だいなしキツネ
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不条理劇とは何か ベケット『ゴドーを待ちながら』
◆ご挨拶
こんにちわ、だいなしキツネです。
今日は、ベケット『ゴドーを待ちながら』を台無し解説していくよ!
◆ベケットとは?
サミュエル・ベケットは、1906年にアイルランドで生まれたフランスの劇作家・小説家だよ。パリではかの有名なジェイムズ・ジョイスと知り合って、珍作『フィネガンズ・ウェイク』の口述筆記や複写を手伝ったという噂だね。第二次世界大戦中はフランスのレジスタンスに参加したという強者だけど、なんやかんやあってパリを脱出してから小説を書き始め、1952年には歴史に残る問題作『ゴドーを待ちながら』を発表、賛否両論を巻き起こしつつ、評価の定まった1969年にノーベル文学賞を受賞したんだね。
さてそれでは、本題の『ゴドーを待ちながら』とはどのような作品だったのだろうか。
◆『ゴドーを待ちながら』とは?
主役は二人、エストラゴンとヴラジーミルだ。二人は対照的な人物で、おそらくエストラゴンがチビ、ヴラジーミルがノッポ。エストラゴンが健忘症で、ヴラジーミルが強迫神経症。エストラゴンが被虐的で、ヴラジーミルが加虐的。二人に共通しているのは、暇なこと、救われたいこと、つまりゴドーを待ちわびていること。二人は田舎道、一本の木の前で、他愛のないやり取りをしながらゴドーを待っている。
エストラゴン「どうにもならん」
ヴラジーミル「(がに股で、ぎくしゃくと小刻みな足取りで近づきながら)いや、そうかもしれん。(じっと立ち止まる)そんな考え方に取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきたんだ。ヴラジーミル、まあ考えてみろ、まだなにもかもやってみたわけじゃない。で……また戦い始めた。(瞑想にふける。エストラゴンに)やあ、おまえ、またいるな、そこに」
エストラゴン「そうかな?」
ヴラジーミル「うれしいよ、また会えて。もう行っちまったきりだと思ってた」
エストラゴン「おれもね」
ヴラジーミル「何をするかな、この再会を祝して……(考える)立ってくれ、ひとつ抱擁をしよう」
エストラゴン「(いらいらして)あとで、あとで」
沈黙。
劇中は全編通して意味が無い。ただゴドーを待ちながら暇を持て余して、意味不明なコントを繰り広げる。ひたすら靴を脱ごうとしたり、近づいては離れたり、泥の中で藻掻いたり、首を吊ろうとして失敗したり。そうするうちに時間が経って、最後は見知らぬ少年から「ゴドーは今夜は来られないけど明日は来るよ」という伝言を受け取って終わる。無意味だね。どれぐらい無意味かというと、例えばこの作品のラストシーン。
ヴラジーミル「じゃあ、行くか?」
エストラゴン「ああ、行こう。」
二人は、動かない。
が有名だね。他には、
ポッツォ「(椅子を見て)ところで、座りたいが、どうしたらよいか、えーと」
エストラゴン「なにかお手伝いできたら?」
ポッツォ「うん、あんたに頼んでもらってみようか」
エストラゴン「えっ?」
ポッツォ「あんたが、わしに、座ってくれと頼んでみる」
エストラゴン「それで役に立ちますか」
ポッツォ「たぶんね」
エストラゴン「よし、じゃあと。どうぞ、お座りください」
ポッツォ「いやいや、それには及びません。(間。低い声で)もう少し、熱心に」
エストラゴン「どうか、そうお立ちになったままでは、お風邪を召しますよ」
ポッツォ「そうかね?」
エストラゴン「そうですとも。そりゃもう、絶対に確かです」
ポッツォ「あるいは、おっしゃるとおりかもしれん。(座る)いや、ありがとう。これでまた落ち着けた」
