層攻撃されるってネットに書いてた。

 僕は詳しいんだ。

「わかんない」

「伊織くんが連絡くれなかったからに決まってるでしょ!」

「アッハイ」

 意外とシンプルで納得いく答えが来て逆に戸惑う。

「や、でもあのプールの次の日にメッセージ送ったんだけど、既読つかなくって、その後も返信もないし、スマホどうしたのさ?」

「――お風呂で落として壊したの」

「ええ……それ連絡つけられないでしょ。なんで怒るの」

「ロジハラは止めて」

「ハラスメントどころか僕なんて平手で打たれたんだけど」

「なによ、前叩かれてみたいって言ってたでしょ」

 言ってない、一言たりとも言ってないぞ。

 そういうのが似合いそうって言っただけだ。

「それに本気で私に連絡とりたいなら家に電話すればいいだけだし、そもそも家に来た時におばあさまに会っていくかって聞かれたでしょ」

「う……」

 それは確かにそうだった。

 勢いを失った僕に、しかし天道は嵩に懸かるでもなく静かに聞いてきた。

「――ねえ、なんであの日、そのまま帰っちゃったの?」

「いや、なんて話をしたものか、考えがまとまってなかったから……ごめん」

「ううん。じゃあ今は? まとまった?」

「や、まだ……」

「そう」

 プールの帰りの時みたいに沈黙が落ちる。

 あの日と違うのは、このまま黙っていてもバスがやってきて状況を変えたりしてはくれないということだ。

 何事かを言わねば、と思っているうちに天道が再び口を開く。

「――それってやっぱり、私の過去のせい、よね?」

「まあ、そうなるかな……」

 天道のために、おばあさんと話をするのは簡単だった。

 今日また顔が見れたときは素直に嬉しかった。

 部屋に彼女がいるなんて、ちょっと舞い上がっている気持ちもある。

 じゃあ今からあの時の仕切り直しを出来るかと言えば、やはり決心はつかない。

 胸につかえたままのものを吐き出すことも、また。

 だから、そんな辛気臭い僕に天道つかさが先んじるのは当然の展開だった。

「――そんなに、そんなに気になるんなら伊織くんが、私の性経験の千分の九百くらいになればいいでしょ! どうしてそれができないのよ!」

「ええ……」

 なにその乱暴な解決法。

 力業にもほどがあるんだけども。

「数字の問題じゃない、なくない?」

「数字の問題よ! 私が一人や二人としただけだったらこんなに悩むの!?」

「そう言われるとそうなんだけどさ……」

「いいじゃない、一日三回もしてれば一年もあれば余裕で上書きも終わるわよ!」

「腎虚になって死にそう」

「それとも何、キミも九十八人とするまで私に待てって言うの?」

 しれっとカミングアウトしてきたけど想像以上に大台目前だったな……!

「いや、それ試したら僕は多分途中で誰かとゴールインすると思う」

 下手したら一人目でフィニッシュだぞ。

「だったら! いま! 私と付き合うべきでしょ!」

「ええ……? いやそれは全然わかんない」

「デートしてキスまでしたんだから伊織くんだって私のこと好きなんでしょ!? それともなに、セックスしないなら付き合ってくれるの!」

「それはつかささんを満足させられてないんじゃないかって疑心暗鬼になって死にそうだから無理」

「じゃあ何? どうすればいいの? 伊織くんが何を考えてるのか、はっきり言ってよ。私、こんな中途半端な気持ちで放り出されて、もうワケわかんない……」

「つかささん……」

 そうして僕は、今までとは違う天道つかさの涙を見た。

 眉根を寄せて唇を震わせた泣き顔は、僕が見たくなかったもので、それでも間違いなくこれは僕のせいだった。

「――その、怖いんだよ。セックスしたら、僕はきっともっとつかささんの過去を気にしだすと思う」

 なら、吐き出したくなかった、言葉にしたくなかった事実に、向き合わなくてはいけないだろう。それで幻滅されても、軽蔑されてもそれを彼女が望むのなら。

「そのうち、僕は九十九人のうちの何位だろう、とかさ、してもらうこと全部にほかの男の影を探したり――僕のものになるはずだった体をなんで大事にしなかったんだろう、ってきっとそんなことを考える」

 童貞だから、といつぞやにキモいと言われた理由はのみ込んで話を続ける。

「それで、そうなったら僕は、多分つかささんに当たると思う」

 全ては過去なのだから、僕が文句を言える相手はとうの天道しかいないのだ。

「だから、そういう酷いこと、したくなくって」

 器が小さい、とそう言う人間もいるだろう、気にせず彼女と付き合える男だって世の中にはいるだろう。

 だけどどうしたって、どう考えたって僕にはそれが我慢ならなかった。

 いや、どうして我慢できるんだ?

