婚約者のいる日々

「ねえ、志野くん。ちょっと大事な話があるんだけど」

 顔と服装に不似合いな学食の担々麺を上品に食べ終えて、天道てんどうつかさはそう水を向けてきた。

 彼女は繊細な顔立ちの大層な美人で、それを自認してあまつさえ口にするクセのある性格で、いまだ学生の身で実に九十人を超える男性遍歴を持つ難のある性道徳の主で、つい先日に少々不本意ながらも僕こと志野しの伊織いおりの婚約者となったワケあり女子だった。

「――明日でもいい?」

「なんでよ! 大事な話っていってるでしょ!?」

 そうしてややヒステリックに声を裏返し眉を吊り上げみせてても不思議と不快感が無く、むしろもう少しからかってやろうかしらんと新たな性癖の発露を促す人徳? の主でもある。

 婚約者候補代理見習い心得となってからしばらくたつが、今も彼女に関する新たな発見は尽きずにいた。

「じゃあせめて昼食くらいはおいしく食べさせてほしい」

「なに、私にあーんでもしてほしいの? 別に良いけど」

「それで男がみんな喜ぶと思ったら大間違いだぞ、食事に集中させてって話だよ」

 この自信はどっから来るんだろうな。顔か。

「そうやって私につれなくする志野くんの態度のほうが間違ってると思うけど……あとね、女の子と一緒の昼食でカツカレーはどうなの?」

「それを言うならそっちの担々麺はどうなんだよ」

「私はどうせ色っぽい話になんてならないでしょって当てつけだし」

「じゃあ僕もそういうことで」

「もう」

 天道は行儀悪くテーブルに頬杖をつくと大きなため息をついた。

 自分が美人であることをハナにかけ、ついでになにかと押しつけがましい物言いが多いのだが意外や意外にそれでも天道は不思議と話しやすい相手だった。

 まぁ多分そう言った要素を彼女が誇張して見せているからなんだろうが、キャバクラとかでもやっていけそうだなこのお嬢様は、と思いつつ最後にとっておいたカツの一切れを口に運ぶ。