無意味だね。
でも、無意味だからといって何もないわけではない。そこには明らかに終末論的な示唆が含まれ、自殺や身体的苦痛のモチーフが繰り返されている。それに、変化がないというわけでもない。本編は二幕で構成されているけれど、この二幕の間には少なからぬ変化がある。
特に変化するのは脇役の二人、ポッツォとラッキーだ。ポッツォはラッキーの雇い主で、ラッキーを奴隷のように使役している。ラッキーは従順にポッツォに従っているけれど、たまに暴走してエストラゴンを蹴り飛ばしたり、劇中最大の雄弁を振るったりする。
ラッキー「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時かか間と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがて……」長すぎるから引用はやめておこう。
さてその主従二人が、第二幕では盲(めしい)と唖(おし)になっている。つまり、第一幕でラッキーの挙動に目くじらを立てていたポッツォが盲目となり、長広舌を振るっていたラッキーが聾唖となっているんだ。この変化は何かを意味するのだろうか。状況は刻一刻と悪くなっているようだ。
そして、第一幕と第二幕、共に騒がしさの波がある。序盤は物静か、中盤から終盤にかけては俄に喧しい。
さらに、第一幕よりも第二幕の方が終末論的色彩が濃い。以下は第二幕終盤に見られるヴラジーミルのモノローグだ。
ヴラジーミル「わたしは眠っていたんだろうか、他人が苦しんでいるあいだに? 今でも眠っているんだろうか? 明日、目がさめたとき、今日のことをどう思うだろう? 友達のエストラゴンと、この場所で、日が落ちるまで、ゴドーを待ったって? ポッツォが、お供を連れて過ぎた、そして、わたしたちに話しかけた? そうかもしれん。しかし、その中に、どれだけの真実がある? 墓にまたがっての難産。そして、穴の底では、夢みるように、墓堀人夫が鉗子をふるう。人はゆっくり年を取る。あたりは、わたしたちの叫びでいっぱいだ。だが、習慣は強力な弱音機だ。わたしだって、誰かほかの人が見て、言っている、あいつは眠っている、自分では眠っていることも知らない、と。(間)これ以上は続けられない。(間)わたしは何を言ってるんだ?」
彼の現実は既に崩壊している。語れば語るほどに世界は夢となる。
でも実は、演劇を身体的言語の芸術としてみる分にはきわめて多弁で多義的で、そこに無限の意味を汲み取り得るんだ。『ゴドーを待ちながら』の上演は、パントマイム並みに動きが多い。そのためだろうか、言葉としては意味をなさないこの演劇も不思議と詩的な響きをもっていて、なんなら人類全体を反映しているようにさえ思えてくる。あるいは、あなた自身の人生を。
『ゴドーを待ちながら』には次のような逸話がある。
「ゴドーを待ちながらの上演をみた監獄の囚人たちは、ゴドーとは彼らが待っている自由であると解釈した。テュニスにおいて、土地を持たない農夫たちは、ゴドーとは長い間待たされながら決して実現することのない土地分配のことだと信じて疑わなかった。ポーランドの人々には、ゴドーとは常に約束されながら全くなされぬロシアからの独立のことだと熱狂的に信じられていた」(※マーティン・エスリン『現代演劇論』)
待つという行為そのものの詩的なイメージと、これにまつわる七転八倒の身体言語が、このような解釈状況を呼び込んだのだろうね。それぐらい奇妙な作品だからこそ、シェイクスピア『ハムレット』と並び立つ問題作と呼ばれたのだろうし、不条理劇という一大ジャンルを作り上げることにもつながったんじゃないかな。
では、この不条理劇とは何なのか、念のため確認しておこう。
◆不条理劇とは?
