ふれていたい

伊織いおりくんって、焼きそば好きなの?」

 混みあう大テントでの昼食中に、天道てんどうつかさが婚約者となって以来の名前呼びをしたのにとっさにツッコめなかったのは、ちょうど焼きそばを頬張っていたからだった。

「――ふぁんで?」 

 そうして会話のキャッチボールを優先した結果、完全に訂正を求めるタイミングを逸して、そもそもそこまで彼女に名前を呼ばれることが嫌でなくなっていることも自覚してしまう。

「だって夏祭りの時も買ってたでしょ」

「今日もあの時も、別に深い理由はないけど……」

 そもそも焼きそば嫌いな人間もあんまり聞かないというか、こういう時につい食べてしまうメニューな気がする。

 なんて真剣に考え込んでいると、四人がけの丸いテーブルで対面でなくなぜか隣を選んだ天道は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ね、伊織くん」

「――なに?」

「ひとくち、貰ってもいい?」

 本題はこれ名前呼びでいいのかどうか確かめたんだろうな、とか、そこまで密着する必要ある? とか思いつつ焼きそばのパックをすっと差し出す。

「食べさせてくれないの?」

「いや、麺類は難しいって」

 じりじりと防衛線が後退させられていることを自覚しつつも、まっとうな指摘をすると「そう」とさして粘ることもなく天道は控えめに一口つまんだ。

「ていうか、それだけで足りる? いつもはもうちょっと食べてないっけ」

 焼きそばもそれほど多い量じゃないが、彼女が頼んだのはそれに輪をかけて小さめの焼きおにぎり二個セットだ。

 こちらも一口シェアしてもらってるので、昼食というには物足りなさそうに思える。申し訳程度には野菜の入った焼きそばと違って炭水化物オンリーだし。

「食べすぎて動けなくなるよりいいでしょ」

「まぁ、そうかもしれないけど」

 個人的には思っていたよりも空腹で、ちょっとこれだけじゃ足りるか不安になるくらいなんだけど。燃費がいいな。

「伊織くんこそ、あんまり食べるとお腹目立つわよ」

「あぁ、だから食べな、ひょぅ」

 わき腹を摘ままれて、くすぐったさに変な声が出た。

 何をするのかと抗議しようとして、おへそを隠してジト目を浮かべる天道の表情に口をつぐまされた。

「思ったこと全部口にするの、良くないと思うの、私」

「覚えておく……」

 そっちが言わなきゃ僕だって意識しなかったんだけど、と思いつつすっきりとした天道のお腹をチラ見していると、椅子から身を乗り出すようにして彼女は体を預けてきた。

「あーん」

 そうして上機嫌な声とともに偏差値激高の顔に満面の笑みを浮かべて、焼きそばを箸で僕の口元に運んでくる。

 出来るだけ平静を装って、それをすすり上げた。

「おいしい?」

「……」

 もっきゅもっきゅと頬張りながら無言で頷く。

 焼きそばは、例によってちょっと脂っぽくてソース過多でチープな、こういうところでのごちそう・・・・味だった。

 とは言えそれは、決してこの婚約者が手柄顔で誇ることではないはずだ。

「つかささん、唇テカってるよ」

「――――伊織くん、あーん、ほらあーん」

「ちょま、はやいはやい――!」

 せめてもの抵抗でそう言った僕の口に、のみ込むもなく次から次へと焼きそばが押しつけられる。ちょっとバカップルみたいで楽しかった。


 §


 昼食後には再び流れるプールへ。

 現在婚約者様はレンタル浮き輪にそのお尻を突っ込んで、魅惑の長い脚を見せつけるプールぷかぷかお嬢様と化していた。

 僕の役目はその脇で人にぶつからないよう浮き輪を操る水先案内人だ。

 予定では午後イチでウォータースライダーを滑るつもりが、いざ向かってみたところ二人用のコースは待ち時間が実に50分をオーバーしていたのだ。

「ちょっと調べが甘かったねー」

 防水ばっちりのスマホを構えた歴戦の行列待ちにくらべ、あんまりにも備えがなさすぎた僕らはやむなく引き揚げてきたのである。

「やっぱり、平日とは言え夏休みだものね……」

「まあもう少しすれば人も減ってくるだろうし、あとでまた行ってみればいいんじゃないかな」

 この時間帯は暑さもだけど、おそらく人手もピークだ。

 僕らみたいに午前から来ている人間はまだまだ帰る時間じゃないし、昼過ぎからやってきた人たちもいるはずだ。

 もう少し待てば遠方組や朝一から来てる人は引き上げるだろうし、帰りまでに一度すべるくらいはなんとかなるだろう。

 まぁ入場直後に行っておけば、待ち時間も短かくてすんだんだろうけど。

「そうね、せっかく密着できる機会だものね」

「二人だとそれ用の浮き輪使って滑るみたいだよ」

「でも着水した後なら分からないじゃない?」

「先に言っとくけどどさくさでパンツ引っ張るのは止めてね」

「しないから、人をなんだと思ってるの?」

「自分の言動ちょっとは振り返ろうよ」

「もう」

 口をとがらせながらも、なんかこう輪切りのフルーツが入ったカクテル持たせたらさぞかし似合いそうな天道は本当に楽しげで、その分口も滑らかだ。

 しかし僕もそろそろ慣れてきた。

 からかわれっぱなしもシャクなの、水を差さない程度には反撃させてもらおう。

 と思っていると天道の浮き輪が、流れにとどまって遊んでる子たちへとぶつかりそうになったのでぐいとひっぱって方向修正。

 保護者らしき男性が会釈するのにこちらも返して流れる先をちらと確認した。

「ありがとね、伊織くん」

「ん」

 そうしてもう完全に名前呼びでいくことにしたらしい天道が僕の頭を撫でる。

 髪の間に指を差し込まれる感覚はやたらめったらエロティックだった。

 しかし、この状況はもしかして流されるままの僕の人生のこれからを暗示している可能性が……?