 ルーに浸ってしんなりした厚めの衣に歯を立て、ちょうど脂身のところで二つにかみ切るとじわり悪魔的なうま味が溢れだす。

 僕は昼食のフィナーレを飾るその一口を心行くまで楽しんだ。

「おいしそうに食べちゃって、まぁ」

「――む」

 しみじみと言った天道に何となく敗北感を覚えて、お冷で口の中をすっきりさせると自分のとついでに綺麗に片付けられた天道のトレーを手に取った。

「食器戻してくる」

「なに、それくらい自分でするわよ」

「いいよ。そのまま席、取っといてくれ」

 じゃあ私がと言いかけた天道を「早い者勝ちだ」と切り口上で制して席を立つ。

 別に食堂はそこまで込み合ってるわけじゃない、デリカシーがないと暗に言われたことへの意趣返しのつもりだ。

 ええ格好とも言えないこの程度のことなんて慣れるくらいにはモテるだろうに、「もう」と呟いた天道の声はやけに弾んで聞こえた。


 §


「――ほら、彼、戻ってきたから。もう声かけないで、誤解されたくないの」

 そうして返却口から戻ると、天道はチャラそうな二人組をつれなく追い払っているところだった。ほんの数十秒でこれって凄いな。

 天道が誰と話していようが構わないが僕に向けられた不躾な視線には腹が立つ。

 無言で睨み返すと雰囲気イケメンどもは、いやらしい笑みを浮かべて何事か二人で盛り上がりながら去っていった。

 ふん、と思わず鼻が鳴る。

「ごめんなさい」

「――いいよ、腹は立ったけど天道のせいじゃない」

 めずらしくしょげた感じの彼女に尖った声にならないよう気をつけて答える。

「あの、婚約の話でちょっとからかわれただけだから、私が言っても説得力ないのは分かってるけど、誤解しないでね……?」

 顔がとても良い天道はしおらしい仕草も様にはなっていたけども、個人的にはあんまり似合わないように思う。

 属性的に陽の者だからだろうか、笑ったり怒ったり調子に乗ってたりしたほうが天道の魅力は活かされている気がする。本人には言わんけど。

「まあ、そっちはどうでもいいよ。じろじろ見られてムカついただけ」

「なんでよっ! その答えはおかしいでしょ!?」

 天道は眉を吊り上げたけれども男性遍歴を考えれば今更もいいところだしなあ。

 知らないところで声をかけられる彼女を気にしてたら、多分僕は一分おきぐらいで気を揉むことになる。とても身が持たない。

「あのね、志野くん。一応言っておきますけど、キミとの婚約が決まってからは、私誰とも寝てないから」

「え、それ大丈夫? そろそろ我慢できなくなって来ない?」

「ちょっと……じゃない! そうじゃなくて! 少しは見直したり、評価してくれたり、嫌だけど疑うそぶりとかみせて! 私に関心を持って!」

 うーん綺麗なノリツッコミ。

「いや、断るつもりの婚約者の行動縛るって横暴でしょ。あと僕が引っかかってるのは天道が積み上げたスコアだから、記録が更新されないからって見直す理由にはならないし」

「ロジハラはやめて! さっきみたいに優しくしておいて落とされると落差がきついの! なに、志野くんは私を追いつめるのが好きなの!?」

 こういうわがままなところはいかにもお嬢さんだなあ、と思う(偏見)。

 あと食器片づけただけで優しくされた、なんて童貞みたいなこというあたり、本当に体目当ての付き合いしかなかったんだなって感じで不憫だ。

「仮にそうだとしても天道の自業自得だと思うけど、そんなつもりはないよ」

「だったら伝えるのは後半だけにして……ううう、まさかこういう方向でかえってくるなんて……」

 口をとがらせながら髪をくしゃりとする天道はとんでもなく様になった。

 何気ない仕草が一々ドラマか映画かって感じで絵になるんだから、世の中ってのは不公平だな、と思いつつ壁の時計で残りの休み時間を確かめる。

「もっと! 関心を! 持って!」

 バンバンバンとテーブルをたたいて抗議された。

「はいはい、何がどういう方向でかえってきたって?」

「過去のツケよ。あのね、男の子の反応なんて大体三つだったの。尻軽だって嫌悪するか、簡単にヤレるって見下してくるか、馬鹿にしながら下心が見え見えか」

「まあ、そんなところだろうね」男ってほんと馬鹿。

「でも志野くんって下心もないし、見下しても……なさそうだし? 私のこと嫌いでも……ないでしょ? そういう相手にこんな対応されるのはこたえるの」

 途中途中でずいぶんと自信なさそうだなあ、と思いつつ一応は頷く。

「そりゃ天道が何してても自由だし、そもそも魚心あれば水心で男にも原因はあるし、ついでにじきに婚約者でもなくなるし」割とどうでもいい。

「そこはまだ決まってないじゃない!」

 個人的にはほぼ確定だよ。そのために今を耐えてるんだから。

 というかここまで言われてまだ婚約をあきらめてないのか、すごいガッツだな。

「――あ、でもよく考えたら僕との話が破談になったら、天道が望まぬ婚約を強いられることもないんじゃない? うちのじいさんとそっちのおばあさんの約束が原因なんだし、無事生き延びられたら自由恋愛できるよ、ほら」

「私、この婚約は望ましいんだけど……あとあんまり拘らない志野くんでも引くのに、いまさら私が真っ当な恋愛できると思う……? それと確かに私が言ったことだけど死の可能性を示唆しないで」

 自業自得じゃん。とは口に出さないでおくくらいの情けは僕にもあった。

「じゃあどこか遠くで何も知らない相手と付き合えば?」

「志野くんって自然に酷い発想出てくるのね……」

「失礼な」

 そりゃそうなったら相手は可哀想だなとは思うけど、隠し通せばよくない?