 恋人を独り占めしたいと、そう考えることが何故おかしい。

 それがもう絶対に出来ないと分かっていて、でも諦めきれないことが何故悪い。

 誰だって、好きな女の子は、自分の手で大事にしたいと、そう願うものじゃあないのか。

 それが完全な形では、もう叶えられないとしても。

「つかささんには、格好悪いところ、見せたくないから、さ」

 そう、これ以上は。

 それでも自分から積極的に離れることは、もうできなかった。

 だから、婚約話が立ち消えになったのを理由にして、僕らの関係が自然消滅してしまうのならそれでもいいと思った。

 それが僕にできる精いっぱいの強がりだったから。

「――今もそう、実際に思ってるの? 私になんであんなことしたんだって、文句を言いたい?」

「いや、多分、今はまだそんな気はないよ。少なくとも、自覚はない」

 でもそれだって本当のことかは、分からない。

「私のこと汚いって、汚れた女だって思う?」

「思わない」

「婚約者じゃなくなった私には、もう興味ない?」

「そんなこと、ないよ」

「――そう。なら、いいわ」

「……へ?」

「今は私に思うところはないんでしょ、だったらいいわ。起こってないことを気にしてもしょうがないし、そもそも私が自分を大事にしなかったのは事実だし」

 それに、と言って天道はベッドの隣に移ってきた。

 膝の上で握った拳に、滑らかな手が重ねられる。

 そうして彼女はもう一つの手で僕の頬をそっと撫でた。

「伊織くん、お祭りのとき小倉さんに怒ってくれたでしょ。私ね、とっても嬉しかったの、言われても仕方のないことだと自分でも思ってたけど、キミにとってはそうじゃないんだな、って、だから――」