「ま、つかささんはどうぞ好きなだけお尻冷やしてなよ」

 怖い想像になったので誤魔化すために話を変える。

「言い方」

「いやだってそれ、他は暑くない?」

 白い肢体と白いビキニを浮き輪の上で見せつけるようにしている天道は、なんならお尻も水面から浮いてそうで、投げ出した足やら手の先だけを水にぱちゃぱちゃやってるのだ。

 思いっきり日に晒した体は暑そうだし、この姿勢になってからさすがにプールサイドの男の目が露骨になっていて少々面白くない。

 あと同時にこんな子がプール流れてたらそりゃあやっぱ見るよな、とちょっと変な安心もする。僕だけじゃないんだなって。

「気になる?」

 と思っているとずずずと摩擦音のあと、ぼちゃんと水音があがった。

 浮き輪から滑り落ちた天道は、頭までプールに潜ったあとで飛び上がると、勢いよく僕に頭から浮き輪をかぶせてくる。

 もちろん肩でつっかえて、あとは哀れなエリマキトカゲの出来上がりだ。

「なにすんのさ、てか髪濡らしたくないんじゃなかった?」

「どうせ午後にはスライダーに乗るつもりだったし、水に浸かって伊織くんの心配を解消してあげたの」

 濡れた顔をぬぐいながら、天道はそう言って笑った。

 今日はアップになっている緩く巻きの入った明るい髪が肌にはりつき、白い肌を水が滴り落ちる。

 それを見ただけで、心臓が大きく脈打った。

 午後の日差しにきらめく水面より眩しい彼女にふらふら近づこうとして、僕は首に引っかかったままの浮き輪で天道を突き飛ばす形になった。

「わぷ」

「あ、ごめ、っ……ぷっ」

 ぎりぎり腕で顔への直撃を防いだものの、聞いたことのない悲鳴をあげた天道についつい噴き出してしまう。

「伊織くん……?」

「や、ごめ、わざとじゃないんだけど」

 とりあえず次なる悲劇を避けるべく浮き輪を首から外すと、天道はちょっとぶつかったのだろうか高い鼻を抑えながら恨みがましい視線を向けてきた。

「ん」

 そうしてすっと白い手が何かを求めるように差し出される。

「いや、ごめんて」

「ん!」

「……はい」

 圧に負けて、大人しく浮き輪を差し出す。

 横向きにした浮き輪で顔ではなく頭を狙っただけ天道は優しかったように思う。


「――それじゃあ、一周ね」

「本気でやんの……?」

 そうして婚約者殿から言い渡された贖罪は、彼女を背に抱えて流れるプールを一周することだった。

 なんか天道は拘るけど、これどっちかっていうと水着の子をおんぶする男が嬉しいだけじゃないかな……。

「なによ、水の中だしそんなに重くないでしょ? 元々だけど」

 最後気になるんなら背負わせなきゃいいのに、と言わないだけの分別は僕にだってあった。

 天道はどう考えたって軽い部類だろうけど、身長は百六十センチをこえてる。

「えーと、つかささんの身長だとだいたい五十――」

「ぶつわよ」

「アッハイ」

 今までで一番怖い声が出た。

 やっぱりと言うか当然と言うか体重の推測はライン越えだったらしい。

「伊織くん、すこし膝落として」

「ハイ」

 唯々諾々と背を向けた僕に「えい」と気合を入れて天道がのしかかる。

 ――あっ、これ駄目な奴だ。