不条理劇とは、人間の不条理性を不条理な表現を用いて描く演劇のことで、マーティン・エスリンが『不条理の演劇』の中で命名したものだよ。背景にあるのは、第二次世界大戦の衝撃と荒廃による、近代合理主義への懐疑。そして、キルケゴールやニーチェに始まり、サルトル、カミュへと流れ込む実存主義の潮流だね。わかりやすいのは、カミュの不条理小説との対比だ。例えばカミュの『異邦人』は、不条理な人間存在を伝統的で合理的なリアリズムの手法で描いていた。これに対して、ベケットやイヨネスコは合理的な台詞劇の形式自体を破壊して、不条理を不合理な手法で描いた。ヨーロッパの伝統的なリアリズムは、登場人物の行動が状況を変化させ、特定の目的を達成するか(※喜劇)、失敗するか(※悲劇)を描く。つまり行動と結果の結びつきが強固で、因果律の確証がある。これに対して不条理劇は、登場人物の行動がその因果律から切り離され、行動の意義が不確定になり、存在そのものが曖昧になる。例えば、登場人物を取り巻く状況が最初から行き詰っていて閉塞していたり、変化を望むくせにそのための合理的な行動を取らなかったり。また、言語によるコミュニケーションの不毛性に着目して、言葉を極端に切り詰めたり、無意味化したりする。一方で、劇そのものが無意味とは言い切れないのが不条理劇の特徴でもある。不条理劇の代表的作家であるウージェーヌ・イヨネスコやハロルド・ピンターの作品などは、全体主義批判という明確な政治的態度を持っていると考えられる。
ちなみにエスリン自身は、『現代演劇論』「不条理の演劇再考」の中で、自分が不条理劇というジャンルを唱えたのは現代演劇の中にみられる共通要素を指摘しようとしたのであって、個々ばらばらの性質をもつ作品を一つのカテゴリーに押し込めて価値判断をくだそうとしたわけではないと弁明しているよ。とはいえその共通要素を指摘したのには意義があったといえるだろうね。不条理劇は、物語を語るという近代演劇の常識から解放されたことによって、逆に演劇固有の身体性を取り戻し、演劇の終焉ではなく、新たな始まりをもたらしたんだ。
◆不条理劇はノンセンスじゃない?
キツネとしては、読めば読むほど面白いのが『ゴドーを待ちながら』だと感じているよ。最初に読んだときは「なんだこれ」って感じだけど、二回目に読むときは「あぁ、これはあのモチーフの繰り返しなんだな」って気づくし、三回目に読むときは「自分にとってはこういう意味を持つな」と模索するだけの余裕が生まれるし、四回目に読むときは「以前読んだときと印象が違うなぁ」って自分の変化に気づいたりする。全然意味が確定しないから、気楽に読めるのがいいんだね。逆に、真面目に解釈しようとする人は大変だと思うよ。アドルノがベケットに馬鹿にされたとか、高橋康也がノンセンス文学との関係を本人に確かめようとして失敗したとか、笑い話としてはよいかもしれないけれど、真面目に受け取るとどうだろうか。ゴドーって誰ですかと質問した役者がベケットから「知ってたら作品に書いてる」と言われて降板したという逸話もあるね、真面目だね。
ちなみに、不条理劇とノンセンス文学との共通性については高橋康也『ノンセンス大全』に詳しいから参照してみてね。キツネの私見としては、確かにノンセンスも不条理劇も共に論理法則を逸脱・崩壊させる志向をもつけれど、ノンセンスが有機物の無機質さを露呈するのに対して、不条理劇は明らかに肉体の生々しさを露呈しているよ。その方向性の違いから、ベケットがルイス・キャロルにもエドワード・リアにも興味を抱いていなかったのは当然かもしれないね。
まことしやかに噂される「ゴドーとはゴッドのことではないか」という説は、ただの勘違いだと思うよ。作中にはゴドーとは別にゴッドに対する言及があるからね。じゃあゴドーとは誰か? 決まってないから、きみが決めていいんだよ。ただ、その解釈が他の人にも当てはまるとは勘違いしないことだね。
みんなの解釈が折り重なって、互いに矛盾し、意味を剥奪しあうという闘いの場。ただそこに生きている肉体があるという演劇的現実。それに向き合う瞬間にこそ『ゴドーを待ちながら』は開演する。
というわけで、今日はサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』を台無し解説してみたよ。
ちゃんと台無しになったかな??
それでは今日のところは御機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(白水社)
マーティン・エスリン『不条理の演劇』(晶文社)
マーティン・エスリン『現代演劇論』(白水社)
高橋康也『ノンセンス大全』(晶文社)
エリザベス・シューエル『ノンセンスの領域』(白水社)
ウージェーヌ・イヨネスコ『ベスト・オブ・イヨネスコ』(白水社)
ハロルド・ピンター『ハロルド・ピンター全集』(新潮社)
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(KADOKAWA)
エドワード・リア『リアさんて、どんなひと?』(みすず書房)
◇動画版
https://youtu.be/9L44-onlXqc
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