 世の男女全てが互いの過去を分かりあって付き合うわけでもないだろうに。

「で、そういう話がしたいだけだったらそろそろいい? 午後の講義前にちょっと寝たいんだけど」

「ふふふ、そんな理由で男の子に話を切り上げられるのも初めてね……!」

 割と傷ついた、みたいな顔してるけど一々そういう反応が面白くてついついやらかしてしまってるところはこっちにもあった。言わんけど。

「要件は全然済んでないから、昼寝は諦めて」

「ええ……」

「いやそうな顔もしないで。志野くん、ちょっとスマホ出してくれる?」

「え、嫌だけど、何する気?」

「聞く気があるならなんでまず断るのよ! あのね、私のに位置情報アプリ入れたから、志野くんの方で見られるように設定してもらえる?」

「なんでまたそんなことを」

「言葉だけじゃなくて、浮気なんかしないって証明のためよ」

「付き合ってないんだから浮気も何もなくない?」

 一瞬顔をひきつらせた天道は、どうやら聞かなかったことにする気らしく、アプリを表示させたままバッグから小さな紙袋を取り出した。

 テーブルに置かれたそれからはカシャンと何やら硬質で軽い音があがった。

「それとこれ、操作できるように設定するから」

「なにそれ」

「……女性用の貞操帯、スマホで、ロックできる、タイプの……」

「はあ」

 ははーん? さては馬鹿だな天道?

「なに、言いたいことがあるなら言ってよ」

「天道って頭悪かったっけ?」

「いっそ馬鹿じゃないかってハッキリ言って! 確かに冷静になって考えると自分でもアレ? って思ったわよ!」

「良かった、自覚できてるならまだ引き返せるよ」

「ああもう! だって志野くん私のこと、かなり性に奔放だと思ってるでしょ!? こうでもしないと信用されないと思ったの!」

 性に奔放ってまただいぶ綺麗な言葉を選んだな。

「いや、信じろって言うんなら信じるよ。そもそもここまでやらなきゃ駄目なら初めから無理じゃない?」

「うん、信頼してもらうにはそっちの方が正しい気はしてるの、お願いだから手加減して、言葉を選んで」

「それで嘘つかれたら見限るだけだから話も早いし」

「正論で殴った後に冷酷な現実突きつけてくるのもやめて! 泣くわよ!」

「それ撮影していい?」

「――志野くん、人の心って持ってる?」

「失礼な」

 ちゃんとあるよ、今ちょっと魔が差してるだけで。

「でもそっか、美人苛めるのって楽しいんだな……」

「なにか過去にかなしいことでもあったの……?」

 憐れまれてしまった。

「天道と婚約して初めて良かったと思えたのに」

「全然ちっとも嬉しくない」

 頬杖をついた天道は他所を見ながらはあ、とため息をつく。

 うん、これはちょっと明らかにやり過ぎだったな。

「ごめん、天道。悪ふざけが過ぎた」

「………………」

 頭を下げると、天道の明るい茶の瞳が横目で僕をとらえる。

 まつげ長いし目力凄いな、と思っていると、彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返して先ほどよりは軽い感じのため息をついた。

「……いいわ、結局身から出た錆だもの」

「それでも今度から気をつけるよ」

「なんで志野くんそれが言えるのに婚約は嫌なの……?」

 天道が九十人超と寝てるからかな、とはさっきの今なので黙っておく。

 いや、間違いなく僕も調子に乗ったけど、これやっぱちょっと誘い受け体質でツッコミしろ満載の天道にも原因がないか?

 いらんことを言いそうになる前に話を進めよう。

「――で、アプリは僕もこれ入れればいいの? こっちの位置情報もわかるとかそういう罠ないよね?」

「あ、うん、そこは設定できるから大丈夫……でも、いいの?」

「いいよ、天道がトラブったときに役立つだろうし、落としたり忘れたりしたときにも手伝うくらいはするよ」

 流石に天道も相手を選んでるとは思うけどさっきのを見ると、そして男がいままでヤレてた女の子に対する心象を考えると備えておいてまずいことはないだろう。

「……ねえ志野くん実はちょっと意地悪してるだけで私と結婚する気だったりしない? もしそうならそういう小学生みたいな真似ってあんまりよくないわよ?」

「ハハッ」

 天道は本当に冗談が好きだなあ。

「また鼻で笑った……!」

 歯ぎしりしながら天道は目の前でポチポチと設定を進めていく。

 完了後に起動してみると想像していたよりも精度は高かった。学内ならどの建物にいるか、くらいまでは分かりそうだな。

「でも天道、これプライバシー筒抜けになるけどそれは良いの?」

「どうせこれからは出来るだけ志野くんに付き合う気だし。第一、普段私がなにしてるかなんてそんなに興味ないでしょ?」

「確かに、まったくないね」

「この男……!」

 キレるくらいなら自分で振らなきゃいいのにな……。

 とまれこれで要件の一つは片付いたらしい。

 問題はもう一つの紙袋だ。

「それで、そっち貞操帯は?」

「…………一応、設定だけしておいてもいい……?」

「――ちょっと待って」

 冷静に考えると貞操帯管理アプリ入れられるのか?