 一瞬で理性が警告を慣らす、それを言葉にできないうちに彼女は位置を調整してるのか、ぐいぐいと身を押し付けてきて当然おっぱいがぐにぐにと背でつぶれた。

 間を遮っているのは厚くて薄いビキニとその上のキャミ二枚だけだ。

「もう、落ちちゃうから、ちゃんと脚持って」

「ハイ」

 馬にまたがるように僕の体を挟みこんでいた腿の裏に手を入れて持ち上げる。

 荷物を背負いなおす要領で天道の身揺らすと、彼女は首に腕を絡めてぴたりと密着して位置を定めた。やはり予想通り幸せとの接地面積はすごかった。

 正面から抱き合った時もあれだったけど、背がじんわりあったかくなるこの感覚もやばいな……。

「じゃ、いきましょ」

「うひょうっ」

 耳元でささやかれた声に、思わず背がびくんとなった。

 ついでにサーフパンツの下のインナーのその下のガッチガチに固定されているなにかもびくんとなった。

「伊織くん?」

「ヘ、ヘーキヘーキ、イクヨー」

 もうこれ体動かしてないとどうにかなるな、という確信から即座に一歩を踏み出す。流れに乗る方向なので水の抵抗はさして感じないし、実際天道もたいして重いというわけじゃない。

 僕の顔色と精神的余裕以外は問題なしだ。

 やけくそ気味にざぶざぶ進む僕に、きゃあきゃあとはしゃいだ声をあげていた天道がぐいと体をさらにもちあげて右の掌を僕の胸の中心に押し当てた。

「……伊織くん、ドキドキしてる」

「そりゃあ、こういうの慣れてないし」

 実際には慣れてないどころではない。

 思春期以降は家族以外の女性と触れ合うことなんてほぼなかったし、今と同じようにせがまれて妹を背負ったのだって中学生が最後だ。

「私も、って言ったら信じてくれる?」

 (おっぱいでよくわかん)ないです、というのが正直なところで、九十数人の性体験がある天道のことだから「慣れてない」ではなくて「ドキドキしてる」に絡んだ発言なのだろうけど、正直今難しいこと言われても困る。

「こうやって、普通のデートみたいなこともずっとずっとしてみたかったの」

「それは――うん。良かったね? で良いの?」

「ええ」

 会話に意識を割く一方で、僕の脚はざぶざぶと人を避けて流れるプールを歩き続ける。というかそうでもしなければいよいよどうしていいか分からない。

「だから――――」

 天道の手は僕の胸にあてられたままで、心臓は運動ではない理由で早鐘を打ち続けている。

 もしかして彼女は僕がぶっ倒れるんじゃないかと心配で触診してるんだろうか。

「だから?」

「――ありがとう、って言っておこうと思って」

 それは果たして本当に天道が言いたいことだったのかは疑わしかった。

 だけど恋人もいたことのない童貞の僕が考えたところで、わかるはずもない。

「それはどっちかっていうと、僕が言うべきじゃないかな。つかささんみたいな美人とお祭り行って、プール行ってさ。人に自慢できるよ」

 もっとも学内でうらやむ奴はそういないのは互いに分かっているけども。

「――そう」

 開き直っていった僕にぽつりとかえした天道の声は、小さくて弱弱しかった。

 夏のプールの喧騒にかき消されないよう、その一言一句聞き逃すまいと僕は耳を澄ませる。こんな動揺を誘う状況で、彼女が大事な話をしようとしているのだけは分かっていたから。