 柔らかな唇が目尻に触れた。

 すごく久しぶりに感じる天道の匂いが鼻腔を満たす、ずっと落ち着かない気持ちにさせられたその匂いに、今は、今だけはとても安らぐものを覚えた。

「泣かないで。大丈夫、これからだって伊織くんは私に優しくしてくれるわ」

「いや、泣いてはないけど、何言ってんの」

「……意地っ張り」

 泣いてはいないけども誤解を招いたようなので目元を拭って洟をかんだ。

 自分こそ泣いていたはずの天道は、目こそ赤いけど表情はもうすっかりいつも通りだった。そしてそこはかとないSっ気が目に宿っていた。

「それとね、そもそも伊織くんがそんなに格好良かったことないから」

「ひどい」

 ガチで泣きそう。

「それに酷いことも、もうかなり言われたし。誰とでも寝る女とか、男子中学生にイタズラしてそうとか」

「うぐ」

 そっちに関しては自覚がある上に純粋に事実なので文句も言えない。

「ふふ」

 言葉に詰まると、いよいよ天道は楽しそうに笑った。

 柔らかな体がその重みを僕に預けてくる。

 触れ合うところから伝わる熱は思っていたよりずっと高かった。

「伊織くんも、少しはおじいさまを見習ったらどうなの? 他の男と結婚して孫までいる女だって受け入れているのよ?」

「自分の祖母をなんて表現するんだ」

 そう言うの本当良くないぞ。

「あと他の男と比較されるのはキツいからやめてほしい……」

「自分の祖父をその言い方はどうなの……?」

「酷い棚上げを見た」

「お互い様でしょ」

 ぐいぐいと押してくる天道の圧に負けて僕はベッドに横向きに倒れ込んだ。

 白い壁をぼんやりと眺める。

「――つかささんは、本当にそれで良いの?」

 正直に言って言われたように優しくできる自信なんて、全くない。

 童貞の僕は、つまりは誰にも選ばれなかった、求められなかった男なのだ。

 女の子はいつだって遠い存在だったからこそ、優しくできた。

 いや、優しくすることしか知らなかったのだ。

 そうでもなかったらしいことは一旦脇に置く。

 だから自分ほど信じられない男なんて、他にはない。

「良いわよ」

 抽象的な問いに、ためらいなく天道はこたえる。

 それは、その強さは人と触れ合うことに慣れているからなのだろうか、彼女は今までにどれだけ傷ついてきたのだろうか。

「それにね、もし伊織くんが心配しているみたいなこと考え出して、あまつさえ口に出すようになって、それで私が我慢ならなくなったら――」

「なったら?」

「その時は『そうか、キミはそういう人なのね』ってキッパリ別れるから」

「ええ――?」

 いつぞやの意趣返しに戸惑う僕に「簡単な話よ」と天道つかさは気安く言った。

「確かに身から出た錆だし、反省もしてるけど。それでもこれからずーっとサンドバッグにされなきゃいけない理由はないし、もし伊織くんがそうやって私を責め続ける人になったら別れるわ」

 それはまぁ当然のことだ。

 異論も無いし、僕は天道のことが好きだから過去を気にして酷いことを言うかもしれないけど、それは仕方ないから我慢しろ、なんて滅茶苦茶を言う気も無い。

 そもそも、そうならなければいいだけの話なんだけども。

「なんか軽くない……?」

「だって、まだ起きてないことでしょ?」

「そうだけど」

「だったらいいの。ね、伊織くん、もし少しでも私を欲しいと思ってくれてるなら、頑張って? もしこれからも一緒にいたいって思ってくれるなら、キミがそうしてくれたみたいに私だって何かあっても受け入れる努力をするから」

「……努力かあ」

 僕は天道を過去ごと受け入れるべく頑張って、天道もそんな僕を受け入れる努力をする。

 そう言われてしまえば、単純な話にも思える。

 傷つき、傷つけるかもしれないから、距離を置くというのはある意味で潔い。

 それで納得ができるなら、そうすればいいのだろう。

 でも過去を受け入れられなくて、それが苦しくて、でもそう思ってもなおその人が欲しいのなら、そばにいたいのなら努力してみるしか、道はないのだろう。

 ごろん、と寝返りをうって仰向けになる。

 天井はすぐに覆いかぶさってきた天道に隠された。

 見上げた彼女は背にした逆光よりもはるかに眩しい。

「それとね、伊織くん、志野伊織くん? 私はね、顔が良いの。おまけにスタイルも良くて、実家もお金持ちなの」

「知ってる」

 今更なんのアピールだろう。

「それにね、キミのことがすごくすごく好きなの」

「……そうなの?」

「そうよ、断られたショックを引きずってスマホ壊したようなものなんだから」

「ぜんぜんしらなかった、そんなの」

「だからね、こんな可愛い女の子を逃したらすごく勿体ないと思わない?」

「つかささん、そうやって自分で釣ろうとするの、あんまり良くないと思う」

「あら、どうして?」

「とりあえずで流されたくなるから」

「そのためにしてるのよ」

 楽しそうな声に思わず、ため息が漏れる。

「ため息つかない」

 頬をつねられて、いよいよ観念した。

 天道つかさは僕には勿体ないくらい美人で可愛くてお金持ちでスタイルが良くておしゃれで押しが強くて、えげつない経験人数で相容れない価値観の主でもあるけれど――それでも確かに僕のことが大好きらしいから。

「天道つかささん」

「うん」

「僕も、あなたのことが、好きです」

「――ありがとう、すごく嬉しい」

 言った端からなに気取ってんだと自意識の刃でめった刺しになった心が、天道の言葉ひとつだけであっという間に持ち直したのが分かる。

 ああ、好きな人に受け入れてもらえるのは、こんなにも幸福なことなのか。

 過去の後悔も、未来の不安も今この瞬間だけは感じなかった。

「だから、とりあえず、恋人からまた、お願いできるかな」

「ええ、喜んで」

 そうして抱き着いてきた天道が、キスをしてくる。

 遠慮なく舌まで入れられた。ものすごかった。


 この日、僕に生まれて初めての彼女が出来た。

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