 それは他人に見られると言い訳不可能な奴では????

「結局どういう類のものなの? あ、出さなくていい、出すのは止めよう」

「どうって、その、ええとステンレス製で内側はシリコンで、T字型で、腰回りのベルト部と、その貞操部にそれぞれロックがかかる、みたいな……」

「それ、普段の生活はどうする気?」

「お、お手洗いはつけたままで出来るから、お風呂の時だけ志野くんに連絡して外してもらおうと思ってたんだけど」

 風呂の時に外すのはまぁ分かるとして、トイレそのままで出来るのか、出せるけど入れられない構造となるとかぶれそうな……いや、深く考えるのはやめよう。

「それ、僕は天道がお風呂に入る前と後で毎日操作しなきゃいけなくない?」

「あんまり、いい考えじゃない気はしてきたわ……」

 寝る時も大変そうだしなあ。

「そもそも本当にお風呂なのか分からないんじゃ意味ない気がするんだけど」

「それは――そうね、ビデオ通話でもする?」

「僕は毎日天道の入浴を見せられるのか……」

「そこは嫌そうな顔しなくていいでしょ!? 喜びなさいよ! むしろすっぴんみられる私の方が恥ずかしいんだから!」

「問題なのはすっぴんなのか……」

 普通裸見られるほうが駄目では? と思ったけど天道はまあ自慢するだけあってスタイルいいし、構わないのか。

 うーん、いかにも見せつけ慣れてる感がある。

「やっぱりそっちは無しで。そこまで干渉するときりがない」

「そうね、志野くんの負担も大きいし、面倒な女だと思われても逆効果だし」

「いや、最後の心配は今更だけど」

「ねえ志野くん、本当にもう少しだけ私に優しくしてくれてもいいのよ?」

「そうしてるつもりなんだけどなあ」

 今日だって一緒に昼食して、こうして話にも応じているのだ。

 恋人がいたことのない童貞に繊細な気配りなんてものは期待しないでほしい。

「まあ、本当に嫌なことしてたら遠慮なく教えてほしい、できるだけしないよう気をつけるから」

「なんか、その言い方がずるいのよね……」

 ここでトーンダウンするあたりダメな男にひっかかりそうなんだよなあ、天道。

 と、壁の時計を見ればそろそろ昼休みも終わりだった。

 気づけば食堂もかなり人が少なくなっている。

「天道、そろそろ時間。次のコマ、どこ?」

「え、あ、もうこんな時間? 五号館だけど」

「じゃあ途中まで一緒か、行くよね?」

「ええ」

 律儀に布巾でテーブルを拭きはじめた彼女に台の始末を任せて、汗をかいたコップを返却口に持って行く。

「じゃあ行こうか」

「――志野くん、お行儀悪いわよ」 

 戻りしなに濡れた指をズボンの尻で拭っていると、バッグからタオルを取り出していた天道に苦笑いをされた。

「お嬢様とは住む世界が違うんだよ」

「なにそれ、同じ大学に通う婚約者でしょ」

 婚約者であっても付き合っても思いあってもいない僕らは、当然手も繋がないし腕も組まない。微妙な距離をとって並んで歩く。

「それだけ聞くといい感じの関係なのになあ」

「志野くんが受け入れてくれれば『それだけ聞くと』も『なのに』もいらない話じゃない」

 たしかに客観的に見ればそういう見方もできる気もするし、思っていたより天道も悪い子ではなかった。

 でも、やっぱり九十人切りはなー……絶望的な価値観の違いを感じるんだよな。

「あとね志野くん、ちょっと考えたんだけれど」

 なんて考え込んでいると、天道にくいと袖を引かれた。

 初夏の日差しに照らされて、明るい色の髪がきらきらと風に揺れている。

「うん?」

「私たち、同棲すれば貞操帯なんて必要ないんじゃない?」

 立てた人差し指を唇にあて、天道つかさは名案とばかりに微笑む。

「うん。じゃ、お疲れ」

「ちょっと――!?」

 僕は走ってその場を後にし、あとで泣きながら抗議された。

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