「じゃあやっぱり、婚約して良かったって思えたでしょ?」

 常通りの自負ではない、わずかな不安が滲んだ声。

「うん」

 それに率直に簡潔にこたえると、背の天道は小さく噴き出した。

「――鼻で笑ったくせに」

「ハハッ、覚えてない」

「もう、それやめてよね」

 憎たらしい、と呟いて天道は僕の首筋に噛みついた。

「いたいいたい」

 中学生ぐらいの子が、ものっそい顔をしながら横を通り過ぎていく。

 はた迷惑なバカップルになってるんだろうな、と思いつつも今日のところだけは勘弁してもらおうと思った。

「――ね、伊織くん、もう少しゆっくり歩いて、ね」

「わかった」

 さして長くもないはずのプールを、僕は時間をかけて一周した。

 もっとずっと、彼女に触れていたいと、そう思いながら。


 §


 身体的だけでなく精神的にもアップダウンがあったからか、帰りの船の時間にあわせてプールを出たころには僕らはもうくたくただった。

 園の入り口で渡船場へ向かうシャトルバスを待つ間、天道はくてんと力を抜いて僕に寄り掛かっていた。

 日に当たり続けていたからか、白い肌は少し赤くなっている。

「つかささん、眠くなったら言ってね」

「うん」

 僕こそあくびしながらだったけども、天道の返事もどこかぼうっとしていた。

 西に沈みゆく陽は断末魔の光で空を赤く染め、そこかしこからそれを嘆くように虫たちの声が響く。

 楽しげに笑うカップルたち、遊び疲れて眠る子供を背負った家族連れ、帰路に就く人々の影が長くのびる夏の夕暮れの中、僕らはしばし黙り込んでいた。

「――あのね、伊織くん」

 そうしてつないだ手に、じわり力をこめながら天道が沈黙を破る。

「ここの近くのホテルって、ナイトプールもやってるみたいなの」

「あ、そうなんだ」

 渡船場のそばにあったいかにもなリゾートホテルか。

 オーシャンビューだしそりゃナイトプールくらいあってもおかしくないよな。

 でも時期が時期だしお高いんだろうなあ。

「それでね、更衣室で調べてみたんだけどまだ部屋も空いてるみたいで――」

 呑気に考えていた僕は、続いた言葉と彼女の表情に、言葉を失った。

「実は水着、もう一つ持ってきてたの。だからね、せっかくだし今日は泊りで――どう?」

 今日一日で自覚した彼女への思いと、それにともなう当然の性への期待。

 彼女に触れるのが許されるならそのうちに最後まで、と確かにそう考えた。

 けれどそれが具体的に用意された途端に、背中にツララでも差し込まれたみたいにはっとした。

 キスはした、抱き合いもした、だからきっと天道にとって次はセックスで、それが当たり前なのだろう。

 けれどそれこそが、何よりも僕たちの間に横たわるものを表している。

 僕が彼女の感触に浮かれて今後を夢想していたころ、天道はホテルの予約状況を調べていた。僕にとってのいつかは、彼女にとっては今夜だった。

 特別彼女の気が早いというわけではないだろう。

 僕たちは社会的に大人と扱われる年で、なにより婚約者という関係だ。

 デートして、二人で泊まって、セックスする。

 そこに、何の問題もない。

 だけどそれを現実として突きつけられて、僕は怖気づいてしまった。

 あらためて九十余人との経験とはそういうものなのだと気づかされて。

 これは罠でも婚約をまとめるための作戦でもなくて、天道は単に今日という日をもっと特別なものにしたくて、その仕上げに僕とのセックスを求めたんだろう。

 そこまで分かっていても、怖かった。

 天道にとって、そんな「当たり前に」さしはさまれる行為を、果たして自分がこなせるのかということが。

 失望させるのではないのかということが。

「や、でも、僕用意してきてないし、一度に消化しちゃっても勿体なくない?」

 嘘は苦手だった、この二か月ほどの付き合いで天道も多分それを知っている。

 だから声に出ないよう顔に出ないよう、最大限に努力した。

「――うん」

「だからさ、また今度一緒に来ようよ」

 明るく、能天気に。ただ単に鈍い男なのだと思われることを願って。

「ええ、じゃあ次の機会に、ね」

「うん」

 それでもやっぱりそう言って笑った天道は少し寂しそうで、帰り道の僕らはほとんど会話もなく、別れた。


 翌日、天道家から婚約解消の打診があったと実家の父から電話が来た。

 すぐに彼女に送ったメッセージに、いつまでたっても既読はつかなかった。

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